『不機嫌な職場~なぜ社員同士で協力できないのか』

『不機嫌な職場~なぜ社員同士で協力できないのか』
講談社
河合 太介, 高橋 克徳, 永田 稔

読後の感想
この手の本としては久々のヒット。
本書の骨子としては、かつては職場では責任範囲が曖昧だったためにフリーライドを許しながらも、組織として柔軟な対応ができていた。ところが、このような形だと評価が非常に不平等になるため、不公平感が免れず、個人の成果がはっきりとわかるような成果主義に移行していった。すると、個々人の仕事の範囲や責任が明確になったが、同時に他人の仕事のことはわからなくなり、人間関係がタコツボ化していき、最終的に協力したくても協力できない環境が生まれてしまったという。
このままでは先がないなぁと危機感を募らせるにはいい一冊でしたが、これを読んだ人が果たして「自分も率先して協力しよう」と思うかといわれると、疑問が残るかな。本を閲覧もしくは回覧して、全員が共有できる状態であれば別だけど(つまり小規模会社ほど見込みがある)。
個人的には、この状況について共有できる人とお仕事をしたいなぁと思いました。

印象的なくだり
協力し合えない組織では、このように社員が心や体を壊していくという問題に加えて、組織全体で見た仕事の生産性や創造性の問題、品質上の問題を起こしかねない。仕事なんだから、ギスギスした関係であろうが、各人がやるべきことをしっかりやればよいという考え方を持っている経営者は、経営の根幹に関わる大きなリスクを自分で拡大させていることに気づかなければならない(P.030)。

相手を知るとは、単にその人の形式情報を入手するということではない。その人の行動を引き起こす背景にある、考え方、感じ方、経験、思いといった「人となり」を知ることが重要である。なぜなら、人と協力行動をとるためには、相手がどのような人か、どのような意図を持った人かを知ることが、協力行動のリスクを減らすことになる。
「あのような場であんなことをする人とは……」とか「皆が帰った後でも、一人で残って後片付けをしていた」、そのような仕事のシーンとは異なる場面での相手の振るまい、そのもととなる意図、価値観、人間性に関する情報が入る場が存在したのである。
これらの情報は、社内での協力関係をつくる上での基本情報となった(P.056)

(前略)、単純にニンジンをぶら下げれば、馬が走るのではない。ニンジンを求める馬がいるから、効果があるのだ。
そのためには、インセンティブの構造を把握する必要がある。
インセンティブ構造は、受け手と出し手のそれぞれの置かれた状態、そこから生まれたニーズ、引き出したい行動、有効な刺激などから成り立っている(P.060)。

(前略)ある種の専門的能力は非常に個別性の高い資源であることが多い。そのような類の資源を相手が持っているとき、それが自分にとって価値があるか、または自分の持っている資源が相手にとって価値があるか、それを問う視点を、われわれはつい忘れてしまうことがある。ビジネスの例ならば、会社の持っている資源が社員にとって価値があるか、社員は会社にどのような価値のある資源を提供できるのか、こういった問いを利根に持ち続けていることが重要である(P.076)。

(前略)、企業の側が、社会的交換に必要な能力を育てることの重要性をきちんと語らないままに教育しようとすると、学ぶ側はやる気を失ってしまう場合が多いことである。先ほど述べたように、これ自体、また別の社会的交換となっており、教える側にも教えられる側にもコストがかかる。したがって、そのようなコストを負ってまで、なぜ教え、なぜ教えられるのか、その意義を双方が理解しなくてはならない。本来、アカウンタビリティ(説明責任)と呼ばれるものは、このような意義を理解させるために必要なものではないだろうか(P.084)。

個人間のつながりの弱体化は、高業績者、低業績者にかかわらず、非協力的な組織風土の中で孤立感を社員に抱かせ、心を乾燥させた。また、つらい状況、困難な状況に直面しても、精神的・物理的支援者に恵まれないため、一人で追い込まれることになった。
この状況は、社会的動物である人間が働くにふさわしい場とは言えない。毎日通うのが苦痛である場が社会的な場とは決して言えないからだ
(P.146)。

部員が集まって会議をしている状況をイメージして欲しい。
そこで、あなたは「良い考え」が浮かんだので、メンバーに提案したとする。
そのとき、もし「それは私の仕事ですから、口を挟まないでもらえますか」と言われたら、どんな気持ちになるだろうか。
おそらく、「二度と提案なんかするもんか」と思うだろう。そして、この人から協力要請があったときも、「誰が協力するもんか」という態度を示すことになるだろう。
組織は、この種の「壁をつくる発言」を許してはいけない。
最初に見逃せば、周りの人は「自分もそうしていいのだ」と学習をしてしまう。
また、感情は伝染するため、この種の発言に不快感を抱いた人の感情行動が、別の人の不快感を生み出し、組織感情の負のスパイラルを形づくることになる。
これを小さなことと考えてはいけない。この小さなことから、協力崩壊という大きな穴があくのが、組織の常であることを、学習すべきである。
協力を促進するのであれば、負のエネルギーが組織で伝染しないようにするだけではいけない。正のエネルギーが組織に満ちるような工夫を加えることも必要となる。
(中略)
それは、発言や提案を「まじめに取り上げる」ようにすることである。
「壁をつくらないから、何でも意見を言いなさい」というところまでは、多くの組織で行われている。しかし、そこで出てくる意見を一つひとつまじめに取り上げないならば、社員は、そのうち馬鹿らしくなる。
中には、そう言っておきながら、出てきた提案を一蹴しておしまい、あるいは、否定的な見解で返すという場の運用を許している組織も見かける。
「壁を越えて、何でも意見を言えといっているのに、うちの会社は社員がおとなしいせいか、なかなか意見が出てこない」という会社は、実際はこうした現場になっていないだろうか(P.151-152)。

一つの仕事を一人の人が抱え込むことには、当面の生産性、安心感というメリット面の誘惑が、確かにある。しかし、短期的にその組織にとっては都合が良くても、長期的には、やがて不都合が発生する(P.155)。

「いまどきの若者は、社員同士の飲み会等に出たがらない」という、凝り固まった一般論で、すべてのこうした活動を否定しようとする人がいる。社員旅行等の活動に対しても同じ理論を振りかざす。
しかし、それは若い人が、「あなたとの飲み会が嫌」なのであり、「あなたとの旅行が嫌」なのかもしれない、と自分を疑ってみる必要がある(P.163)。

損得「勘定」から根源的「感情」へ
メリットを得るためには、損をしないために、「周囲から批判されるような行動は避ける」という意識は薄まった。それよりも、自分のことだけを考えて、自分の担当している仕事で成果をあげたほうが得になったのである。
こうした状況をみて、対応に出る企業も多くあった。
曖昧で、成文化されていない交換契約ではなく、評価制度という具体的で成文化された契約の中に「協力」に関する項目を設定するという工夫である。これによって、人の損得勘定に働きかけ、協力という行動を誘導するという仕組みである。
(中略)
これには問題点が二つある。
一つは、百点満点のうち、「協力」という評価項目が、お飾りのように片隅に入っていても、行動を変えるインパクトは持たないということである。
失点があっても、全体に大きな影響を及ぼさないことに対しては、人は大きな注意を払うことはしない。
もし、本気で協力行動を評価制度によって強く誘引しようとするならば、「協力行動が不十分な場合には、個人業績がどんなに良くても、総合評価が一段下がる」くらいのメッセージ性が強い設計と運用にしないと、狙った効果は大きくは期待できない。
もう一つは、損得勘定という外発的動機づけの持つ限界である。外発的動機づけとは、要は”馬ニンジン”である。馬ニンジンとは、良いことをすれば、飼い主から馬がご褒美をもらえるという仕組みをさすわけだから、これは逆に言うと、飼い主が見ていないところでは、どんなに良いことをやってもご褒美をもらえないということになる。
だから、「この人には協力しておいたほうが、評価の上で得」という判断が働く人には協力行動をとるが、「この人に協力したところで、得になることはないな」という判断が働く人には、協力をしない、という斑模様の協力状況を発生させやすい。
つまり、外発的動機づけである以上、協力の自発性に乏しいのである。組織感情として自然体な協力関係という状態にはならない。
また、いずれにせよ、自分にとって交換関係の分が悪い、つまり、ここにいると損だとわかれば出て行く環境が外部に整っている以上、損得勘定に頼るやり方には限界がある。
もっと人間の内発的・根源的「感情」に訴えかけるようなところにインセンティブのあり方を見いださなければならない(P.170-171)。

(前略)、会社には多様な能力が集まり、多様な協力があるからこそ、全体が上手く回っていく。しかし、評価の一軸化が進むと、業績をあげる人以外が、会社で周囲に認知される機会は非常に乏しくなっていく。
自分を認知しない個人、組織、社会に対して、人は愛情を弱める。
たとえば、自分のことを日頃認めない人が困っていても、助けてあげようとは、素直には思えない
(P.178)。