夜と霧(旧版)

『夜と霧(旧版)』
V.E.フランクル著
霜山徳爾訳

読後の感想

 読んでいる途中何度も目頭が熱くなり、読めなくなることが何度もありました。
 「悲しい」とか「切ない」とか、そのような感情ではなく「虚無感」に近いものを感じました。
 すなわち、なぜ人間はこのような残虐なことを行えたのか、ということと、どうして人間はそれを耐え抜けたのか、そして、耐え抜いた結果、一体何が残ったのか、ということを考えると、何も残らないのです。
 悲劇的な事実は存在するのに、その理由がない、これが虚無感の原因だと感じました。

 この虚無感を無くすためには、同じようなことを繰り返さないよう努力し続けることが必要です。
 新版よりも旧版のほうが読みにくいですが、読み返す機会が増えるので、旧版のほうがお奨めです。

印象的なくだり

フランクルの書の原題は、”Ein Psycholog erlebt das K.Z”で「強制収容所における一心理学者の体験」とも訳すべきであろう(後略)。
「夜と霧」この名の由来は、一九四一年十二月六日のヒットラーの特別命令に基づくもので、これは、非ドイツ国民で占領軍に対する犯罪容疑者は、夜間秘密裏に捕縛して強制収用所におくり、その安否や居所を家族親戚にも知らせないとするもので、後にはさらにこれが家族の集団責任という原則に拡大され、政治犯容疑者は家族ぐるみ一夜にして消え失せた。
これがいわゆる「夜と霧」Nacht und Nebel命令であって、この名はナチスの組織の本質を示す強制収容所の阿鼻叫喚の地獄を、端的に象徴するものとして最近は用いられるようになった(P007)。

強制収容所の実体を大衆に知らせないようにする手段も十分に考慮が払われており、注意深く計画されていた。
もともとドイツ国内においてすらこの事は秘密のヴェールにおおわれ、広く流布された噂があるだけであった。
そしてこの秘密のヴェールや噂も、共に秘密を深め恐怖を昂めるだけであった。
事実、大多数の人々は収容所の鉄条網を張り巡らした柵の背後で何が行われたいるかを知らなかった。
ただ少数の人々が推測をしていたに過ぎない(P009)。

すなわち最もよき人々は帰ってこなかった(P078)。

われわれは当時の囚人だった人々が、よく次のように語るのを聞くのである。
「われわれは自分の体験について語るのを好まない。何故ならば収容所の自ら居た人には、われわれは何も説明する必要はない。そして収容所にいなかった人には、われわれがどんな気持ちでいたかを、決してはっきりとわからせることはできない。そしてそれどころか、われわれが今なお、どんな心でいるかも分かって貰えないのだ」(P081)。

人間が強制収容所において、外的のみならず、その内的生活においても陥って行くあらゆる原始性にも拘わらず、たとえ稀ではあれ著しい内面化への傾向があったということが述べられねばならない。
元来精神的に高い生活をしていた感じ易い人間は、ある場合には、その比較的繊細な感情素質にも拘わらず、収容所生活のかくも困難な外的状況を
苦痛ではあるにせよ彼等の精神生活にとってそれほど破壊的には体験しなかった。
なぜならば彼等にとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへと逃れる道が開かれていたからである。
かくして、そしてかくしてのみ繊細な性質の人間がしばしば頑丈な身体の人々よりも、収容所生活をよりよく耐えたというパラドックスが理解され得るのである(P121-122)。

収容所において最も重苦しいことは囚人がいつまで自分が収容所にいなければならないか全く知らないという事実であった。
彼は釈放期限などというものを全く知らないのである
(P172)。

すなわち強制収用所における囚人の存在は「期限なき仮りの状態」と定義されるのである(P172)。

(前略)私を当時文字通り涙が出るほど感動させたものは物質的なものとしてのこの一片のパンではなく、彼が私に与えた人間的なあるものであり、それに伴う人間的な言葉、人間的なまなざしであったのを思い出すのである。
これらすべてのことから、われわれはこの地上には二つの人間の種族だけが存するのを学ぶのである。
すなわち品位ある善意の人間とそうでない人間との「種族」である。
そして二つの「種族」は一般的に拡がって、あらゆるグループの中に入り込み潜んでいるのである。
専ら前者だけ、あるいは専ら後者だけからなるグループというのは存しないのである。
この意味で如何なるグループも「純血」ではない……だから看視兵の中には若干の善意の人間もいたのである(P196)。

「夜と霧(旧版)」への1件のフィードバック

  1. ふくしげさん、こんばんは
    お久しぶりです
    私はアウシュビッツでこの夜と霧の映像バージョンを見ました
    色々な人間の中身がアウシュビッツでは垣間見えて、自分自身でさえ恐ろしく感じたのを覚えています
    こんなこと二度とあってはいけないのに、それでも世界のどこかで戦争がまだまだ続いていて、、、
    切なくなります

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