契約を破る自由

日教組、教研集会全体集会を中止
 日教組は1日、今月2日から開く教育研究全国集会の全体集会を中止すると発表した。会場に予定していたグランドプリンスホテル新高輪(東京・港)の使用契約をプリンスホテル側に一方的に解除され、開催のメドが立たなくなったため。1951年に始まった教研集会の歴史で全体集会が中止に追い込まれたのは初めて。

 会場を巡っては、日教組の申し立てに基づき、東京地裁が今年1月、会場使用を認める仮処分を決定し、ホテルが東京高裁に対して行った抗告も棄却されている。集会の自由などを巡る論議を呼びそうだ。

 日教組は昨年3月、使用を申し込み、5月に契約が成立。7月に会場費の半額を支払ったが、11月にホテル側に契約解除を通知された。ホテル側は抗告棄却後も「他の客や周辺への騒音を考えると会場を貸すことはできない」として使用を認めない姿勢を崩さなかったため、日教組は会場使用を断念。参加者が2000人を超すため、代替会場の確保も難しいと判断した。(01日 20:01)

引用元

 似たような事案としてすぐに思い出すのが、泉佐野市民会館事件(最高裁平成7年3月7日第三小法廷判決、民集49巻3号687頁)なんだけど、あっちは、市民会館でこっちは私人のホテル。大分状況が違うんじゃないかなぁと思う。

 ただ、市民会館とホテルの差は誰もが認めてるところであって、考えが分かれるのは、契約を守るべきか否かという点にあるような気がする(その後会場使用について認める仮処分決定が出てるけど、これもホテル側は拒否しているのはまた別のお話)。

 一般に契約は守らないといけないのは、おおむね争いのないところだけど、じゃあ破る自由はあるんだろうか、と。ありていに言うと、もっといい条件があれば、前の相手方に損害賠償して破ってもいいのかと。
 契約の当事者からすれば、選択肢は多いほうがいいのであって、状況が変われば、判断も変わるだろうから、契約を破る自由を認める方向に行きやすい。
 
 でも、守るべきという規範と、破ってもいいという規範が果たして両立するのか、一般法秩序からするとちょっと疑問だったりする(もちろん論理的には両立するけど)。

 今回のホテルの判断は、契約したけれども、会場を使われると日教組に反対する「他の団体」が抗議活動などをして、(ホテルや宿泊客に)迷惑だから、という観点に立っているのでしょう。

 別に日教組の集会に抗議活動が伴うのは昔からであるし、ホテルに宿泊客がいるのも当たり前。つまり、契約の時点でこのような結果になるのは、ホテル側(の担当者)は分かっていたはずである。
 それをいまさら…ってのが、一般的な反応じゃないかなと思う。

 まぁ、事実関係については当事者で争いになってるらしいけど、上に書いたとおり、担当者が知らなかったとしたら、大いに常識を疑う。

 ホテル側としては苦渋の選択だったのかなと思う。
1.契約(と仮処分)を遵守し、右翼の抗議活動の中、会場を貸し、周りの警護もして、宿泊客に迷惑をかけながら営業。

2.仮処分も無視して、会場を使わせない。それによって、表現の自由に対する侵害とか言われながら、我慢。

 どっちもどっちだな。短期的な視点で見ると、2.は損害が少ないかもしれないけど、長期的な視点だと分からない。当事者はすぐに忘れちゃうけど、結構みんな覚えているもんだよね。