『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』

『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』
湯浅 誠
岩波書店

読後の感想
公共性の高い生活保護という制度は、フリーライダー(悪用・ただ乗り)されるよりも、制度が機能不全に陥る方が圧倒的に、存在として致命的だと感じました。つまり、制度が「ある」のに利用できないのは、「ない」よりも絶望的なのです。
また、貧困の問題が安易な自己責任論に帰結する論理は問題の本質を誤ってとらえており、筆者の言うとおり、「溜め」と呼ばれる余裕がないことが主な原因の一つだと感じました。生活に余裕がないことで、社会の変化に伴う予期できない変化、出来事に対してクッションがなく、影響を直接的に受けてしまうからです。
この二点から推測できることは、防貧と救貧を分けて防貧対策をする必要があるということです。

印象的なくだり
「このままではまずい」と「どうせ無駄」の間をつなぐ活動を見つけなければならない。そうした活動が社会全体に広がることで、政治もまた貧困問題への注目を高めるだろう。関心のある人たちだけがますます関心を持ち、関心のない人たちが関心のないままに留め置かれるような状態を乗り越えたい。貧困は、誰にとっても望ましくないもの、あってはならないものである。ここでこそ、私たちの社会がまだ「捨てたものではない」ことを示すべきだ(P.vi)。

生活保護法は、住所不定状態の場合に、現在いる場所での生活保護申請を認めている(一九条一項二号)。したがって「自分の住所を定めてからでないと、何もできない」というのは、明らかな違法対応である(P053)。

期待や願望、それに向けた努力を挫かれ、どこにも誰にも受け入れられない経験を繰り返していれば、自分の腑甲斐なさと社会への憤怒が自らのうちに沈殿し、やがては暴発する。精神状態の破綻を避けようとすれば、その感情をコントロールしなければならず、そのためには周囲(社会)と折り合いをつけなければならない。しかし社会は自分を受け入れようとしないのだから、その折り合いのつけ方は一方的なものとなる。その結果が自殺であり、また何もかもを諦めた生を生きることだ。生きることと希望・願望は本来両立すべきものなのに、両者が対立し、希望・願望を破棄することでようやく生きることが可能となるような状態。これを私は「自分自身からの排除」と名付けた(P062)。

ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センという学者がいる。彼は、新しい貧困論を生み出したことで知られている。彼の貧困論は、選択できる自由の問題と深く関わっている。
 センは「貧困はたんに所得の低さというよりも、基本的な潜在能力が奪われた状態と見られなければならない」と主張する(「自由と経済開発」石塚雅彦訳、日本経済新聞社、二○○○年)。それは「所得の低さ以外にも潜在能力に-したがって真の貧困に-影響を与えるものがある(所得は潜在能力を生み出す唯一の手段ではない)」(同上)からだ。また「貧困とは受け入れ可能な最低限の水準に達するのに必要な基本的な潜在能力が欠如した状態として見るべきである」(「不平等の再検討-潜在能力と自由」池本幸生訳、岩波書店、一九九九年)とも述べている(P075)。

「潜在能力の欠如」(自由に選択できないという不自由)は、個人的な要因であると同時に、社会的・環境的な要因でもある。ニューヨークのハーレム地区でたまたま七○歳や八○歳まで生きる人がいるからといって、「他の人たちには努力が足りない」と、平均寿命の短さを早く死んでしまう人たちの自己責任で裁断することは妥当ではない。必要なのは、その地域や個人の諸条件を改善して、長寿を可能にする環境を整えることだ(P077)。

見えない貧困
貧困の実態を社会的に共有することは、しかし貧困問題にとって最も難しい。問題や実態がつかみにくいという「見えにくさ」こそが、貧困の最大の特徴だからだ。
(中略)
日本だけではない。前述したシプラー「ワーキング・プア」の副題は、原語では文字通り「Invisible in America(アメリカの見えない者たち)」だった。ワーキング・プアの低賃金労働を体験した女性ジャーナリストが執筆した「ニッケル・アンド・ダイムド-アメリカ下流社会の現実」(バーバラ・エーレンライク、曽田和子訳、東洋経済新報社、二○○六年)も、その「見えなさ」を次のように強調していた。
「富める者と貧しい者が両極端に分化した不平等な私たちの社会は、いとも不思議な眼鏡を生み出し、経済的に上位にある者の目には、貧しい人々の姿はほとんど映らない仕組みになっている。貧困層のほうから富裕層を、たとえばテレビとか雑誌の表紙とかで、簡単に見ることができるのに、富裕層が貧困層を見ることはめったにない。たとえどこか公共の場所で見かけたとしても、自分が何を見ているのか自覚することはほとんどない」(P085)。

誰もが同じように「がんばれる」わけではない。「がんばる」ためには、それを可能にする条件がある。「自分は今のままでいいんスよ」という言葉が、現状への充足感を表現しているのか、それとも諦観や拒絶・不信感に基づくものなのか、それはその人の”溜め”を見ようとする努力の中で見極められなければならない。そして後者の場合、その言葉は何よりも”溜め”を回復するための条件整備を求めている。そのとき、”溜め”を増やすことなく、ただ御題目のように「がんばれ。誰だってそうしてきた。誰だって大変なんだ」と唱えても、状況を好転させることはできない(P091)。

大きな組織力を背景に持たない一個人が何かを言ったりやったりしてもどうせ無駄、という閉塞感が広がっている、と言われることがある。それは、政治に対する不信感の増大という以上に、社会に対する信頼の失墜である。世の中の誰かにちゃんと受け止めてもらえるという信頼感をもてなければ、何かを訴える意欲は出てこない。それが孤立ということであり、「どうせ自己満足にすぎないだろう」という社会的活動に対する皮肉から、「自分のことなどどうでもいい」という「自分自身からの排除」に至るまで、社会に対する信頼感の失墜は立場や階層を越えてさまざまな反応を引き起こす(P108)。

指示系統がはっきりしない。初めての人ばかりなので、誰に何を聞けばいいかわからない。高い中間マージンを取られる。仕事ができない、使えない、と軽く見られる。誰もやりたがらない手間のかかる仕事をやらされる。日替わりゆえ、蓄積がない-日雇い派遣には、人々のやる気を削ぐ要素が満載されている。低賃金で雇用が不安定というだけではない(P145)。

強い社会を
少なからぬ人々が普通に外を出歩けない状態は、その人たちの側に「問題」があるのではなく、社会の側に「問題」がある。その意味で、社会の「障害」、社会の「不自由」である。そして、この考え方はそのままアマルティア・センの貧困観と結びつく。普通に外を出歩くという「機能」を達成するための「潜在能力」を奪われているという意味では、これは貧困問題でもある。
人々に働く場所や住むべきアパートを確保できないという社会の不自由、社会の”溜め”のなさによって、野宿者や「ネットカフェ難民」が生み出されている。貧困問題も、本人の「問題」ではなく、社会の「問題」である。八尋氏に倣って次のように言うことができる。「貧困は人にはないよ、社会にあるんだ」。
なぜ貧困が「あってはならない」のか。それは貧困状態にある人たちが「保護に値する」かわいそうで、立派な人たちだからではない。貧困状態にまで追い込まれた人たちの中には、立派な人もいれば、立派でない人もいる。それは、資産家の中に立派な人もいれば、唾棄すべき人間もいるのと同じだ。立派でもなくかわいくもない人たちは「保護に値しない」のなら、それはもう人権ではない。生を値踏みすべきではない。貧困が「あってはならない」のは、それが社会自身の弱体化の証だからに他ならない。
貧困が大量に生み出される社会は弱い。どれだけ大規模な軍事力を持っていようとも、どれだけ高いGDPを誇っていようとも、決定的に弱い。そのような社会では、人間が人間らしく再生産されていかないからである。誰も、弱い者イジメをする子どもを「強い子」とは思わないだろう。
人間を再生産できない社会に「持続可能性」はない。私たちは、誰に対しても人間らしい労働と生活を保障できる、「強い社会」を目指すべきある(P209)。