映画『シャイロックの子供たち』

映画『シャイロックの子供たち』を鑑賞しました。
銀行を舞台にしたクライムエンターテイメントで、主演の阿部サダヲが持つ独特の存在感が作品のトーンを変えているのが印象的です。
現実味が強くシリアスな設定でありながら、阿部サダヲの演技によって硬派な雰囲気が和らぎ、ある種の軽妙さが加わっています。このキャラクターの存在が、金融サスペンスでありながらもエンターテイメント性を高め、物語全体に親しみやすさを与えていました。

物語は銀行内で発生した現金紛失事件をきっかけに進行します。内部の過去の横領や不正が明らかになっていく展開は、銀行という清廉さを求められる職場の裏に潜む人間の欲望がリアルに描かれています。
しかし、単純に「お金が欲しい」という動機ではなく、登場人物の欲望が競馬に集中しているのが面白いポイントです。このギャンブルの執着が、人物の動機を記号化し、軽妙さを漂わせていて、観客もどこか滑稽な印象を受けてしまいます。金銭目的が絡む犯罪でありながら、どこか風刺的でユーモラスな雰囲気が感じられる点は、本作の特徴と言えるでしょう。

また、タイトルにある「シャイロック」は、シェイクスピアの『ベニスの商人』に登場する高利貸しのキャラクターです。この設定により、金融業に携わる人々が金銭を巡る冷徹さと無情さを内包する職業であることが暗示され、観客は銀行員たちが心の奥底に抱える「シャイロック的」な性質を見出します。銀行員の仕事の中でお金が絡む事件が発生することで、彼らが抱える葛藤や欲望も浮き彫りにされ、シェイクスピアの原作のテーマと重ね合わせた皮肉が込められているように感じました。

一方で、設定には少し「?」と思う点もあります。ヤミ金が契約書を作成するシーンや、銀行が抵当権抹消登記に必要な印鑑証明書の期限を切らしてしまう場面など、現実の銀行業務を知る人には不自然さが目立ちました。ヤミ金が契約書を交わすのは現実離れしていますし、銀行が重要書類の管理でミスをするのも通常ではあり得ないことです。こうしたリアリティの欠如は一部観客にとって気になるかもしれませんが、エンターテイメントとしてフィクションの自由を楽しむ要素として見ることもできます。

本木克英監督は、これまでも『超高速!参勤交代』や『釣りバカ日誌』シリーズといった幅広いジャンルの作品で知られており、ユーモアと人間ドラマを融合させる手腕に長けています。社会の中で人々が抱える葛藤や人間関係の微妙な機微を描くことに定評があり、本作でもその持ち味が十分に発揮されています。銀行という堅い世界を舞台にしながらも、コミカルさや人間らしさが随所に散りばめられているのは、本木監督ならではの演出力といえるでしょう。

総じて、『シャイロックの子供たち』は、銀行内部の事件を通して人間の欲望や利己心が描かれる一方で、阿部サダヲが演じる主人公の存在が作品を軽妙に仕上げており、重苦しいだけではない、エンタメ性の強い作品となっています。銀行業務のリアルさに一部違和感があるものの、その分映画的な楽しさを優先した作りとなっているため、観客を飽きさせることなく引き込む魅力が感じられました。本木監督の過去作と比較しながら観ることで、さらに作品の奥深さとユーモアを味わえる一作だと思います。

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「はちどり」

「はちどり」
監督 キム・ボラ
出演者
パク・ジフ
キム・セビョク
イ・スンヨン
チョン・インギ
パク・スヨン

あらすじ
舞台は1994年の韓国ソウル。主人公は女子中学生のウニ。家族構成は父、母、兄、姉の5人。両親は自営業で忙しく、兄は受験ストレスで暴力を振るう、姉は彼氏と遊び歩いている。自分は学校で居場所がないが、彼氏と遊んだり、後輩の女の子と遊んだりして時間を潰している。
そんななかに通っている塾に、大学生の先生キム・ヨンジ(キム・セビョク)がやってくる。

鑑賞後の感想
14才の女の子の不安定な感じが、気持ち悪く伝わってきて素晴らしい映画でした。
ウニには居場所もなくあちこちで俯いて歩き、ただ時間を埋めるために何かをしている感じが、思春期の中学生特有に感じました。
全体的に家父長制、男尊女卑、学歴社会の韓国社会のストレスに加えて、時代背景として韓国の民主化が進んだ時代というのが、本当に社会全体が強引に変わっていく様子が、混乱の中に描かれていました。
いつの時代も優しい人が最初に傷ついてしまうし、子供が1番の被害者なのが辛いです。

しかし、子供同士でディスコに行ったりなどの自由さは「サニー永遠の仲間たち」にも共通している民主化のはっちゃけ感を受けました(なお、キム・ヨンジ役のキム・セビョクのデビュー作も「サニー永遠の仲間たち」らしく、級長役だったそうです)

主人公のウニが一人で俯いているカットが多く、そこはかとない不安感を感じながら映画を見ました。雄弁よりも沈黙の方が怖すぎです。

この作品の背景を知るには、1994年のソンス大橋事故を理解する必要があります。この事故が韓国国民に与えた影響は大きく、とても重要なものがあっというまに壊れてしまう、という象徴でしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%B0%B4%E5%A4%A7%E6%A9%8B

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『リバー、流れないでよ』

映画「リバー、流れないでよ」を見てきた。
ユナイテッドシネマ金沢。
普段は夜しかこないのでガラガラのイメージしかないのですが、今回は1日一回上映ということで明るい時間に来館。
いつもなら余裕で駐車場に停められる場所も車でいっぱいでした。
(もしかしたら私が遅い時間に行っているだけで、普段は混んでるのかも)

というわけで、「リバー、流れないでよ」

舞台は、京都・貴船の老舗料理旅館「ふじや」。
静かな冬の貴船。ふじやで働く仲居のミコトは、別館裏の貴船川のほとりに佇んでいたところを女将に呼ばれ仕事へと戻る。
だが2分後、なぜか再び先ほどと同じく貴船川を前にしている。
「・・・・?」

ミコトだけではない、番頭や仲居、料理人、宿泊客たちはみな異変を感じ始めた。
ずっと熱くならない熱燗。なくならない〆の雑炊。永遠に出られない風呂場。自分たちが「ループ」しているのだ。しかもちょうど2分間!

2分経つと時間が巻き戻り、全員元にいた場所に戻ってしまう。
そして、それぞれの“記憶”だけは引き継がれ、連続している。
そのループから抜け出したい人、とどまりたい人、それぞれの感情は乱れ始め、
それに合わせるように雪が降ったりやんだり、貴船の世界線が少しずつバグを起こす。
力を合わせ原因究明に臨む皆を見つつ、ミコトは一人複雑な思いを抱えていた―――。

https://www.europe-kikaku.com/river/

劇団ヨーロッパ企画の最新映画。
監督は、監督はアニメ四畳半神話大系の脚本、演出をした上田誠さんなので、鑑賞前から「自分の好みであることは間違い無いだろう」と半分確信しながら鑑賞しました。
結果としては、その通りでした。

以下、ネタバレあり。

感想、丁寧なB級映画。
作り込みがしっかりしてて、細かい点回収が丁寧。
台詞回しは舞台チックで、「ループの原因は何か?」のターンでは、登場人物が変わるたびに情報が少しずつずれていて、思わず笑ってしまった。
「祈っただけ」「能力がある」「儀式をしている」で最後は「時を司っている」との情報の飛躍、みたいな。

タイムループするために天候や周囲の様子などが変わっていくさまが、何か意味があるのかなと思わせる、いや、あんまりなかったりして(分からん)
主人公はミコトの喋り方がツボな感じでした。
この手の独白にはいつもヤられてしまいます。
ちなみにループの開始は必ずミコトを中心に描かれている。

観客目線では、2分経つと画像がぼんやりして、必ず川床のミコトのところに戻るのだが、いつの間にかこのループが安心に感じていた。
さらにいうと、川床のミコトのシーンも毎回カットが少しずつアングルが変わっている。何かの比喩かなと思ってみたけど分からず。
(記憶が正しければ、2分の最後のカットのミコトの位置と、ループ後のミコトの位置も合わせていたように思う)

本庄まなみの無駄遣い。

ループするたびに、登場人物とそれをみている観客に対して、少しずつ情報が上乗せされてきて、話の筋がわかるようになってくるのが心地いいのと、登場人物たちも「次のターンで」とか言い出して、メタ的になっていくのがクスッとする。
毎回2分経つとそのループが終了するので、3階に移動するだけでタイムロスになってしまい、次のターンでは「時間がもったいないからここで話を進めましょう」とか言い出すのが、非日常の中にある日常感が、妙に心地よさを感じます。
もちろん、演者さんのずれ具合が見事な効果で、ありえない非現実的なことが「あるある」みたいな印象を与えるのでしょうね。

髪を切るシーンはの最後の撮影と思う。

貴船ふじやという川(リバー)と神社、そして館内を移動するというカメラワークの必然があって、最高の舞台だなと感じました。
そしてなんと主演のミコト役の藤谷理子さんのご実家らしい。
道理で、貴船のプロモーションビデオみたいな綺麗なカットだらけなわけだ(褒めてます
貴船ふじやには実際に宿泊できるようなので、聖地巡礼マニアの方は是非とも詣でてもらいたいものです、しらんけど。

http://www.kibune-fujiya.co.jp/

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『グリーンブック』(Green Book)

『グリーンブック』

題名は、黒人アメリカ人旅行者のガイドブック「黒人ドライバーのためのグリーン・ブック」ヴィクター・H・グリーン著。

あらすじ(wikipediaより引用)

ジャマイカ系アメリカ人のクラシック及びジャズピアニストであるドン”ドクター”シャーリーと、シャーリーの運転手兼ボディガードを務めたイタリア系アメリカ人のバウンサー、トニー・ヴァレロンガによって1962年に実際に行われたアメリカ最南部を回るコンサートツアーにインスパイアされた作品である。

鑑賞後の感想(ネタバレあり)
舞台は1960年代のアメリカ。

一番の心に残ったのは、トニーの心境の変化の描写が見事な点です。

最初、ドンとツアーに出る前は、トニーが黒人を差別する様子が描かれていました。
例えば、家に来た黒人の作業員に妻が水を出すと、そのグラスをこっそり捨てるなどです。
トニーはあからさまな差別主義者ではありませんが、その気持ちが表に出ない分、却って潜在的な(無意識的な)差別の気持ちが伺えます。

そのトニーが、ツアー中、ドンと接することで気持ちがどんどん変わっていきます。
元々手紙を毎日書くというマメで誠実さと体はデカいが気は優しくて家族思いな側面を持つトニーは、分かりやすくドンに影響されていきます。
一方、腕っぷしは強いが素直なトニーに対して、ドンも心を開いていきます。

実は、この映画の表面的な変化はこのトニーの心情に表れていますが、本当に伝えたいメッセージは、黒人であるドンも変わっていった点にあるのではないでしょうか。

この映画の中のドンは黒人でありながらも、黒人として育ってきていません。
いわゆる名誉白人的な印象を同じ黒人から持たれています。
農村地域で働く黒人たち同胞がドンに対する視線は、白人のそれよりも冷たくて厳しいです。
また、ドンは性的マイノリティでもありました。
人種的にも性的にもマイノリティであるドンの気持ちは、誰にも打ち解けないことで守られていたのでしょう。
カーネギーホールの上に住み、執事はいるが打ち解けていない様子、神経質で孤独な芸術家として自らの殻の中に入り身を守ることで、自尊心とアイデンティティを保っているように見えました。

そのドンの気持ちは、トニーに男娼を買ったところを見られたことで爆発します。
トニーだけには知られたくなかったと叫ぶドンは、分け隔てなく接してくれるトニーだけには差別されたくないという気持ちだったように思います。

そういったことで、トニーが変わっていくのは表面上のメインテーマで、実はトニーに釣られてドンも変化していっているところも肝だと感じました。

ドンは名誉白人なので、あからさまに差別される描写は少ないですが、食事を通じて、あちこちで白人の無意識の差別に合います。
その差別は主に「食事」を通じて描かれています。
今では全くそういった意図はありませんが、フライドチキンは元々被差別人種であった黒人のソウルフードでした。
比較的高級であった牛や豚を飼うことができない黒人であっても、扱える食材がチキンだったのです。
そして、可食部分が極端に少ない鶏肉を、余すことなく食べる方法がフライドチキンなのです。
だから、黒人=フライドチキンが好き、というのは事実でありながらも、差別的な要素を含んだ表現なのです。
例えば、黒人差別が激しい南部に行くと、白人たちがドンに提供する食事は見えない差別が感じ取れます。
黒人だからフライドチキンが好きだろうと、ドンの好みを聞くことなく押し付けるホストや、レストランに呼ばれて演奏するVIPなのに、そのVIPであるドンがそのレストランで食事を断られる不条理さなどが挙げられます。
「決まりなので」と無神経にドンを断る白人のボーイには、差別の意図はありません。
彼らにとっては黒人を断ることは当然で当たり前なのです。

このように全体的に重い内容で進みますが、時折クスリとさせられる場面はほっこりします。
それはケンタッキー州でフライドチキンを食べるところです。
トニーが運転しながらバーレルでフライドチキンをむさぼるシーンがあります。
「ドンがフライドチキンを食べたことがない」ということを知ったトニーはドンにフライドチキンを渡して食べるように勧めます。
おっかなびっくりフライドチキンを口にするドンはおいしそうに味わいます。
しかし、ある疑問にたどり着きます。
「食べた後の骨はどうすればいいのか?」。

トニーは、その問いに対して無言で車の中から外に骨を放り投げるのでした。
このシーンは全体的に重い主題の映画の中で、清涼感のあるほっこりしたシーンでした。
ちなみに、トニーは骨だけではなく、ドリンクのカップも捨ててしまいますが、これはドンに怒られて、車を止めさせられて拾いにいかされてしまいます。ここはこの映画で唯一笑えるシーンでした。

子供が大きくなったら見せたい映画でした。

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『15時17分、パリ行き』(The 15:17 to Paris)

『15時17分、パリ行き』(The 15:17 to Paris)

あらすじ
2015年8月21日に高速鉄道タリス内で発生したタリス銃乱射事件と事件に立ち向かった3人の若者を描く。監督は、クリント・イーストウッド。主演の3人は、実際にタリス銃乱射事件に巻き込まれた3人を本人役として起用している。キャッチコピーは『その時、3人の若者が乗ったのは運命の列車だった。』

観賞後の感想
クリント・イーストウッドが演出したので、みる前はわくわく。先入観なし。
94分の短いスピード感のある映画かな、と思って鑑賞し始めました。
しかしながら、実際のテロ事件のシーンは15分程度で、映画の大部分は、主人公たちテロリストを制圧した3人の幼なじみの生い立ちについて描かれていました。
登場人物に一人がなぜ軍隊に入ったのか、どうやって知り合ったのか、子供の頃の学校の評判などが、これ以上ないくらいに時間をかけて表現されています。
もちろん、登場人物のバックグランドを丁寧に描くことによって、その人物がなぜその行動を取ったのか、について納得感があり、演出としては非常に素晴らしいとは思います。
しかし一方で、背景を丁寧に描きすぎることに全体の大半を費やしており、実際の事件について尻切れトンボ感は否めない、と感じました。
回顧のシーンを観ている途中で「いったいいつ事件のシーンになるのだろう」と思っていましたし、実際に15分程度で終わったときは「え?これで終わり」とあっけないものを感じました。
映画館で観てたら「こんなの映画じゃない」とちょっと憤慨するかもしれないレベルかも。

ちなみに、本人役で本人が出演しており、映画というよりもドキュメンタリー、再現ドラマに近いです。