あゝ野麦峠―ある製糸工女哀史

あゝ野麦峠―ある製糸工女哀史
角川書店
山本茂実

読後の感想
明治・大正時代、岐阜県の飛騨地方から長野県の岡谷あたりまで、野麦峠を越えて生糸工場の工女として行った女工のノンフィクション。

 実際に女工として行った女性三百八十人に聞き取り調査を行い、それを基にして書かれた作品です。資料では出てこない本音や記憶が鮮やかに書かれています。

 誤解しやすいのは、当時確かに女工たちの待遇は良くはなかったのですが、それにもまして日本の山間部の農村が貧しかったということ、そして、生き残った多くの女工たちが工場の待遇について悪く言っていなかったということがあります。
 そのあたりと、当時の外国との関係を踏まえながら読むと、女工たちの身の上について非常に歯がゆいものが残る内容でした。

 初めて知ったことですが、女工の給料も当時の女性にしては極めて高い人もおり、一年で家が建つほど稼ぐ女工も少なくなく、一家でその女工を当てにしていたところもあったそうです。薄給というイメージだったので非常に驚きました。

印象的なくだり
 製糸業の中では原料がきわめて高価だということである。
 製糸業者がいつも問題にしていることは三つにつきる。
 すなわち、(一)糸相場、(二)原料繭買入、(三)工女確保である(P109)。

 「何しろ佐一つァ(二代目片倉兼太郎)は荒っぽくて、じき頭をこいて(なぐって)歩いたが、妙なことに、こかれた者ほど出世した」というのである。
 片倉製糸で九州の工場長をしていた浜正美<明治19・岡谷>も、「片倉では工女はされなかったが、男はよくくらしゃげた(なぐった)。
 オレが若いころでも忘れられないのは佐一つァが武州から干し芋を送ってきた時だ。
 すぐに工女にくれたが、後で佐一さが帰ってきて『せんだっての干し芋どうだったや』というから『すぐ工女にくれました。まだ少し残っています』といったら言下に『バカヤロー』とくらしゃげられた。

 オラ何のことかさっぱり分からなかったが、あとで『こういものは、まず全体の目方を計って何回分ときめてからくれてやらなければ半端になってしまうじゃないか、そんなことで製糸の経営ができるか!』といわれてなるほどと感心したことがあった」という(P320)。

この本に興味があるなら
現代の記録文学としては、石牟礼道子の「苦海浄土-わが水俣病-」(講談社文庫)が、体験者への聞き取りをして、類似の形式で書かれています。