『組織不正はいつも正しい』

『組織不正はいつも正しい』中原翔 著

読後の感想
 「不正は悪である」というステレオタイプに挑戦し、その背後にある組織の構造や心理的要因を解き明かす内容は、多くの示唆に富んでいます。組織不正を他人事と捉えず、自分たちの身近な問題として考えるきっかけとなる一冊です。
 明快な分析と豊富な事例で納得感が高い反面、議論が専門的になりやすいため、やや難解な部分もあります。しかし、読み応えがあり、考えさせられる内容です。

 本書は、「組織不正」がなぜ繰り返されるのか、そしてその背後にある構造や心理について、具体的な事例を交えながら解説しています。著者は、組織不正が単なる「悪意」や「倫理観の欠如」ではなく、時に組織の「合理性」や「正当性」の枠組みの中で生じることを指摘します。東芝の不正会計や組織内部の統制の問題、さらには多様性が組織不正を防ぐ可能性に至るまで、幅広い視点で議論を展開しています。

 例えば、組織は短期的な利益や目標達成のために、不正行為に手を染めることがあります。しかし、その行為は長期的な視点では必ずしも合理的でありませんでした。
 著者は「非効率性の合理性」や「不正の合理性」という概念を通じて、不正がどのようにして組織内で正当化されるのかを説明しています。
 この「正当化」というのが肝です。従業員の心理としては当然不正は良くないと感じていますが、組織の論理がその不正を正当化してしまうのです。

 また、内部統制は不正を防ぐための重要な仕組みですが、完全ではありません。「監視されているから不正は起きない」という前提は危険であり、時に統制の網目をくぐる形で不正が発生します。
 興味深いのは、アメリカ型不正(利益追求)と日本型不正(会社存続)という対比でした。日本型不正として例に上がっていた東芝の事例では、不正によって得られた利益が組織にとって「小さすぎる」点が問題の本質として議論されています。

 また、組織不正を防ぐ組織作りの可能性として。女性役員やジェンダーの多様性が示唆されていました。組織に多様な視点を取り入れることが、不正行為の抑止力となる可能性がある点は、実務的にも注目すべきポイントでした。

 「発生型不正」(明確な原因がある不正)と「立件型不正」(捜査機関による立件ありきの不正)に分類することで、従来の理解をさらに深めることができました。

 本書の最大の魅力は、「不正」というネガティブな行為を単なる倫理問題として片付けず、その背景や構造にまで踏み込んで考察している点にあります。著者は単に企業の事例を挙げるだけでなく、「合理的であろうとする組織が、なぜ不正に陥るのか」を科学的に分析しており、多くの気付きがありました。
 特に、東芝の事例を通じて描かれる「利益がほとんど得られないにもかかわらず続けられた不正」は、組織が目先の目標やプレッシャーに囚われた結果、非効率的な選択肢を採ることがある点を浮き彫りにしています。
 一方で、現場やリーダーの責任感の欠如、組織内部のチェック機能の限界といった具体的な問題点も明確に描かれており、読者が職場での実践に活かせるヒントが随所にあります。

印象的なくだり
ところで、なぜこのような組織不正があとを絶たないのでしょうか。いくつかの理由が考えられますが、一つには組織が不正をすることによって多くの利益を生み出しやすいと考えられるためです。例えば、不正会計がそうです。本書で言えば、第三章の東芝の不正会計問題です。本来であれば、「短い時間」でそこまで多くの利益を生み出せないにもかかわらず、東芝は不適切な会計処理をすることで短時間に多くの利益を生み出そうとしました。利益の水増しは、多くの利益を生み出すためによく利用される方法です。
でも、組織不正が発覚したあとのことを考えると、多くの人々は「組織不正を避けるべきだ」と考えるのではないでしょうか。あるいは、「組織不正と疑われるようなことはやめよう」と思うのではないでしょうか。
というのは、組織不正がひとたび発覚すれば、企業の株価や評判などは下がりますし、時には多くの罰金を払う必要もあるからです。最悪の場合、企業は倒産してしまう場合もあります。より大きな企業であるほど、倒産した時の影響は計り知れないものですから、あとから取り返しがつかなくなってしまいます。こう考えると、組織不正を行わない方が得策にもかかわらず、それでも組織不正に手を染めてしまう企業が少なくないのです。
本書では、このように組織不正を行わない方が得策にもかかわらず、なぜ組織不正があとを絶たないのかを考えていきたいと思います。とりわけ、組織不正がある種の「正しさ」において生じたものとして考えることによって、組織不正が私たちにとって身近な現象であることを明らかにしていきたいと思っています。詳しくは、本書で事例も交えながら説明していきますので、各章を自由にご覧いただければと思います(P.007)。

内部統制とは、簡単に言えば、組織内部での不正が起きないように、人々を統制(コントロール)する仕組みのことです。
このような内部統制制度は、大企業を中心に積極的に拡充されており、日頃の業務活動がくまなく監視される状況にあると言えます。日頃の業務活動がくまなく監視される状況にあるというのは、私たちが日頃仕事をしている時には必ずと言っていいほど、誰かのチェックを受けなければならず、たった一人で不正を行おうと思っていても、その疑いを指摘されてしまうということを意味しています。
したがって、明確な意図をもって不正を行おうとしていても、結局誰かに指摘されてしまう、あるいは不正が起きる前に「これはおかしい」と書類の修正などを求められてしまうのです(P.024)。

一般的に、組織は合理的に活動することによって物事を前に進めるのですが、合理的に失敗してしまうのです。なぜでしょうか。菊澤先生によれば、この合理的失敗は次の二つが原因となっているとされています。それらは、次のようなものです。
一、たとえ現状が非効率的であっても、より効率的な状態へと変化・変革する場合、コストが発生し、そのコストがあまりにも大きい場合、あえて非効率的な現状を維持する方が合理的となるという不条理〈非効率性の合理性〉
二、たとえ現状が不正であっても、正しい状態へと変化・変革する場合、コストが発生し、そのコストがあまりにも大きい場合、あえて不正な現状を維持隠ぺいする方が合理的となる不条理〈不正の合理性〉(P.041)。

不正会計を、アメリカ型不正会計(利益追求)と日本型不正会計(会社存続)として比べられているのが澤邉紀生先生です。ここでは、澤邉先生の論文から一節を引用してみたいと思います。
アメリカ型不正会計の私利追求という動機、旧来の日本型不正会計のお家を守るという気持は、ともに不正によってそれを上回る利益を得ようとしたという意味で合理的である。しかし、東芝では、会社としても個人としても、誰も大きな利益を得ることがないにも関わらず不正が行われた。通常ならば、善良な市民である優秀な東芝の従業員が、なぜこのような不正に長くにわたって染まってしまったのか、その背後にある構造が現代社会における会計の力を物語っている。
東芝問題の本質を理解するヒントは、会計不正によって得られた利益の小ささにある。2015年7月に公表された第三者委員会報告書によれば、会計操作によってかさ上げされた利益は1500億円程度である。7年間の累積で約1500億円であるから、1年あたり220億円である。同期間の1年の売上高が6兆円あまりであるから、会計操作によってかさ上げされた利益額はその0.3%にしか過ぎない。純利益が約2000億円であるから、1割弱の比率である。1500億円という金額も、220億円という金額も決して小さなものではない。しかし、東芝というブランドを毀損してまでして得られる利益としては小さすぎる。実際に、会計操作の影響を除外して東芝の財務分析を行なっても、全体として大きな違いはない。会計操作をしてもしなくても、東芝全体としての財務状態に大きな違いはなかったのである(P.099)。

つまり、「自分たちの製品はこういう理由で外為法に違反しない」と考えていたとしても、ある日突然、捜査機関によって逮捕や起訴されてしまうことがあるのです。
これは、第一章で述べた「立件型不正」の典型です。組織不正には組織に明確な発生原因のある「発生型不正」だけではなく、捜査機関があらかじめ立件することを決めてかかり、その逮捕や起訴に乗り出す「立件型不正」があります(P.153)。

これは一般的な組織で考えれば、管理者・監督者の判断に対して最終的な決裁権限をもつ人物が部下の判断を鵜呑みにして、そのまま決裁を行うような構図に似ていると思います。最終的な決裁権者は、「部下がそう言っているから」とか「自分は直接管理したり、監督したりしているわけではないから」などと言って、責任を放棄してはなりません。
それは最終的な決裁権者である限り、そこに一人の人間としての判断が必ず介在しているからです。つまり、決裁権者もまた管理者・監督者の一人であり、その自覚をもたなければならないからです。
そういう自覚なしに確認印だけを押すようなことがあれば、一体何のために稟議制度において多段階の確認をしているのかが分からなくなってしまいます。何より管理者・監督者が誤った判断をしていることを想定して最終的な決裁権者を置いている組織が多いでしょうから、その判断を疑う目をもたなければならないのではないでしょうか(P.184)。

ここでは、女性役員と銀行不正の関係を論じているバーバラ・カスの研究を紹介したいと思います。カスは、欧州大手銀行の取締役会の多様性とこれらの銀行が米国政府から科せられる罰金の関係を調べています。
その結果分かったのは、女性役員の割合が多い企業の方が、不正行為に対する罰金額や頻度が減っており、平均して年間七八四万ドルを削減しているという事実です。
この詳細についてカスは、ハーバード・ビジネス・レビュー誌のインタビューにおいて次のように話しています。「結果は明らかなもので、適度に説得力のあるものでした。取締役会に女性の割合が多い金融機関は、罰金の頻度も少なく、罰金そのものも軽いものであったのです。(中略)言い換えれば、取締役会に女性が多かったからではなく、取締役会が全体的に多様性に富んでいたこと、つまり様々な年齢、国籍、役員や非役員を代表するメンバーがいることなどがより良い結果をもたらしたのかもしれません。結局、重要なのはジェンダーの多様性だったということです。ただし、他の多様性も罰金の減額に寄与している可能性を認める必要があります」(P.215)。

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『剣持麗子のワンナイト推理』

『剣持麗子のワンナイト推理』新川帆立著

新川帆立による『剣持麗子のワンナイト推理』は法律の専門知識や弁護士という立場から人間社会の複雑さを解き明かし、読者に倫理的な問いを突きつける。
表面的にはエンタメ小説の形を取りながらも、実際には現代社会における権力、倫理、そして人間関係のひずみを深く掘り下げている点で、他のミステリーとは一線を画している。

主人公・剣持麗子の魅力
剣持麗子は、ただの敏腕弁護士ではない。彼女は、鋭い知性と冷徹な合理性を併せ持ち、常に法律の文脈の中で行動する。
彼女の一貫した姿勢は、法律の役割と限界を読者に示す一方で、彼女自身の人間性の輪郭を浮かび上がらせる。
例えば、冒頭で警察官に対して「権力を持つ者は、自らの権力に無自覚なわりに、権力を妄信している」(P.030)という鋭い洞察は、弁護士という立場から見た社会構造への批判を端的に表している。
このような視点は、読者に法律や権力の在り方を再考させるきっかけを与えるとともに、剣持の性格に深みを持たせている。

本書の中で特に興味深いのは、主人公の倫理観だ。
麗子は「無償で働く優しい人になんか、なりたくない」という独白で、自己犠牲を求める社会の風潮に強く反発する。
これは、多くの読者にとって一種のタブーとも言える感情だが、それを臆することなく吐露する彼女の姿勢は爽快でもある。

この考え方は、現代社会の「弱者性」を盾にした要求や、「善意」の濫用といったテーマを浮き彫りにする。
剣持の冷徹さは一見すると冷酷にも映るが、彼女が語る「真っ当な商売をしている者の肩身が狭くなる」という意見には説得力がある。
この冷酷さの裏に潜むのは、むしろ「公平性」へのこだわりなのだ。
この「公平性」を追求すると、むしろ弱い立場に置かれるものが不利になるように思うが、法律が担保している公平性とは「機会の公平性」であって「結果の公平性」ではないのです。

麗子自身もまた、完璧な正義の体現者ではない。彼女は時に迷い、時に妥協する。
だがその姿勢こそが、読者に「正しさ」についての多様な視点を提供している。

また、作中では「直接会って話したがるクライアント」への苛立ちや、メールを通じた効率的なコミュニケーションの推奨など、日常の中での人間関係の煩雑さや効率化のジレンマも扱われている。
これらの描写は、麗子が現代的な視点を持つ弁護士であると同時に、読者が共感しやすいキャラクターであることを示している。

剣持麗子というキャラクターを通じて、読者は自分自身の「正しさ」と向き合うことを余儀なくされるだろう。

印象的なくだり
弁護士は警察捜査をスムーズに進めるために存在するわけではない。私を現場に呼んだら、より厄介なことになるとは考えないのだろうか。
きっと考えないのだろう。
権力を持つ者は、自らの権力に無自覚なわりに、権力を妄信している。周りの者たちは当然のように指示に従い、協力してくれるものと思っている。反抗的な態度をとると、「まさか、信じられない」という態度を示すのだ。
協力してもらって当たり前、反抗的な者には容赦なく権力を振りかざす(P.030)。

黒丑の件は、報酬目当てで働いたわけではなかった。警察の対応に腹が立っただけだ。だが働いた以上は報酬を払ってほしい。
世の中の人はそんなことも分からないのだろうか。
無償で働く優しい人になんか、なりたくない。
困っているから、お金がないから助けてくれと言ってくる人たち。その図々しさに虫唾が走る。力を持っている者には何を言ってもいいと思っているのだ。弱者の脅迫、大嫌いだ。脅迫に応じる心優しい人たちのことも嫌い。そういう人がいるから、真っ当な商売をしている者の肩身が狭くなる(P.079)。

メールでやりとりしたほうが話が早いことも多い。事務手続は口頭で説明しても伝わりづらいのだ。メールで要点をまとめて、必要な書類のフォーマットを送ってやったほうが親切である。だがたいていのクライアントは、直接会って話したがる(P.131)。

「こうすれば儲かると分かっていても、それはやってはいけないという境界線があるのよ。普通の人は境界線で立ち止まって引き返す。それなのに私は、突き進んでしまったのよ」
容子は死に、牧田原には前科がついた。瀬戸は保険金を手に入れたが、すぐに夫の会社が倒産し、会社の債権者への支払いで手元には一円も残らなかった(P.224)。

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『タルピオット』イスラエル式エリート養成プログラム

『タルピオット』イスラエル式エリート養成プログラム
石倉洋子著

「タルピオット」とはイスラエルにおけるエリート養成プログラムのことです。

「タルピオット(Talpiot)」は、イスラエル国防軍(IDF)が運営するエリート養成プログラムの名称です。1979年に始まったこのプログラムは、科学技術の分野で優れた才能を持つ若者を発掘し、国防や先端技術の開発に活用することを目的としています。名前の「タルピオット」は、ヘブライ語で「要塞の頂上」や「最高峰」を意味し、卓越した能力を象徴する言葉として採用されました。

読後の感想
この本は、イスラエルの特殊性とその成功の秘訣を、国家規模のエリート養成プログラムや経済政策を軸に深く掘り下げた一冊です。
移民国家であるイスラエルの特異な社会構造と、それに起因する挑戦と創造の文化を背景に、現代の課題に応える国際的な成功例としてのイスラエルを描き出しています。

本書は、イスラエルという国の特殊性を単なる歴史や制度の解説にとどめず、イノベーションを生み出す文化や哲学を描き出した、極めて実践的な内容を持つ一冊です。
移民国家という多様性、政府と民間の一体的な取り組み、そして疑問を歓迎し挑戦を推奨する文化が、イスラエルを「世界のスタートアップ大国」たらしめています。
この本は、単にイスラエルを知るためのものではなく、日本企業や個人にとっても変化を促すきっかけとなるでしょう。
読者は、本書を通じて「変化を恐れず、根本的な問いを追求する」ことの重要性に気づくはずです。
そしてその先には、現状の枠を超えた成長と新しい可能性が広がっているのです。

本書の冒頭では、イスラエルが移民国家であることが強調されます。
いわゆる「帰還法」の制定以降、世界中からユダヤ人が移り住み、その結果、人口が建国当時の約60万人から現在の約900万人へと増加した事実は、その移民政策の成果を如実に物語っています。
特に1990年代、ソ連崩壊による大量の高学歴移民の流入は、科学者や技術者の増加という形で、イスラエルの産業構造に大きな変革をもたらしました。
ここで重要なのは、この移民の多くが「頭脳労働者」であり、彼らの知識と経験がイスラエルの経済発展を牽引した点です。
このような移民政策がもたらす「人的資源の多様性」が、イスラエルの強みとなっていることは間違いありません。移民国家としての特異性は、文化の多様性と高い適応力を生み、結果としてイノベーションを支える基盤となっています。

また、イスラエルのスタートアップエコシステムを象徴するのが、1993年に導入された「ヨズマ」プログラムです。
この取り組みは、政府がリスクを分担することで民間投資を呼び込み、さらにその成果を投資家が享受できるという画期的な仕組みを生み出しました。
資金だけでなく、国際的な連携や市場アクセスを提供するこのプログラムは、イスラエルを「スタートアップ大国」に押し上げる重要な役割を果たしました。

石倉氏は、この政策の背景にある「国家としての戦略」を高く評価しています。
イスラエルは、戦争やテロのリスクにさらされる中でも、政府と民間が一体となってリスクを最小化し、成長のための新しい道を切り開いてきました。
このような政策が、他国にはないスピード感と革新性を可能にしているのです。

「疑う文化」が生むイノベーション
イスラエルの人々の思考方法について、石倉氏は「指示された通りにやることを良しとせず、常に『自分なりのやり方』を探求する」という点を指摘しています。
この「疑う文化」は、徹底的に課題の本質を考える姿勢を生み、それがイノベーションの原動力になっていると言えるでしょう。
たとえば、企業がグローバルなプロジェクトを指示する際、イスラエルのチームは単なる受け身ではなく、より効果的な解決策を提案してくるというエピソードは、まさにその一例です。
このような文化は、イスラエルの教育や兵役制度、さらにはエリート育成プログラム「タルピオット」そのものにも反映されているのです。

兵役がもたらす連帯感と成長
日本人が抱く「兵役」に対する否定的なイメージとは異なり、イスラエルでは多くの若者にとって兵役が成長の場として位置づけられている点も興味深いものです。
本書は、兵役が単なる義務ではなく、人生における大きな経験として捉えられている様子を描き出しています。
この集団生活や厳しい訓練の中で培われる絆や自己成長が、国民全体の連帯感を育み、さらには国防軍を「社会の学校」として機能させています。

「やめること」を探す哲学とビジネスへの提言
本書の後半では、日本企業への提言も述べられています。
特に「やめることを探す」という哲学は、忙殺されがちな現代のビジネスパーソンに対する重要なメッセージです。
時間や資源を効率化し、新しい挑戦に集中するためには、不要なことを「やめる」決断が必要だという主張は、イスラエルの効率性と実行力を象徴するものでもあります。

印象的なくだり
ソ連崩壊で急増した高学歴移民
もともとイスラエルは移民の国だ。建国2年後の1950年には「帰還法」が制定され、ユダヤ人であれば無条件にイスラエルに移り住む(=「帰還」する)ことが出来るようになった。
世界各地から次々にユダヤ人が移り住み、建国当時約60万人だった人口が、現在は約900万人と10倍以上に増加している。
今のイスラエル国民の3分の1が国外生まれ、9割が移民や移民の子・孫世代とされている。
特に移民が急増したのが1990年代だった。ソ連の崩壊で、1990年には年間約18万人、1991年には約15万人、以降も2000年まで毎年5万~6万人がイスラエルに移民した。
このグループに特徴的だったのは、多くの医師や科学者、エンジニア、技術職がいたことだ。旧ソ連からの移民の3人に1人が科学者やエンジニア、技術者だったというデータもある。博士号を保有していた人も多かった(P.043)。

ベンチャーキャピタルは、ただ資金を供給するだけでなく、ほかの投資家や新規の見込み顧客、提携相手を紹介するなど、商品化して企業を成長させるためのサポートも行う。しかしこの時、海外投資家たちにとってもイスラエルは「戦争とテロの国」。積極的に投資しようというペンチャーキャピタリストはいなかった。
足りないピースを埋めることになったのが、1993年に生まれた「ヨズマ」(ヘブライ語で「イニシアチブ」)ブログラムだ。政府が1億ドルを投資して、海外のベンチャーキャピタルと連携し10件ものベンチャーキャピタルを立ち上げたのだ。
それぞれ、政府が40%、民間が60%を出資。さらに、政府の出資分を民間が安く買い取れるようにした。つまり、政府がリスクを共有しながらも、成果のすべては投資家が得られることになる。投資家にとっては非常に有利な条件だ(P.045)。

アビームコンサルティングで、イスラエルのスタートアップとの協業支援を担当する坂口直樹氏の指摘はおもしろい。「グローバル企業の本社が、世界各地の研究開発拠点に指示を出すと、ほかの国からは指示通りのものが仕上がってくるが、イスラエルだけは『指示されたやり方よりこの方が、根本の課題解決には効果的だ」と、指示とは違うものが上がってくるといった話をよく聞く」という。
2014年からイスラエルに住む起業家の寺田彼日氏も、イスラエル人について、「仕事の依頼があると、言われた通りにやることは少なく、『(指示されたやり方ではなく)こっちのやり方の方がいいと思う」と、必ず自分なりに工夫してやろうとする」と話す。
徹底的に「疑う」ことでイノベーションが生まれる(P.053)。

日本で「微兵制」というと、どうしても戦前・戦中の旧日本軍を想起させ、非常にネガティブなものだととらえられる。しかしイスラエルの若者の多くにとって、兵役は「初めて親元を離れて暮らせる」楽しみなイベントである側面も強いようだ。
親や親戚などの周りの大人も、兵役時代を貴重な経験として語り、懐かしい仲間と顔を合わせることのできる予備役の召集を楽しみにする人も多い。もちろん、集団生活や厳しい訓練、「戦い」への抵抗感などから兵役を嫌がる若者や、イスラエルのパレスチナ占領政策に反対して兵役拒否をする若者もいるが、日本人が想像するよりもイスラエル人の国防軍に対する感情はポジティブだ(P.067)。

もはや待てない「内部から」の改革
世界のリーダー企業(GAFAM・BATなど)は、自社の研究開発に膨大な投資をするだけでなく、先進的なサービスや技術、ビジネスモデルを持つスタートアップの可能性を見極め、早いうちから買収したり、技術を取り込んだりして、競争優位を維持・向上させている。これらの企業は、世界がすさまじいスピードで変化しており、不確定要素が多いなかで、いくら膨大な資産を持っていても、すべてを自社でまかなうやり方は通用しないばかりか、生き残ることさえ難しいと認識しているのだ。そしてこうした認識が、スタートアップの取り込みに拍車をかけている(P.124)。

「何か変」に敏感になろう
日本のビジネスパーソンは、組織の「空気を読む」「忖度する」ことが大事だと思い込んでいる人がとても多い。「これは何か違うのではないか」と感じることがあっても、「『何か違う」と思う自分が間違っている」と、すぐに打ち消そうとしてしまう。せっかく問題の芽に気付きかけても、自分でそこにふたをしてしまうのだ。とてももったいないことだと思う。
私は、特に若者を対象にしたセミナーではよく「『何か変」という違和感を大事にしてほしい」と話している。そこから問題を掘り下げ、原因や解決策を考えるクセをつけてほしいのだ(P.168)。

「やめること」を探し、時間を確保しよう
そこで提案したいのが、「やめること」を探すことだ。アイデア出しのテーマとして、「やめること」の案をたくさん集める。いくつかに絞り込んだあと、さらにそれぞれの案について「○○をやめたらどうなるか」を考えてみる。やめることで起きる不都合はどんなことがあるか。やめることのメリットと、不都合は、どちらが大きいか。その不都合を解消するための代替案はないか。
すると、「やめられない」と思っていたのは実は思い込みで、なくても十分回る、起きる不都合は別の方法で解決できる、ということが見えてくる。
特に考えたいのは、会議の整理だ。報告を目的とした会議ならば、グループウェアの活用で代替できないか。どうしても必要な会議ならば、事前のアジェンダ設定や資料共有で、時間を半減できないか。参加人数を減らせないか。アイデアを持ち寄り議論する会議ならば、Web会議システムを使ってもっと効率よく時間設定ができないか。見直しの視点は数多い。
企業だけでなく、個人でも同様だ。私は毎年、年始には、「新しく始めること3つ、やめること3つ」を決めるようにしている。新しいことにチャレンジすることはもちろん必要だが、そのための時間を捻出するためにも、自分の行動を振り返って、やめることも3つ選ぶ。習慣になっていることも多いし、どれも必要に思えてしまうので、やめることを決める方が難しい。しかし、企業も個人も、成長し続けるためには、こうした見直しが不可欠だと考えている(P.190)。

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『透明な螺旋』

『透明な螺旋』東野圭吾

読後の感想
東野圭吾の最新作『透明な螺旋』は、人気シリーズ「ガリレオ」における主人公・湯川学の人間性に深く迫りつつ、推理小説としてのスリルと仕掛けを提供しようと試みています。しかし、本作は推理部分において期待を裏切る面もあり、これまでのシリーズとは異なる読後感をもたらします。湯川学という個性が際立つ一方で、物理学的要素を巧みに絡めたトリックが少なく、従来のガリレオシリーズとは一線を画す仕上がりです。

まず、本作のタイトルにある「透明な螺旋」は、DNAの二重らせん構造と血縁関係のないことを暗示していると考えられます。DNAに象徴される「見えない繋がり」が、登場人物たちの人間関係や複雑な家族の絆にどのように影響を与えているかが物語の重要なテーマとなっています。しかし、タイトルに込められた謎解きのヒントに期待しすぎると、推理小説としてはやや凡庸さを感じざるを得ません。本書は心理描写や人間関係の複雑さに焦点を当てており、これまでのシリーズで描かれた科学的なトリックが控えめな点は賛否が分かれるでしょう。

主人公の湯川学は相変わらずのカリスマ性を持っていますが、その個性が強調されすぎてしまったことで、肝心の推理が彼のキャラクターに埋もれがちです。本作では、「ピンクと青の人形」や「男女どちらとも解釈できる名前」などがヒントとして登場し、湯川はこれらに翻弄される形で謎解きに挑みますが、読者にとってこれらのヒントが物理学的視点と直結しないため、物理学者としての湯川の切れ味がいまひとつ発揮されていません。シリーズファンとしては、物理の知識を駆使した湯川の推理が物語を牽引していくのが「ガリレオ」シリーズの魅力でしたが、今回はその点で物足りなさを感じてしまうかもしれません。

物語が提示する仮説も、物理的・科学的な根拠が弱く、事件の推理が湯川らしい理論的な思考で展開されないため、シリーズとしての魅力がやや薄れてしまった印象です。ガリレオシリーズにおける「科学捜査」の要素が薄れ、湯川のキャラクターそのものに頼っている点は、ファンとしては期待と異なる部分かもしれません。

一方で、湯川学の人間的な側面を深掘りする展開は本書の見どころの一つです。彼の知的な分析や冷静な思考に裏付けられた人間観、特に人と人との絆や距離感についての考えが色濃く描かれており、湯川をより人間らしく描くことで、推理小説という枠を超えた人間ドラマとしての厚みが増しています。湯川の人物像に迫る点で、本書はシリーズに新たな側面をもたらしたともいえます。湯川が抱える葛藤や、その背景にある過去の事件と現代の事件との繋がりが彼の内面にどう影響を与えているのかを読み解くことで、新たな魅力が感じられるでしょう。

また、短編「重命る」に比べると、推理のしっかりとした組み立てが弱いと感じる点もあります。「重命る」は短編でありながら、密度の高い謎解きと湯川のキャラクターが際立っており、東野圭吾ならではの緻密なプロットが見事に生かされています。それに比べると、『透明な螺旋』は長編としてのスケールはあるものの、推理小説としての緊張感や構成力においては短編の良さを超えていないと感じられる部分もあり、やや冗長さが残る構成です。

『透明な螺旋』は、ガリレオシリーズとして新たな試みをしつつも、これまでのシリーズと比較すると、推理小説としての印象は薄く、むしろ人間ドラマとしての側面が強く出ている作品です。湯川学の人物像により深く触れたいファンには新鮮な一作であるものの、湯川の鋭い推理が繰り広げられるスリルを求める読者には少々物足りないかもしれません。

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『地面師たち ファイナルベッツ

読後の感想
『地面師たち ファイナルベッツ』は、登場人物が次々と転落し、追い詰められていく心理描写が圧巻のクライムサスペンスです。
特に主人公的な立ち位置である稲田の精神的な変容が見どころで、最初はまだまともな感覚を持ちながらも、徐々にその倫理観を失っていくさまが怖ろしいほどに描かれています。
この物語が進むにつれ、稲田は数々の犯罪に手を染めていき、狂気と欲望の狭間で揺れ動きます。
作品を通じて、人間が持つ脆さや歪みが浮き彫りにされ、読者は手に汗握る緊張感を味わうことができます。

特に替え玉が致命的なミスを犯し、交渉相手の疑念が一気に膨れ上がる場面は、物語の真骨頂と言えるでしょう。
相手に「流れ」を奪われたとき、その状況を覆すのがいかに難しいかを著者は見事に表現しており、交渉ごとにおける緊迫感がリアルに伝わってきます。
一度形成された流れはそう簡単に変えられず、それがビジネスや犯罪の世界でいかに重要かを感じさせられるエピソードです。

また登場人物が頭の中でドラマキャストに置き換わりながら読んでしまうのも、この物語の強い魅力とリアリティゆえでしょう。
ハリソン山中や辻本拓海といったキャラクターがドラマのキャストである豊川悦司や綾野剛に重なるように、視覚的にも臨場感が伴っていました。
特にサクラの描写にはイメージが広がり、池田イライザのような印象が際立ちます。

ただし、登場人物の一人・マヤについては、ハニートラップを仕掛けて性的な場面を利用するという強引な手法がやや目立つ印象を受けました。
彼女が記号的で万能すぎるキャラクターに感じられる部分もあり、狙った相手を確実に落とす手段が同じパターンに頼りすぎているようにも見えます。

本書で特に印象に残ったのは、目的のためには手段を選ばない人々の非情さです。
快楽に溺れるターゲットの川久保を操るマヤや、冷徹な交渉術を操るハリソン山中の姿が、不気味な存在感を放っています。
また、「金がすべて」という価値観が浸透した世界のなかで、弱者の心理や人間の欲望の描写が生々しく、現実のビジネス社会を風刺する要素も見受けられます。
キアスというシンガポールの俗語も効果的に使われ、登場人物たちの野望と競争心が表現されているのも印象的です。

『地面師たち ファイナルベッツ』は、金と欲望に支配された現代社会の裏側を赤裸々に描き、読者に深い余韻と警鐘を残す作品です。

印象的なくだり

ハニートラップにかけられているとも知らず、快楽に溺れる川久保に同情するというより、リー・クアンユーのように目的のために手段をえらばないマヤやハリソン山中という人間が不気味だった(P.067)。

まだ稲田がまともな感性をしているときの描写。このあたりのエピソードは、読者は稲田に親近感と好感を抱くエピソード満載で、珍しくほっこりする部分です。

「宏彰さん、俺も一枚もらっていい?」
白地の名刺を受け取って見ると、それらしい偽名と社名に代表取締役の肩書、シンガポールの住所、携帯電話などの連絡先が日本語と英語で記されている。奇妙なのは、名刺の一辺に切れ込みがあり、袋状になっている点だった。
「なんで、こうなってんの?」
細工がほどこされた切れ込みの部分をしめす。
「名刺なんて渡されて喜ぶの、就活中の学生くらいでしょ。こんな中年のオッサンなんか、普通は相手にされないじゃん?」
「オッサンには見えないけどな」
細い体にフィットしたネイビーのジャケット姿は若々しい。それに感化され、いま身につけている自分のスーツも、シンガポールのオーチャードロードにある宏彰のなじみの店で仕立ててもらった。
「ところが、こん中に万札を何枚か仕込んどくと、ドラえもんのポケットみたいにミラクルが起きる」
「なるほど」
露骨な力技に笑ってしまった。
「でもさ、さっきの娘にしたって、若い客室乗務員ってだけで、いろんな客からちょっかい出されまくってるわけよ」
宏彰の話しぶりに興が乗ってくる。
「少ない給料で面倒臭い客をいなし、先輩のいびりに耐え、大森町のワンルームアパートに帰っても、合コン用のファッション代を捻出するために、深夜のコンビニで買った春雨スープで空腹をしのがなきゃなんない。そんなときにさ、機上の客からもらった名刺に乗務手当何回分かの万札が入ってるのに気づいたら、ヌレヌレになって、感謝のメッセージのひとつも送りたくなるのが人情ってもんじゃない」
宏彰はしたり顔で、
「やっぱり金なのよ。この世はどこまでも」
と、シャンパングラスをかたむけた。
(P.086)。

CAさんの生活の解像度が高すぎなんだけど、実際の取材の賜物なのだろうか。

「ケビンは、『キアス』な感じないもんね」
キアス―シンガポール人の国民性をあらわす俗語としてしばしば使われる。よく言えば、他人に先んじてチャンスをつかむといった競争心や上昇志向、悪く言えば、他人より劣っていたくないといった虚栄心や優越感といった意味合いになるだろうか。父がまさにキアスを体現していた。父の血が流れている自分にも、深いところでキアスが根を張っているのかもしれないが、キアス的な振る舞いは無自覚のうちに避けてきた。(P.154)。

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