『おじさんは、地味な資格で稼いでく。』

『おじさんは、地味な資格で稼いでく。』
佐藤敦規

読後の感想
佐藤敦規さんの著書『おじさんは、地味な資格で稼いでく。』は、まさにそのタイトルどおり、50代・60代でも手に届く「地味だけど堅実な資格」で、自立した働き方を目指すための一冊です。
読んでいて強く感じたのは、「資格を取ることがゴールではない」というシンプルだけど大事な真理。そして、“地味”な資格には、“地味”だからこその強さがあるということです。

「資格で稼ぐ」というと、多くの人が思い浮かべるのは、弁護士や医師、公認会計士など、難易度も知名度も高い国家資格かもしれません。
しかし、本書で紹介されているのは、行政書士や社会保険労務士、宅建士など、比較的挑戦しやすい“地味”な資格です。
地味といっても侮れないのが、その「安定感」。
佐藤さんはこう書いています。

地味な資格は「法人相手で安定する」(P.047)

つまり、個人相手ではなく、法人(企業)をクライアントにすることで、収入が長期的・継続的になるというのです。
確かに、社会保険労務士が請け負う給与計算や就業規則の整備、行政書士が担う許認可やビザの申請など、企業の“日常業務の裏側”に欠かせない仕事は、継続契約につながりやすく、しかも単価も高め。
さらには、企業間の紹介によって新たな案件も広がっていく。
これは個人相手ではなかなか得られない、法人ビジネスならではの強みです。

情報を“翻訳”できる存在になる
もう一つ、印象的だったのが、情報の“翻訳者”としての士業の可能性について。

情報を的確に理解できるかどうかは、また別の問題(P.065)

ネットで検索すれば何でもわかる時代。
でも、実際には「調べても意味がわからない」「情報が多すぎて、どれを信じればいいのかわからない」という声が絶えません。
特に行政の制度や助成金、税制などは、用語も複雑で、素人にはハードルが高い。
だからこそ、士業の役割が生きてきます。
わかりにくい情報を、相手に合わせて噛み砕いて説明する。
膨大な情報の中から、本当に使えるものを選び出して伝える。
まるでインフルエンサーのような「情報の編集・翻訳」が、プロフェッショナルとしての価値を生むのです。

資格を取っても、行動しなければ意味がない
資格の取得はゴールではなく、スタート。
ここも本書で何度も強調されているポイントです。

最も稼げないのは、行動しない人です(P.241)

この一言には、思わず「耳が痛い」と感じました。
資格を取ったのに、名刺とHPすら作らない。
会合に参加しても、自分から声をかけずに終わる。
そんな“待ちの姿勢”では、せっかくの知識も宝の持ち腐れです。
特に中高年になると、「失敗しないこと」が美徳として身についてしまい、新しいことに挑戦すること自体にブレーキがかかりがちです。
しかし、独立・開業して食べていくには、ある種の「図々しさ」や「鈍感力」が必要で、それができるかどうかが明暗を分けると著者は語ります。

印象的なくだり

地味な資格は「法人相手で安定する」
では地味な資格は誰を相手に商売しているのでしょうか?
それは法人です。社会保険労務士なら会社の給料計算や助成金の申請代行、行政書士なら会社の許認可や在日外国人の就労ビザの取得代行などを請け負っています。
そして、不特定多数の個人を対象とするよりも、法人を相手にした商売のほうが収入が安定します。その理由は次の3つです。
・契約が長く継続することが多い
・単価が比較的高い
・契約先が新たなお客さんを紹介してくれる
(P.047)。

たしかに、ネットで簡単に情報を得られる時代にはなりましたが、情報を的確に理解できるかどうかは、また別の問題です。実際、新型コロナウイルスにおける雇用対策の助成金も、行政のホームページを見ただけでは理解できないと悩む経営者が多くいました。
くわえて、情報が多すぎて取捨選択できない状況にもなっています。ユーチューバーやインフルエンサーが注目されているのも、「情報の海から有益な情報を選び、分かりやすく伝えてくれる」という魅力があるためです。
この「翻訳」と「編集」という役割においては、今後も士業が担える部分は十分にあるでしょう(P.065)。

まず、もっとも稼げないのは行動しない人です。
行動とは営業活動のことです。オフィスを借り、名刺を作っただけで終わってしまい、まったく営業活動をしないどころか、ホームページさえ作らない人もいます。
士業の会合に参加しても、先輩の先生に「仕事を手伝いましょうか」などと積極的に声をかけることもなく、「仕事を手伝ってくれ」と依頼されても「もう少し勉強してからにさせてください」と断ってしまうのです。
これでは仕事が始まらず、当然、稼げるわけもありません。
おそらく、長年のサラリーマン生活の習性が抜けきれないのでしょう。
失敗しないことをよしとして、ルーティンワークをやっていれば評価される企業もありますが、独立したらマインドを変えなければなりません。
しなければ何も始まらないのです(P.241)。

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『アーモンド』

『アーモンド』ソン・ウォンピョン

読後の感想
ソン・ウォンピョンの『アーモンド』は、他者の感情を理解できない少年・ユンジェの視点から語られる物語だ。
彼は、感情を司る脳の扁桃体(アーモンド)が人より小さいという特性を持ち、「怒る」「悲しむ」「共感する」といった感覚が希薄なまま生きている。
感情を持たない彼の語りは、感傷的な言葉とは無縁で、淡々としている。
それでいて、その静かな語り口が、かえって物語の温度を際立たせる。
本書は、「感情がわからない」ユンジェが、他者と関わることで世界を知り、少しずつ心を広げていく成長の物語なのだ。

言葉にできる感情の限界
ユンジェは、「好き」「嬉しい」といった感情を持たない。
しかし、彼なりの言葉で「居心地が良い」と表現する場面がある。

「僕にとってもそこは居心地の良い場所だった。ほかの人だったら、『好きだった』とか『気に入った』と言うのかもしれないけれど、僕が使える表現としては、『居心地が良い』というのが最大限だ。」(P.052)。

これは、ユンジェの世界の見え方を象徴する言葉だと感じた。
彼にとって、「好き」という言葉は、感情が動いたときに自然と出るものではない。
「好き」という概念が曖昧だからこそ、自分にとってしっくりくる表現を慎重に選び、無理なく使える言葉で世界を捉えようとする。
この几帳面な言語感覚こそが、ユンジェというキャラクターの魅力であり、読者に彼の視点を追体験させる要素になっている。

また、本の匂いについての描写も印象的だった。

「古本の匂いが、まるで慣れ親しんだものみたいな顔をして僕のところへやってきたからだ。初めて嗅いだのに、ずっと前から知っていたみたいに。」(P.052)。

この言葉には、ユンジェが「感情ではなく、五感を通じて世界を認識する」ことがよく表れている。
本を開いて嗅ぐことで安心感を得る彼は、感情を理解することはできなくても、感覚的な経験を通して「居心地の良さ」を感じているのだ。

ユンジェは、予感というものを論理的に分解し、「因果関係のデータに基づいた客観的な見通し」と説明する。

「予感というのは、実は因果関係のデータに基づいた客観的な見通しなのだ。」(P.095)。

彼にとって、「なんとなく感じる」ことはありえず、すべての出来事は過去のデータに基づいて計算される。
この合理的な考え方は、感情のない彼の思考回路を示しているが、同時に彼が「予感」という感覚を理解しようとしていることも表している。

ここがユンジェの面白いところだ。彼は感情を持たないが、決して他者の感情を無視しているわけではない。
むしろ、感情という曖昧なものを理解しようと試みている、こと自体が彼のアイデンティを形成しているように感じられるほど懸命なのだ。
その結果、彼は予感を感じられるようになった。
しかし、彼にとっての「予感」は単なる直感ではなく、理屈によって説明可能な現象なのだ。
この思考のプロセスこそが、彼の「成長の第一歩」だったのかもしれない。

本書のクライマックスに向かう中で、ユンジェは「ゴニは生まれてこなかった方が良かったのか?」という問いを抱く。

「ゴニが生まれない方が良かったように思える。何よりもゴニが、なんの苦痛も喪失も感じずに済んだだろうから。でもそうすると、すべてのことは意味を失う。」(P.234)。

これは非常に重い問いだ。人生には、喜びと同じくらい苦しみもある。
私自身も青年期などに「こんなに苦しいなら生まれてこない方が良かった」などと世迷言を覚えた時期もあった。
しかし、もし苦しみを避けるために「生まれなければよかった」と考えるなら、生の価値そのものが揺らいでしまうのだ。
小説では、ユンジェは最後に「それではすべてのことは意味を失う」と結論づける。
このあたりは表現を含めてぜひとも読んでほしい部分です。

本書の中ではユンジェは、決して直接的な感情表現をしない。
しかし、この思考の過程そのものが、彼が「生きることの意味」を考え始めたことを示している。
この瞬間、彼はただ感情を持たない少年ではなく、「他者の痛みや喪失を考えることができる存在」になったのだ。

本書は、ユンジェの視点で進むため、感情的な描写はほとんどない。
しかし、だからこそ、彼の些細な変化が読者にとって大きな意味を持つ。
たとえば、ドラという少女に惹かれる場面では、「恋」とか「愛」という言葉を使わずに、ただ「違和感」として表現される。

「突然、胸の中に重い石が一つ飛び込んできた。」(P.203)。

このような表現から、ユンジェが自分でも説明できない感情を初めて経験していることが伝わってくる。
読者は、「彼は恋をしている」と理解できるが、ユンジェ自身はそれを「恋」とは言わない。この細やかな表現こそが、本書の魅力なのだ。

『アーモンド』は、単なる「感情を持たない少年の話」ではない。
むしろ、感情とは何か、人はどうやって他者とつながるのかという深いテーマを扱っている。
このテーマを通じて、彼はゆっくりと世界を理解し、自分なりの言葉で「感情」を表現し始める。
その変化こそが、本書の最大の魅力なのだ。

読み終えたとき、私は改めて「感情とは何か?」「他者とつながるとはどういうことか?」を考えさせられた。ユンジェの成長は、感情に振り回される私たちにとっても、多くの気づきを与えてくれるものだった。
今月ベストです、おすすめです。

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印象的なくだり
僕にとってもそこは居心地の良い場所だった。ほかの人だったら、「好きだった」とか「気に入った」と言うのかもしれないけれど、僕が使える表現としては、「居心地が良い」と言うのが最大限だ。古本の匂いが、まるで慣れ親しんだものみたいな顔をして僕のところへやってきたからだ。初めて嗅いだのに、ずっと前から知っていたみたいに。暇さえあれば本を開いて匂いを嗅いでいる僕に、かび臭い古本の臭いなんか嗅いでどうするんだとばあちゃんは文句を言った。
本は、僕が行くことのできない場所に一瞬のうちに僕を連れて行ってくれた。会うことのできない人の告白を聞かせてくれ、見ることのできない人の人生を見せてくれた。僕が感じられない感情、経験できない事件が、本の中にはぎっしりと詰まっていた。それは、テレビや映画とはまるで違っていた。
映画やドラマ、あるいはマンガの世界は、具体的すぎて、もうそれ以上僕が口をはさむ余地がない(P.052)。

僕を見た瞬間、男の瞳が左右に大きく揺れた。遠からず彼にまた会うことになるだろうという予感がした。僕に予感という言葉が似合わないことはわかっている。正確に言えば、僕は予感を感じたのではないから。
でも、よく考えてみれば、予感は、ただなんとなく感じられるものではない。日常的に経験する出来事は、気付かないうちに頭の中で条件と結果に分けられ、一つひとつ記憶として積み重ねられていく。そうすると、似たような状況に遭遇したとき、無意識のうちに結果を予測するようになる。だから予感というのは、実は因果関係のデータに基づいた客観的な見通しなのだ。果物をミキサーにかけるとジュースになることを知っているように。男が僕を見る目つきは、僕にそんな「予感」を与えた。
その後も、病院に行くとたびたび男に出くわした。食堂でも廊下でも、視線を感じて振り返ると、いつも彼が僕を見つめていた。何か言いたいことがあるようにも、観察しているようにも見えた。だから彼が店に僕を訪ねてきた時も、少しも意外に思わなかった(P.095)。

いろんな考えが頭をよぎった。時間を戻すことができたなら、ユン教授はゴニを生まないことを選んだだろうか?そうしていたら、彼ら夫婦はゴニを失わずに済んだだろう。
おばさんは、自分を責めて病に倒れることもなかっただろうし、後悔しながら死ぬこともなかっただろう。ゴニのしでかした頭の痛いことも、そもそも起こらなかっただろう。そんなふうに考えると、やはりゴニが生まれない方が良かったように思える。何よりもゴニが、なんの苦痛も喪失も感じずに済んだだろうから。
でもそうすると、すべてのことは意味を失う。嫌な思いをしない、辛い思いをしたくないという目的だけが残る。おかしなことに(P.234)。

【解説】
本作がユニークなのは、ユンジェの視点で進行するために心理描写はほぼなく、ひとの表情や出来事がありのままにうつしとられていく点だ。読者はユンジェの脳の働きを、部分的に追体験することができる。ドラという少女を、つい目が追ってしまうこと。彼女の髪が顔にあたったとき、〈突然、胸の中に重い石が一つ飛び込んできた〉と感じたこと。
恋や愛といった抽象概念をつかうことなく、自身の内に湧きでてきた違和感への几帳面な言語化は、ユンジェのたしかな成長の証にもなる(P.277)。

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『人生攻略ロードマップ』

『人生攻略ロードマップ』迫祐樹

読後の感想
迫祐樹さんの『人生攻略ロードマップ』は、まさに現代を生き抜くための実践的な指南書だ。
本書は、ただ単に「成功する方法」を教えるのではなく、「どうすれば自由に生きられるのか?」という根本的なテーマに焦点を当てている。
特に、ロードマップと書かれているとおり、経済的・時間的・精神的・身体的な自由を得るための戦略が再現できるようにに書かれており、読者は自分の人生を戦略的に設計するヒントを得ることができる。

「汗水垂らして働く」必要はない
現代の新しい稼ぎ方
本書の冒頭で、著者は「汗水垂らして稼ぐ必要はない」と述べている。
この一文を読んで、「楽して稼げる方法を教えるのか?」と思う人もいるかもしれない。
しかし、著者が伝えたいのは「労働=収入」という考え方から脱却し、効率的に収入を得る方法を考えるべきということだ。

たとえば、プログラミングを学ぶことで単純作業を自動化したり、ブログやYouTubeなどの資産型ビジネスを活用したりすることで、労働時間を減らしながらも収入を得ることが可能になる。
ここで重要なのは、「何もせずに儲ける」のではなく、「効率よく収入を得る仕組みを作る」ことなのだ。

「損をしていることに気づかない」怖さ
本書の中で、著者が指摘する「損をしていることに気づかないのがいちばん怖い」という言葉には強く共感した。
多くの人は、「これは当たり前だ」と思い込んでいることに疑問を持たず、その結果として時間やお金を無駄にしてしまっている。
たとえば、著者の友人が手作業でデータを入力していた話がある。
この友人は、「手作業でやるのが当然」だと思い込んでいたため、プログラムを使って自動化するという発想自体がなかった。しかし、著者のやり方を見て初めて、「もっと効率的な方法がある」ことに気づいたのだ。
このエピソードは、私たちの日常生活にも当てはまる。
無駄な仕事のやり方、不要な支出、効率の悪い時間の使い方——こうした「気づかぬ損失」は、意識しない限りずっと続いてしまう。
本書を読むことで、自分が何に無駄を費やしているのかを改めて考えさせられた。

「やりたいこと」は「やれること」が増えれば見つかる
多くの人が、「やりたいことが見つからない」と悩んでいる。
しかし、著者はこの考え方自体に問題があると指摘する。
「やりたいことがない」のは、「やれることの選択肢が少ないから」だというのだ。
この視点は非常に新鮮だった。
確かに、ほとんどの人は、自分ができる範囲の中で「やりたいこと」を考えてしまう。しかし、お金や時間の自由がなかったり、スキルがなかったりすると、選択肢が狭まり、「やりたいことがない」と感じるのは当然のことだ。
著者自身も、大学生の頃は「やりたいこと」がなかったが、資産が増えるにつれて選択肢が広がり、次第にやりたいことが見つかっていったという。
つまり、まずはスキルを身につけ、経済的な自由を得ることが先であり、その結果として「やりたいこと」が見えてくるというのだ。

この考え方は非常に納得感がある。
私たちは、「やりたいことを探さなきゃ」と焦るよりも、まずはスキルや経験を増やし、選択肢を広げることを優先すべきなのだ。

「仕組み化」が自由への鍵
本書の後半では、「仕組みを作ること」の重要性が何度も語られている。
たとえば、「月商1000万円を目指すなら、自分がいなくても回る仕組みを作るべきだ」というアドバイスがある。
これは非常に本質的な考え方だ。
たとえば、自分がブログを書いて稼ぐ場合、そのブログが収益を生む仕組みを作っておけば、自分が手を動かさなくても収入を得ることができる。
同様に、プログラミングでシステムを作れば、それが自動で動き続け、利益を生み出すことも可能だ。

「自分が働かなくても収入が生まれる仕組みを作る」——この考え方こそが、本書の目指す自由な人生を実現する鍵なのだ。

「やりたくないことリスト」が人生を変える
本書の終盤では、「やりたいことリスト」ではなく「やりたくないことリスト」を作ることの重要性が述べられている。
多くの人は、「自分が本当にやりたいこと」を見つけようとする。
しかし、現実にはそれを考えてもなかなか出てこない。
一方で、「やりたくないこと」を考えると、意外とスラスラと出てくるものだ。
たとえば、「満員電車に乗りたくない」「上司に怒られたくない」「安月給でこき使われたくない」こうした「やりたくないこと」が明確になれば、それを避けるための行動が見えてくる。
そして、それを実行することで、結果的に自分の理想の生き方に近づいていくのだ。
この発想は、非常に実践的で効果的だと感じた。
「やりたいことがわからない」と悩むよりも、「やりたくないこと」を明確にして、それを排除する方向で人生を設計していくほうが、ずっと現実的で行動しやすい。

印象的なくだり
「損をしていることに気づかない」のがいちばん怖い
私の友人は、たまたま私の隣にいたことで、「プログラムを使うとこんなにも効率的にできる作業を、自分は手作業でやっていた」と気づくことができました。
しかし、一般的には気づかないことのほうが多いのです。
なぜか。今回の例になぞらえれば、「手作業でやるのが当たり前で、それ以外の手段を考えることがなかったから」です。
友人にとっては、たとえどんなに面倒くさくても、時間をかけて手入力でデータをまとめてグラフにするのが「当たり前の常識」であり、「楽をする」という発想はなかったのです。
もしも、自分の横で楽をしている私の姿を見なければ、友人は何の疑問も持たず、引き続き時間をかけて手作業でまとめていたことでしょう。
「もっといい方法がある」という知識がないせいで、お金や時間を浪費してしまい、しかもその事実に気づかないために、いつまでも損をし続ける。そのようなことが、現実にはいくらでもあるのです(P.050)。

大人たちは、若者に「やりたいこと」や「将来の夢」を聞くのが好きです。
ただ、私個人としては、「やりたいことを見つける」より、「やれることを増やす」ほうが大事なのではないかと考えています。
世の中のほとんどの人にとって、「やりたいこと」は「今、自分ができること」の延長でしかありません。
だから、「今、自分ができること」の範囲が狭い一般的な大学生を捕まえて「やりたいことは何?」と聞いたところで、大した答えが返ってくるわけがないのです。せいぜい、「やりたいことなんて、とくにないです」「就職して、普通に暮らしていきたいです」と答えるのが精一杯でしょう(P.073)。

人間は誰しも、知らず知らずのうちに、自分にも可能な、現実的な範囲で「やりたいこと」を決めてしまうものなのです。
私の場合は、「やりたいこと」が何ひとつなかった大学生ですら、「所持金1億円」となったとたんに選択肢が広がり、「やりたいこと」がどんどん出てくるようになる。
つまり「本当にやりたいこと」を見つけるためには、自分の「選択肢」を増やしていくしかないということです(P.074)。

学ぶべき「ベーススキル」とは?
「ステップ3」では、「ステップ2」で得たお金を元手に、これから自分の力で稼いでいく礎である「ベーススキル」を身につけます。
習得すべきスキルの条件は、次の3つです。
・需要が供給を上回っており、市場価値が高いスキル
・リモートワークや独立がしやすく働き方の自由度が高いスキル
・自分がやっていて楽しいと思えるスキル
需要が高いスキルを選ぶことは金銭的な自由度を上げるために大切な要素です。需要が高いスキルであれば、自ずと仕事の単価は高くなります。
また、働くことを考えたとき、在宅可能であったり、稼働時間が決まっていなかったりといった、できるだけ自由度が高いスキルを身につけましょう。仮に需要があっても単価が高くても、働き方で縛られては意味がありません。スキルを選ぶ際にも、時間的な自由度が将来的に高くなりそうなものを選んでいきましょう。
そして「やっていて楽しいと感じるか」。これも重要です。お金がもらえて、かつ働き方が選べたとしても、まったく楽しくなく、日々苦痛を感じていれば、精神的な自由を得られません。
スキルを選ぶ際にも、人生攻略における4つの自由である「金銭的な自由」「時間的な自由」「精神的な自由」「身体的な自由」が満たされるものを選びましょう(P.098)。

「⑤自分が最近挑戦していることの共有」は、フォロワーに「この人、口ばっかりじゃなくて、実際に『やる』人なんだな」と思ってもらうのに効果的です。
たとえば、私であれば「収入源を複数持つのが大事である」という価値観を発信するだけではなく、「新規事業でタピオカ屋さんを始めました」とか「新しいWebサービスをリリースしました」と、価値観の共有に加えてその価値観に沿った行動内容を逐一共有しています。
SNSでは、「口だけは達者だが、実際にはまったく行動していない人」が多く存在します。逆にいうと、そういう人が大半を占めるSNSの世界だからこそ、少し行動して結果を出すだけで周りに圧倒的な差をつけることができるのです。
行動を伴った発信をすることで、「発信」の説得力が格段に増すわけですね(P.140)。

「月商1000万円を目指すなら、自分がいなくても回るような仕組みをつくることだ。君が必死にプログラムを書いて、ブログを書いて得る100万円と、君がいなくても仕組みが回って売り上げる100万円とでは質が違う。君がいなかったらゼロになってしまう100万円と、君がいなくてもしっかり売上として立つ100万円の違いだ。仕組みをつくって回せるようになれば、月商1000万円、年商1億円も見えてくるよ」(P.162)。

たとえば、「やりたくないこと」を洗い出し、「それらをやらなくてよい状況をつくる」すると自然に、人生の自由度は高まっていきます。
結果的に「やるべきこと」がわかる
そして改めてリストをご覧いただくと、「やりたくないこと」はすべて「現実味がある」ことがおわかりいただけるでしょう。
無理矢理ひねり出した「やりたいことリスト」では、「タワーマンションの最上階に住みたい」「高級車に乗りたい」など、ちょっと現実離れしたものを書きがちですが、「やりたくないことリスト」は現実と直結しているため、「やらないためには、どうすればいいか」という対策が立てやすくなります。
「やりたくないことリスト」をつくると、結果的に「今やらなければならないこと」が浮かび上がってきてモチベーションが上がるわけです(P.191)。

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『地面師たち アノニマス』

読後の感想
新庄耕先生の『地面師たち』シリーズの最新版にして前日譚の小説。
この小説はNetflixの後に書かれているので、いわゆる「あてがき」と呼ばれるキャスティングを先に想定した小説なのですが、登場人物が完全に俳優と一致していましたね。
特に、法律屋と呼ばれる司法書士崩れの後藤(というかピエール瀧)。
後藤の章は「もうええでしょう」がずっと頭の中をリフレインしていました。

ところで、アノニマスって単語は「匿名」という意味なのに、登場人物は全てハリソン山中と出会う前の「実名」で登場しているのはなぜなのでしょうね。
(逆にハリソン山中だけがウチダと名乗っており、例外的に匿名とも言える。)

登場人物はみな少しずつ他人に裏切られながら、自ら破滅の道に転落していく様が、哀しくもあり、愛おしくもありました。

もちろん特筆すべきは後藤氏。
家族があり、決して根っからの悪人ではないように描かれていますが、小さなきっかけからどんどん道を外れ、歯止めが効かなくなります。
当初、ハリソン山中の誘いに対して、司法書士の品位保持義務を理由にきっぱりと断り、しかもその誘いに怒りの感情さえ見せていた後藤。
その後藤が、きちんと司法書士業務を行おうとする資格者に対して「もうええでしょう」と脅し、強引に決済の完了を迫るまでの過程を考えると切なくなります。
あの後藤の言葉は「どのような感情を表したものだったのか」「あの(何も知らない)司法書士は責任を問われるであろう、と分かった上で」の「もうええでしょう」なのです。

私もピエール瀧のような立派な司法書士になりたいものです(ちょっと違う)。

あと39ページの「人生」の「オールナイトロング」はずるいよね。
「電気グルーヴ」の前身である「人生」(インディーズ時代はZIN-SAY)の「オールナイトロング」を後藤の章に出してくるのは反則です。
でも元の曲は「き〜んたまがみぎ〜によっちゃった〜、はい、オールナイトローング」という下劣な歌詞ですが。

「もうええでしょう」を深く味わいたい人はぜひ。

印象的なくだり
「私も、もう一杯もらっていい?」
ランが媚びた表情でこちらをうかがっている。
小遣いはわずかで、妻子のためにも無駄な金は使えない。「今夜はほんまごめん。今度な、今度」
腕時計に目をやると、セット料金の終了時間と門限がせまっていた。
「あかん、もう帰らな。最後、『オールナイトロング』歌って行くわ。ランちゃん、入れてくれる?」
ほかの客のところへ行こうとするランを引き止め、カラオケのリモコンをもたせた。
「誰の曲だっけ?」
「それ忘れたら、あかんやん」
後藤は、残りのハイボールを呑み干してからマイクを握り、
「人生」
と、厳かな声で喉をふるわせた(P.039)。


「先生さすがだなと思ったのは、そのシチュエーションとかキャラクターを説明するのに、二行ぐらいの文章でバッとイメージを掴めるんですよ。竹ちゃんと競馬場に来た女が、「画面にクモの巣状のヒビが入ったスマートフォンを気だるそうにいじっている」とか。竹ちゃんとの関係性と競馬場に連れてこられた退屈さと、女の人の生活感というのが一発で分かる。そういう文章が結構あるんです(P.219)。

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『知的障害者施設潜入記』

『知的障害者施設潜入記』織田淳太郎 光文社新書

読後の感想
本書『知的障害者施設潜入記』は、著者・織田淳太郎氏が知的障害者施設に潜入し、支援の現場で実際に働きながら、その内実を記録したルポルタージュである。
タイトルの「潜入記」という言葉から、スキャンダラスな告発本を想像する人もいるかもしれない。
しかし、実際にページをめくると、そこに描かれているのは、著者自身が施設の利用者と向き合う中で生じた葛藤や発見、そして読者に突きつけられる「私たちの側の問題」だった。

本書で、著者は「私たちの無意識の差別感(あるいは障害者に対する漠然とした恐れ)が、過去の悲劇の根底にあったのではないか」と語る。これは極めて重要な指摘だ。
多くの人は、自分が差別をしているとは思っていない。
しかし、「障害者には特別な支援が必要だ」「かわいそうだから助けなければならない」といった発想そのものが、すでに“健常者を基準とした価値観”に基づいていることを、本書は鋭く突きつける。
たとえば、施設の支援計画書にあった「物を投げる」といった行動を、障害の「特性」として書き記すことに、著者は疑問を抱く。
この行動が「問題行動」とみなされるのは、それを受け止める側の価値観によるものではないか。
つまり、障害のある人の行動を、私たちがどうラベリングするかによって、彼らの「特性」は決定されてしまうのだ。
障害のある人たちは、私たち「多数派」の社会のあり方によって、ある意味で“障害者”にされている——この視点は、読む者の意識を大きく揺さぶる。

本書の中で語られるナチス・ドイツの「T4作戦」は、障害者差別の歴史の最も恐ろしい側面の一つだ。
知的障害者や精神障害者が「生きるに値しない命」とされ、組織的な殺害の対象になったこの過去は、決して遠い昔の話ではない。
現代においても、「障害のある人が生まれるのは不幸だ」「生きるのが大変だから、事前に防ぐべきだ」という優生思想に基づく考えは、根強く残っている。
日本でも、戦後しばらくまで優生保護法の下で障害者の強制不妊手術が行われていたし、2016年の相模原障害者施設殺傷事件では、「障害者は社会に不要である」とする極端な優生思想が、悲劇的な形で噴出した。
著者の指摘のとおり、こうした事件は単なる「異常な個人」の問題ではなく、社会の無意識の中に根付いた価値観と無関係ではないのではないか。

本書の終盤で語られる「転移」「逆転移」の概念は、障害者支援に関わる人だけでなく、すべての対人支援に携わる人にとって考えさせられるテーマだ。
支援者は、障害者に対して個人的な感情を投影しやすい。そして、それが過剰な同情や保護的態度につながると、障害者本人の主体性を奪うことになりかねない。
著者自身も、利用者と接する中で、自分の中にある「博愛主義」に気づかされる。
そして、それが本当に相手のためになっているのか、自分の満足のためのものではないかと自問する。
この葛藤は、障害者支援に限らず、家族関係や教育、福祉の現場でも見られる普遍的な問題だろう。

本書を読み終えたとき、私は「知的障害者の世界を知った」というよりも、「自分たちの世界のあり方を問われた」と感じた。
私たちは、障害者を「支援される側」として捉えることで、無意識のうちに上下関係を作っていないか。
彼らの行動を「問題」とみなすこと自体が、私たちの側の価値観にすぎないのではないか。
本書は、知的障害者施設の現場をリアルに描きながら、読者に「あなた自身はどう考えるのか?」と問いかけてくる。
障害者に対する無意識の偏見や、善意の中に潜む自己満足、そして社会の構造が生み出す「障害」という概念について、深く考えさせられる一冊だった。
読後、私は改めて、私たちが共に生きる社会のあり方を、もう一度見つめ直す必要があると強く感じた。

印象的なくだり
誤解を恐れずに言えば、そのほとんどが私たちの無意識の差別感(あるいは障害者に対すされた事件だったのではないかと、私は思い始めている。
そういう意味で、本書は知的障害者施設(施策)の内実の一端を世に伝えると同時に、私たち一人一人の心の奥に潜む差別的・優生的な観念を明るみに出し、その内省を促すルポルタージュという側面も有しているかもしれない。
私もそれを促された一人だった。日々を共にした多くの知的障害者たちに、内省への意識転換を急き立てられ、自分のなかに居座る偽善的な「博愛主義」と対峙せざるを得ない心理状態へと追いやられてきた。そして、ときにユーモラスな、ときに哀切漂う彼らとの交流が、どれほど私の目を開かせてくれたか。
彼らには感謝以外の言葉が見つからない(P.005)。

ナチスのT4作戦
ヒトラー政権が発足した1933年、ナチス・ドイツは国内初の断種法となる「遺伝病子孫予防法」を、早々と制定した。これは、遺伝性と見なされた障害や病気のある人に対する強制的な不妊手術を認めた法律で、ナチス政権下において30万~40万人が不妊手術を受けたとされている。
ヒトラーによる独裁体制が盤石になるにつれ、この断種政策はさらにエスカレートした。1920年にドイツで出版された、刑法学者カール・ビンディングと精神医学者アルフレート・ホッへの共著による『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』。2人の著名な学者によるこの狂的な「能力差別論」も、ヒトラー政権の犯罪的蛮行に決定的な正当性を与えた。
1939年9月1日の開戦日(ポーランド侵攻)、ヒトラーの命により知的障害児や精神障害児などをターゲットにした「安楽死計画」が発布された。その後、成人障害者の殺害を対象とした「T4作戦」も実行に移され、この2つの殺害計画の犠牲者は、20万人以上に上ったという(P.040)。

T作業所が作成したキコちゃんの個別支援計画書の一文が、ふと頭をよぎった。
〈気分の波が激しく、物を投げつけたりの物品破壊に及ぶこともあるため、傾聴によって気分を落ち着かせる・・・・・・〉
あたかも物品の破壊が、障害の特性のように書かれていた。しかし、障害それ自体は先天性、後天性を問わず、ある意味で自然なものである。障害の特性も自然発生的なものだが、その特性に良くも悪くも色を付けるのは、私たち「外部」の人間なのではないか。
何度も読み返した障害者権利条約の前文の一節も、脳裏をかすめた。
(障害が、機能障害を有する者とこれらの者に対する態度及び環境による障壁との間の相互作用であって・・・・・・)
まるで謎が解けたような想いだった。
このとき私は、キコちゃんだけでなく知的障害者すべての障害特性が、「マジョリティ」と呼ばれる私たち多数派によって作り出されていることを、緩やかに悟った(P.236)。

心理学に「転移」「逆転移」という用語がある。心理療法において、クライエントは重要な他者(肉親や教師など)に対して抑圧してきた感情を、治療者に向けて投影することが多い。これが「転移」と呼ばれるもので、愛情や信頼、尊敬などの好感情を向けることを「陽性転移」、敵愾心や恨み、憎悪といった悪感情を向けることを「陰性転移」という。
一方、「逆転移」とは、治療者が他者に抱いてきた個人的な感情を、クライエントに投影することを意味する。クライエントの転移感情に対して、治療者が逆転移感情を向けることが一般的で、そうなると、もはや心理療法としての機能を喪失するだけでなく、ともすればクライエント本人に悪影響を与えてしまうこともある。そのため、治療者には中立的な感情がつねに求められるが、この逆転移は障害者施設の支援者と利用者との関係においても、たびたび見られる投影現象だという(P.385)。

駅に着くと、母親がバッグから一枚のDVDを取り出した。
「これ、よかったら観てください。必要なら差し上げます」
虐めに苦しむ人や不登校児、さらに障害のある人とその家族の苦闘を追ったドキュメンタリー映像だった。
これまでの自分の歩みが、走馬灯のように脳裏を駆け抜けた。T作業所で働いた2年強の歳月において、私は障害当事者のことばかりに心を向け、その肉親の労苦や葛藤をほとんど顧みることなく過ごしてきたのではないか。
差し出されたDVDには、そんな私に対する忠告の意味が込められているような気がした(P.438)。

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