『無理ゲー社会』橘玲

読後の感想
サブタイトルが「才能ある者にとってユートピア、それ以外にとってはディストピア」とかなり刺激的ですが、まさにその通りだと感じました。
本書の趣旨としては、「知能と努力」による平等な競争の結果として、その競争に負けたものは自己責任以外の何者でもない(という建前になっている)。その結果、人生の攻略難易度(成功するかどうか)が爆上がりし、成功者以外は非常に辛い人生を歩むことになっているというものでした。

身分制社会では、生まれたときの身分によって職業や結婚相手など、その後の人生が決まってしまう。これはきわめて理不尽だが、それで不幸になったとしても個人の責任が問われることはない(「生まれ」が悪かったのだ)。ところが「誰もが自分らしく生きられる社会」では、もはや身分のせいにすることはできず、成功も失敗もすべて自己責任になる。
これが「メリトクラシー」だ(P.046)。

才能の貴族制度
「リベラル」な社会では、身分や階級だけでなく、人種・民族・国籍・性別・年齢・性的指向など、本人が選択できない属性による選別は「差別」と見なされる。しかしそれでも、入学や採用、昇進や昇給にあたって志望者を区別(選別)しなければ組織は機能しなくなってしまう。
この難問を解決するには、「属性」でないで評価する以外にない。が「学歴・資格・経験(実績)」で、これらは本人の努力によって向上できるとされた。入学試験の成績が悪いのは本人が努力しなかったからで、一流企業に入社できないのは学歴が低いからだが、これも本人の「自由な選択」の結果なのだ。
これは逆にいうと、本人が努力すれば成績=知能はいくらでも向上していくということになる。これが「教育神話」で、知能と努力をセットにした「メリット」による評価こそが公正な社会をつくるのだ。その後これは「リベラル」の信念になっていく。
しかしヤングは、これがたんなるきれいごとだということに気づいていた。「全く当然のことながら、有能な父親が有能な子供をもつことは事実」であり、この流れは「知能指数の高いもの同士の結婚が広く行なわれるようになる」ことでさらに加速すると書いているように、高学歴の男女の同類婚によって高い知能が子どもに遺伝することもはっきりと認識していた。
メリトクラシーのディストピア
行動遺伝学が半世紀にわたって積み上げた頑健な知見では、知能の遺伝率は年齢とともに上がり、思春期を終える頃には70%超にまで達する。この科学的事実(ファクト)を認めることを現代のリベラルな知識人は一貫して拒絶しているが、1950年代は知能が遺伝することは当然の前提とされていたのだ(P.081)。

誰もが「知能」と「努力」によって、平等に自分らしく生きていけることによって、その結果はすべて自己責任として跳ね返ってくる。その結果、「知能が高い上級国民」と「知能が低い下級国民」に分断される、みたいな記述ははっきり言って書きにくいタブーに近いと思います。
しかしながら、実際に分断していることも(実感としては)事実であり、よく書いたなぁと、勇気ある記載でした。

「絶望死」というパンデミック
世界じゅうで平均寿命が延びているのに、アメリカの白人労働者階級(ホワイトワーキングクラス)だけは平均寿命が短くなっている。この奇妙な事実を発見した経済学者のアン・ケースとアンガス・ディートンは、その原因がドラッグ、アルコール、自殺だとして、2015年の論文でこれを「絶望死(Deaths of Despair)」と名づけた。その翌年にドナルド・トランプが白人労働者階級の熱狂的な支持を受けて大統領に当選したことで、この論文は大きな注目を集めた。
「絶望死」とは、「死ぬまで酒を飲み続けたり、薬物を過剰摂取したり、銃で自分の頭を撃ち抜いたり、首を吊ったりしている」ことだ。2人はその後、膨大な統計データを渉猟し、アメリカ社会で起きている「絶望死」の実態を詳細に描き出した(P.129)。

そして、その分断の結果、何が待っているかというと「絶望死」もしくは「自殺する権利」の主張です。要するに、才能がない者にとってはこの世はディストピアなのだから早く終わらせたいという主張なのです。
この考え自体がディストピア的な発想だなぁと悲しくなります。

デジタル通貨を使った「負の所得税」
生活保護など従来の福祉制度は、誰が正当な受給対象者なのかの選別が困難で、申請者の収入・資産だけでなく親族の扶養能力まで調べる「ミーンズテスト(資力調査)」が不可欠とされている。これが生活困窮者に申請をためらわせ、多くの悲劇を引き起こしてきたとして、「無条件一律給付」のUBI(ユニバーサル・ベーシック・インカム)に人気が集まった。だが、マイナンバーによって行政がリアルタイムに銀行口座の入出金を把握できれば、一定以下の所得を対象に納税額のマイナス分を自動的に現金給付することが可能になる。
代表的なリバタリアン(新自由主義)の経済学者であるミルトン・フリードマンは、政府の介入をことごとく否定したが、ほぼ唯一の例外が「負の所得税」だ。この提案では、税金はかからないが給付も受け取れない「基準所得」を(例えば)年収300万円とし、負の所得税率を50%とすると、年収200万円だったひとはマイナス100万円の半分、50万円の給付を受ける。所得がゼロだったひとは、負の課税所得が300万円になるので、その半分の150万円が支給される。
負の所得税の特徴は、UBIとちがって就労意欲をなくさないことだ。年収300万円以下なら、すこしでも働けば収入の全額が自分のものになる(負の所得税の給付は減る)。
基準所得を超えれば当初は低率の所得税がかかるが、それでも仕事をすればその分だけゆたかになれる。なによりも生活保護とちがって、負の所得税の申告は「労働者」として認められることになる。
負の所得税はミーンズテストが不要な効率的な福祉政策として経済学者の人気が高く、アメリカ(勤労所得税額控除 EITC)のほか、イギリス、フランス、オランダ、スウェーデン、カナダ、ニュージーランド、韓国など10カ国以上で部分的に導入されている(P.250)。

本書に触れられていた「負の所得税」という考えは非常に参考になりました。ベーシックインカムを実施すると勤労意欲が減少するという副作用は多く知られていましたが、この負の所得税という考えは、副作用を抑えつつ、低所得者層への実質的な減税です。

印象的なくだり

わたしたちは「ばらばら」になっていく
19世紀末のドイツに生まれた精神科医のフレデリック・パールズは、精神分析学を学んだもののフロイトと訣別し、過去ではない現在(いまここ)を重視するゲシュタルト心理学を創始した。第二次世界大戦を機にアメリカに渡ったパールズは、精力的にゲシュタルト療法のワークショップを行ない、東部や西海岸のエリートを中心に熱烈な信奉者を獲得した。これがのちの「自己啓発」ブームへとつながっていく。パールズは自身のワップで、「ゲシュタルトの祈り」という詩を読み上げた。
わたしはわたしの人生を生き、あなたはあなたの人生を生きる。
わたしはあなたの期待にこたえるために生きているのではないし、あなたもわたしの期待にこたえるために生きているのではない。
わたしはわたし。
あなたはあなた。
もし縁があって、わたしたちが互いに出会えるならそれは素晴らしいことだ。
しかし出会えないのであれば、それも仕方のないことだ。
この“祈り”には「リベラル」の価値観が凝縮されている。わたしが自由に生き、あなたも自由に生きるのなら、2人の人生はつかの間交錯するかもしれないが、いずれは離れていくだろう。自由な人生のなかでそれぞれが選択したことの結果は、一人ひとりが受け止めるほかはない。誰もが「自分らしく」生きる社会では、社会のつながりは弱くなり、わたしたちは「ばらばら」になっていくのだ。
ここからわかるのは、「自由」と「責任」がコインの裏表の関係にあることだ(P.031)。

政治(友情)空間が縮小すればその外側にある貨幣空間が拡大するはずだ。子どもの面倒をみてもらうことからペットの世話まで、これまで共同体の濃密なつながりに依存していたことを、わたしたちはどんどん貨幣経済で代替するようになった。「濃いつき合い」は大きな心理的コストをともなうので、それを金銭的コストで済ませようとするのだ。
産業構造のサービス化によって友情空間が貨幣空間にアウトソースされ、それによって愛情空間が肥大化すれば、友情はいずれ不要なものになってしまうだろう。いわば「友だちの消滅」だ。
ビルの屋上などにフットサルコートを整備しているところが増えてきた。このスポーツを楽しむには、(ゴールキーパーを含めて)各チーム最低3人、最大5人(それ以上は交代要員)のメンバーが必要になる。私は単純に、若者たちがフットサルのチームをつくって対戦するのだと思っていた。しかし最近では、決まったチームを持たずに時間があると近くのフットサルコートに行き、人数が足りなかったり、競技者が抜けたコートに入ってプレイするのだという。私にこのことを教えてくれた若者は、「いちばん嫌われるのは友だちとつるんでやってくることで、そういう奴らにはパスを回さない」といった。ゲームが終わると互いにハイタッチして解散で、相手の年齢や仕事はもちろん名前すら知らない。見知らぬ者同士がたまたま同じコートでフットサルをプレイするのがいちばん楽でいいというのだが、これはまさにパールズの「ゲシュタルトの祈り」そのものだ(P.042)。

「自分さがし」という新たな世界宗教
チャールズ・ライク
ライクは1928年、ニューヨークのリベラルな医師の家に生まれ、法律の道に進んでイェール大学ロースクールで、最優秀の学生に与えられる栄誉であるロー・ジャーナル(法律時報)の編集長に就任した。卒業後は連邦最高裁判所のヒューゴ・ブラック次席判事のロークラーク(調査官)に採用されたが、これも最優秀の法律家の卵である証だった。
(中略)
この華やかな経歴からわかるように、ライクは当時のアメリカ社会の超エリートであり、まぎれもない「特権層」だった。青年時代のライクは、「幸福とは義務をはたしたことへの報酬」だと素直に信じていた。社会が自分に求めていることを立派にやりとげれば、社会は約束を果たすに決まっているから、幸福を受け取ることができるはずだと思っていたのだ。
この信念が揺らいだのは、政府や司法の世界を支配していた“ザ・クラブ”と呼ばれるエリート・グループの価値観に合わせるのが苦痛になったからだ。アイビーリーグのロースクールを出た白人男性の法律家で構成されるこの集団では、タフ・マインド(強腰)とハード・ノーズド(鼻っ柱の強さ)が至上の価値で、猛烈な競争心でライバルを叩きのめすことが最高の栄誉とされた。理想家肌のライクにとっては、これらはバカバカしいものとしか思えなかった(P.054)。

平等な世界をもたらす四騎士
アメリカの歴史学者ウォルター・シャイデルは、古代中国やローマ帝国までさかのぼり、人類の歴史には平和が続くと不平等が拡大する一貫した傾向があることを見出した。ではなにが「平等な世界」をもたらすのかというと、それは「戦争」「革命」「(統治の)崩壊」「疫病」の四騎士だ。二度の世界大戦やロシア革命、中国の文化大革命、黒死病(ペスト)の蔓延のような「とてつもなくヒドいこと」が起きると、それまでの統治構造が崩壊し、権力者や富裕層は富を失って社会はリセットされ、「平等」が実現するのだ。 このように考えれば、戦前までは格差社会だった日本が戦後になって突如「1億総中流」になった理由がわかる。ひとびとが懐かしむ昭和30年代の「平等な日本」は、敗戦によって300万人が死に、二度の原爆投下や空襲で国土が焼け野原になり、アメリカ軍(GHQ)によって占領されて、戦前の身分制的な社会制度が破壊された「恩恵」だったのだ(P.204)。

合理的な選択に誘導する「ナッジ」
古来、自分の手でユートピアをつくろうとした者は多いが、ナチスのホロコースト、収容所国家と化したソ連、数千万人の餓死者を生んだ毛沢東の大躍進政策などを挙げるまでもなく、その結果は悲惨きわまりないものばかりだ。ベーシックインカムやMMT、超富裕税など、左派ポピュリズムの理想論がどことなく胡散臭いのは、過去のユートピア思想共通する”におい”がするからだろう。
それに対していま、まったく新しい種類のユートピア思想が台頭しつつある。脳科学や進化心理学の発展、コンピュータをはじめとするテクノロジーの爆発的な進歩によって、人間の不合理性を前提にしたうえで、それにもかかわらず「デザイン」することが可能になってきたのだ。
ナッジ(nudge)は「そっと肘で突く」ことで、「それとなく誘導する」という意味に使われるようになった。行動経済学者のリチャード・セイラーと法学者のキャス・サンスティーンは、自由な選択の機会を残したまま、よりよい選択をする傾向を高めるような工夫を「リバタリアン・パターナリズム(自由主義者のおせっかい)」と名づけて、いまでは欧米を中心に経済・社会政策に大きな影響を与えるまでになっている。
ナッジの例としては、カフェテリア形式の学校の食堂がよく挙げられる。フライドポテトのような高カロリーで栄養価の低い料理と、サラダのような低カロリーで栄養バランスのよい料理があった場合、フライドポテトを禁止してサラダを食べさせれば健康は改善するだろうが、これでは生徒の自由な選択を奪っている。それに対して、サラダを手に取りやすいところに、フライドポテトを取りにくいところに置けば、生徒たちはこの「デザイン」によって、(無意識に)健康にいい料理をたくさん食べるようになるだろう(P.253)。

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