働くことがイヤな人のための本 価格:420円(税込、送料別) |
『働くことがイヤな人のための本』
新潮社
中島 義道
満足度
読後の感想
いわゆる「ひきこもり」の肯定です。社会は理不尽であるということ受け入れての生き方、というものもあるのだなぁと素直に思ってしまいました。
本書の骨子とは異なりますが、こういった世界がある、バックアップがあるからきつい現実の中に飛び込んでいけるという意味でちょっと勇気がでました。
印象的なくだり
おびただしい人人が芸術家に憧れるのは、私の考えでは、好きなことができるということのほかに、まさに社会を軽蔑しながらその社会から尊敬されるという生き方を選べるからなんだ。社会に対する特権的な復讐が許されているということだね(P027)。
考えてみれば、それによって生きがいを感じ、それによって生活の糧を得る一つの仕事を選ぶということは至難のわざだ。近代社会においては、出自や身分によってではなく仕事によってその人の値打ちが測られる。しかもただ仕事を続けていればよいのではなく、仕事においてたえず他人と競い勝ち抜くことが要求される。これは、たいへんしんどいことであり、膨大な挫折者が出てきて当然というものだ。われわれは、この「当然」ということをしっかり見据えて出発しなければならない(P040)。
きみはそれほど巧みに自分をだませないんじゃないかと思う。だまし抜いた一生を終えて、六0歳になる自分を想像したとき、冷や汗が出るんじゃないかと思う(P060)。
何ごとにも決断がつかないこと、真剣に戦う前に戦場から退散してしまうこと、こうした弱腰こそかえってきみ自身を鍛える指針になると信じるんだ。自分でも厭になるほどの実力不相応のプライド、うんざりするほどの自己愛と他人蔑視、それと奇妙に両立するはなはだしい自己嫌悪、こうしたことを引きこもっている者は多かれ少なかれ所有していると思う。それらこそ、きみを導く羅針盤なんだ。まさにそれらがきみを鍛えてくれ、数々の仕事を準備してくれるんだよ。
カミュが愛用していたニーチェの言葉がある。それは「私を殺さないかぎり、私はますます強くなる」というものだ。私にはこの言葉の意味がよくわかる。人生の目標がはっきりしており、しかもそれは実現されなくてもよいのだと悟ったとたん、きみは何をしても失敗することはない(P065)。
残酷なことに、いかに努力しようとほとんどの人はその限られた微小な分野でさえ一番になれない。仕事に挑むかぎり負けるのだ。負けつづけるのだ。私はこうした生き方こそ、真摯な充実した人生なのだと思う。何かに賭けた者を襲うその苦しさこそ、あえて言えば仕事の醍醐味だと思う(P071)。
「才能がない」と言ってあきらめてしまえる者は、そのことをもって才能がないのだと言わざるをえない。
才能とは、少なくともそういうかたちであきらめてしまえるものではない(P077)。
能力のある不遇な者は、おうおうにして能力主義者である。しかも、専門的能力一元主義者である。それは一つの整合的な立場であろう。しかし、彼らはややもすると専門的能力の劣る者に対してまったく不寛容な態度をとる。彼らが人間としてゼロであるかのような発言さえする。
とはいえ、逆に専門能力劣等者が専門能力優秀者より道徳的に勝っているわけではない。彼らが正しいわけではない。だが、今度はおうおうにして、社会的制度における敗残者は同じ制度内の成功者より道徳的に正しいという論理にもたれかかる。つまり、よくよく考えてみると、どちらも正しくはないのだ。心情の醜さにおいては、同じ穴のムジナなのである。
だから、何度も確認しておくが、どう動いてもわれわれは無条件に道徳的に正しい行為はできないのだ。それを志すことはできる。しかし、実現できないのである(P095)。
親鸞に「僧でもなく俗でもなく」という言葉がある。「僧」とは組織の中で所を得ている者であり、「俗」とはそれを、さまざまな理由で捨てた者である。さて、僧=組織の中にいる者は社会性を備え、組織を着心地のよい衣服として自分に慣らしてゆく術をこころ得ている。そうした生き方が、とくにこの国では大人として評価されるわけだ。そして、彼らの大部分は俗=組織を離れた者の勇ましさに表向きの喝采をしながらも、その未熟さに軽蔑の視線を注ぐ(P125)。
社会学の古典的用語を使えば、血縁が中心となった親密なゲマインシャフトと利益追求をおもな目的とするゲゼルシャフトの違いである。後者の冷酷な社会こそが仕事を成立させるのだよ(P148)。