『限りある時間の使い方』
読後の感想
オリバー・バークマン著『限りある時間の使い方』は、単なるタイムマネジメント本ではありません。
仕事効率化やタスク管理といった表面的なテクニック論ではなく、もっと根源的な問いを投げかけてくる一冊です。
それは、「自分の人生をどう生きるか」という、私たちが一度は必ず向き合う普遍的なテーマです。
本書を読み進める中で、私はある種の抵抗感を覚えました。
それは、著者があまりにも率直に「人生は有限である」という事実を突きつけてくるからでした。
私たちは、いつまでも若く、時間は無限にあるかのように錯覚しがちです。
しかし、本書はそんな幻想を打ち砕き、残された時間をいかに有意義に過ごすか、そのためのヒントを与えてくれます。
特に、「選択肢を増やすのではなく手放す」という言葉が印象的でした。
現代社会は、多様な選択肢があふれかえっています。
しかし、全ての選択肢を手に入れようとすることは、結局のところ何も得られないことにつながります。
大切なのは、本当にやりたいこと、価値のあることに集中し、それ以外のものを手放す勇気を持つことです。
また、「時間がまだあるという前提を疑う」という考え方も、私にとって新鮮なものでした。
私たちは、将来のどこかで「やりたいこと」を叶えるために、今の時間を我慢したり、犠牲にしたりしがちです。
しかし、未来は不確かなものです。
もしかしたら、明日、やりたいことを叶える機会が失われてしまうかもしれません。
だからこそ、今この瞬間を大切にし、やりたいことを実行に移すことが重要なのです。
本書を読んで、私は「今を生きる」ことの大切さを改めて実感しました。
未来を予測したり、過去を悔やんだりするのではなく、今この瞬間に集中し、目の前のことに全力を尽くす。
それが、有限な人生を豊かに生きる秘訣なのかもしれません。
しかし、同時に私は大きな疑問も抱きました。
それは、「時間を無駄にする」とは一体何なのか、ということです。
何かを成し遂げなければ、時間を無駄にしたと感じてしまう。
そんな思いが、私の心の中に根強く残っていました。
しかし、本書を読んだことで、その考え方がいかに愚かであったか気づかされました。
時間は常に流れており、何をしていても、あるいは何もしていなくても、時間は過ぎていきます。
大切なのは、その時間をどう捉えるか、どう過ごすかということです。
本書は、決して楽観的なメッセージばかりを伝えるわけではありません。
むしろ、人生の厳しさや儚さを突きつけ、私たちに深い問いを投げかけてきます。
しかし、その問いと向き合うことで、私たちは自分自身の人生について、より深く理解することができるでしょう。
『限りある時間の使い方』は、人生の羅針盤を見つけるための旅の地図のようなものです。
この本を読み、自分自身と向き合い、本当に大切なことに気づき、より充実した人生を送るためのきっかけにしていただけたら幸いです。
まとめ
人生の根源的な問いを投げかける一冊
単なるタイムマネジメント本ではなく、自分の人生をどう生きるかという根本的な問いを考えさせられる。
有限な人生をどう生きるか
人生は有限であり、その事実を受け入れることの重要性を説く。
選択肢を手放す勇気
全ての選択肢を手に入れようとするのではなく、本当にやりたいことに集中し、それ以外のものを手放すことの大切さ。
今を生きる
未来を予測したり、過去を悔やんだりするのではなく、今この瞬間に集中し、目の前のことに全力を尽くす。
時間の捉え方
時間を無駄にするとは何か、時間の価値について深く考えさせられる。
総評
『限りある時間の使い方』は、私たちが当たり前と思っている時間という概念を根本から揺さぶり、人生に対する価値観を大きく変える可能性を秘めた一冊です。
人生の目的を見失ってしまった人、何か物足りなさを感じている人、そしてより充実した人生を送りたいと願うすべての人におすすめしたい。
実行しようとおもったくだり
ぜひとも実行してみようと思ったのは、203ページの記述である「美術館に行って絵画か彫刻をひとつ選び、3時間じっと見る」という課題。
その間メールはもちろんスマホもSNSも全て禁止。ただ一つのことに取り組むということ。
これに擬似的な体験として、私は飛行機に乗っている間ずっと本を読んでいるのですが、飛行機の中にいると普段に比べてずっと多くのことを読み取れるように思います。
それは、電波が入らないフライトモードになっていることも影響しているからです。選択肢がなければ気にならないのです(最近の飛行機のWi-Fiはありがた迷惑ともいえます)
印象的なくだり
生活が加速したせいで、みんな以前よりもイライラしている。電子レンジで2時間待たされるのは、オーブンで2時間待つよりもずっと腹立たしい。郵送で3日待つのは我慢できても、重いウェブサイトで10秒待たされるのは我慢できない(P.009)。
単に昔のほうが時間の流れがゆるやかだったとか、当時の農民がのんびりしていたという話ではない。違いはもっと根本的なところにある。
当時の人たちは、時間を抽象的な存在として体験していなかった。
つまり「時間というもの」が存在しなかったのだ。
ありえないと思うかもしれない。でもそれは、現代的な時間の捉え方にどっぷり浸かっていて、それ以外の捉え方がうまく想像できないせいだ。ちょうど水の中を泳いでいる魚が、水の性質を理解できないのと同じだ。
いくらか距離を置いてみると、僕たちの時間の捉え方は、かなり奇妙なものに見えてくる(P.026)。
どんなに効率を上げて、どんなに自制心を駆使したところで、ゴールにはたどり着けない。どんなに時間を管理しても、タスクがゼロになることはない。何も心配事のない平穏な状態なんて、実現できるわけがない。
頑張っても無駄だ、と気づいた瞬間、気持ちがすっと楽になった。ゴールが不可能だとわかれば、失敗した自分を責めなくてすむのだから。
でもこの時点で、僕はまだ、問題の本質を理解していなかった。
それは、なぜこれらの方法が必然的に失敗するのか、ということだ(P.037)。
自分の時間は、あまりにも短い。その事実を直視するのは怖いことだ。
タフな選択は避けられない。やりたいことを全部やる時間はない。さらに、限られた時間の使い方さえも自分ではコントロールできない。すべてを完璧にこなせる人なんていない。体力や才能、その他のいろんなリソースが足りない。
そんな現実を直視したくないから、僕たちは全力で現実を回避する。まるで何の制約もないかのように、非現実的な幻想を追いつづける。完璧なワークライフバランス、やりたいことがすべて実現できるタイムマネジメント。
あるいは逆に、先延ばしという戦略もある。難しいことに挑戦して失敗するのが怖いから、延々と先延ばしして「本気を出せばできる」と思いつづける。
忙しさも先延ばしも、結局は怖いことから目をそらすための方便だ。ニーチェは次のように言う。
「我々は生活に必要な以上に熱心に、夢中で日々の仕事に取り組んでいる。立ち止まって考える暇ができては困るからだ。世の中がこれほど忙しいのは、誰もが自分自身から逃避しているためである」
(P.040)。
やりたいこと、やるべきこと、他人にやれと言われたこと―――それを全部やるだけの時間が本当にないのだとしたら、もう諦めるしかない。どんなに悔しくても、どんなに人に嫌われても、時間がないのだから仕方ない。やることリストが終わらないからといって、自分を責める必要はまったくない。やれることはやる。できないことはやらない。それだけだ。「もっとやれ、全部やれ」という内なる暴君の声は、ただの勘違いだから無視していい。
いや、そうはいっても実際は、それほど簡単に割り切れないかもしれない。なぜならそれは、自分の限界という、みじめな現実に直面することを意味するからだ。
どのボールを落とすか、どの人をがっかりさせるか、どの夢を捨てるか、どの場面で失敗するか。今の仕事を続けるなら、子どもたちと過ごす時間は減るだろう。創作活動のために時間を使うなら、家の掃除がおろそかになり、運動不足になるだろう。そんな不愉快な現実から目を背けるために、僕たちはタイムマネジメントの教義にしがみつく。
忙しすぎるのは、やり方が悪いからだ。うまいやり方さえ身につければ、もっとたくさんのことができるようになる。限界なんてない、もっともっとたくさんやろう、と(P.050)。
あなたが有能だとわかると、誰かが自分の仕事をあなたにやってもらおうと考える。そしてあなたは、断れずについ引き受けてしまう。マネジメントの専門家ジム・ベンソンの言葉を借りるなら、「他人の期待を無限に受け入れる容器」になってしまうのだ(P.062)。
何かを捨てて何かを選ぶという現実が重すぎて、選択肢がないふりをしているだけだ。
重い現実から目をそらしていたほうが、人生は快適かもしれない。でも、その快適さは人を空っぽにして、人生を僕たちの手から奪ってしまう。
自分の有限性を直視して初めて、僕たちは本当の意味で、人生を生きはじめることができるのだ(P.078)。
心は未来への安心感を得ようと挑んでは失敗し、また挑んでは失敗する。まるで心配すれば不幸が防げるかのように、僕たちは心配をやめようとしない。物事がうまくいくことを事前に確実にしたい、という欲求に突き動かされているからだ。「恋人が心変わりしないようにしたい」「老後の安心を確保したい」「パンデミックで誰も失いたくない」「次の選挙で自分の推す候補者を当選させたい」「金曜日の午後までにやることリストを絶対終わらせたい」
そうやって未来をコントロールしようとあがく態度こそ、自分の限界を認めようとしない僕たちの悪い癖だ。本当は、どんなに未来を心配しても、時間との戦いに勝てるわけがない。先のことはけっして確実にはならない。未来はいつでも、伸ばした手の少し先にある(P.140)。
病的なまでの生産性依存は、世の中に広く蔓延している。僕自身、誰よりもこの病気に悩まされてきたのだ(スティールのように何百万人もの読者に幸せな読書体験を与えたわけではないけれど)。
社会心理学者は、そういう状態を「怠惰嫌悪」と呼ぶ。何もしないことが嫌で仕方ないという意味だ。ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは、名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかで、こうした態度が現代人の精神の核心にあると主張している。
ウェーバーによると、この種の勤勉さが最初に登場したのは、北ヨーロッパのカルヴァン派キリスト教徒においてだった。カルヴァン派の人々は「予定説」を信じていた。個々の人間の宿命は生まれる前から決定されていて、死後に救われるか地獄に落ちるかは人の意志ではどうしようもないという説だ。
カルヴァン派の商人たちは、せっせと勤勉に働くことで、自分が救われる側であることを他人にも自分にも証明しようとした。こうしたカルヴァン派の勤勉さが、初期の資本主義を突き動かす原動力となった、とウェーバーは論じる。
カルヴァン派の人々の禁欲的な態度も、資本主義を大いに発展させる要因となった。みんながせっせと働いて富を生みだす一方、贅沢を嫌って富を使わないようにするなら、必然的に資本がどんどん蓄積されるからだ(P.175)。
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