『行動経済学 経済は「感情」で動いている』

『行動経済学 経済は「感情」で動いている』
光文社
友野 典男

読後の感想
乱暴にまとめると、そもそも人間の行動は理屈に合わないのだけれど、それを理屈っぽく組み立てたような学問が行動経済学。
正確ではないにしろ、ざっくりと正しいという感じの印象でした。もちろん後付けの理由、との印象も否めず。
骨子としては、合理的な行動というのは思っている以上に取れていない、ということ。相手あってのこと、ということは、想像以上に行動に影響を与えているということ(つまり、相手をみて行動を決めている)。
新書ということもあってか、体系的な話ではなく(学問的に体系立っていない点を考慮しても)様々な事象を帰納的に推論した、という内容でした。若干強引な帰結な印象でもあるけど、大事なのは論理過程と結論ではなく、論理だっていること(見えること)なんだなぁ、と(笑
会話に使える小粋なエピソード満載なのでそれはそれで吉。

印象的なくだり
喫煙や飲酒などの習慣がなかなか止められないのは、行為時点とその結果が現れる時点とが時間的に大きく隔たっており、行為する時点では、長い間たった後にどんな結果が引き起こされるのかについて想像するのが難しいことが原因の一つである。したがって政策的に禁煙を推進するとしたら、喫煙はガンにかかる確率を上昇させると主張するより、ガンになった場合の悲惨さをアピールする方がキャンペーンとしては効果的であろう(P.073)。
企業は、その価格、賃金、利益などに関して決定をする時には、取引相手(従業員、顧客、賃借人等)がそれを公正であると判断するか否かを考慮して、すなわち公正を一つの制約条件として行動を決定しなければならない。したがって、企業はたとえ公的、法的な規制がない場合でも、単純に利潤追求的行動をすることはできない。短期には高い利潤が得られたとしても、不公正であるという悪評が立てば長期的には利潤を失うことになる。そのため自制的な行動が必要となる(P.168)。

(前略)、初期値の設定が人々の意思決定に影響を及ぼす原因は三通りあるという。
まず、公共政策に関する場合には、人々が、初期値は政策決定者(多くは政府)の「おすすめ」だと考え、それを良いこととみなすことである。
第二に、意思決定を行うには時間や労力というコストがかかるが、初期値を受け入れればコストが少ないからである。
(中略)第三に、初期値とは現状のことであり、それを放棄することは前章で述べたように損失とみなされ、損失を避けるために、初期値を選ぶことである。損失回避性が働くのである(P.187)。
人々は自分の決定が、シンプルな理由づけや物語によって正当化されるのを望んでいるように見える(P.213)。

評価形成自体は、利他的や公正さの表われであるとは考えることはできない。評判が利得増加につながることを理解しているための利己的行為である(P.297)。

(前略)制度や組織のありようによって異なるが、互酬人の存在が経済人の行動を変えさせたり、経済人が互酬人を経済人のように行動させる場合があることを意味する(P.300)。

処罰で低下するモラル
処罰とモラルの関係について興味深い実験がグニーズィとラスティチーニによって行われている。子供を預かるデイケア・センターでは約束の時間に親が子供を迎えにくることになっているが、遅刻者もしばしば見られる。彼らは、イスラエルのいくつかのデイケア・センターを選び、遅刻に対して遅刻時間に応じた少額の罰金を科すことにした。
通常の予測では、遅刻は減少するはずである。ところが、この制度の実施後にはかえって遅刻が増大してしまったのである。
(中略)グニーズィとラスティチーニは、罰金がない場合には、親は遅刻することに対して罪悪感を感じ、その感情が遅刻を防いでいたのであろう、ところが罰金が導入された後、「時間をお金で買う」という取引の一種と考えるようになり、やましさを感じずに遅刻ができるようになったのではないかと説明している。
罰金を科すことを止めた後でも、遅刻が以前の水準に戻らなかったのは、単に遅刻の価格がゼロになっただけと受け取ってしまうからである。つまり、制裁システムが導入されることで、社会規範やモラルによって規制されていた行動が市場での取引のように考えられてしまうのである(P.305)。

経済人は感情に左右されず、もっぱら勘定で動く人々である。経済人は市場は重視するが、私情や詩情には無縁である。金銭に触れるのは好きだが、人の琴線に触れることには興味がないような人々なのだ(P.325)。

(前略)厳密に間違っているよりは、大雑把に正しい方が役に立つ。止まっている時計は一日に二回厳密な時を指すが、一分進んでいる時計は一回も正確な時を刻まない。しかし、どちらが役に立つかは明らかだろう(P395)。