『フラット化する世界 [増補改訂版] (下)』

『フラット化する世界 [増補改訂版] (下)』
日本経済新聞出版社
トーマス フリードマン, 伏見 威蕃

読後の感想
上巻は現象の分析になっていましたが、下巻からはフラット化の原因について述べられていました。その中で、「信頼」という言葉が非常に印象的でした。そしてその信頼は、人だけではなく、道具についてでした。
例えば、「常に」、とか、「正確に」とか、「素早く」とか。道具に対する信頼がイノベーションの一つの原因になっているというのは、非常に納得でした。そして、その信頼を破壊しようとするものは、道具を悪用しようとする、というくだりも非常に実感を持って読みました。
道具自体の性能は、後退することは基本的にはありませんが、その使い方を後退させることはありうるという訳です。
筆者自身が中東の専門家だからでしょうが、やたら中東に関するくだりが多かったです。特に、イスラム圏の感じている屈辱(自分たちが正しいという教育を受けてきた、にもかかわらず、明らかに自分たちの方が貧困である。つまり今までの教育・思想と現実が、矛盾。そして聖典が唯一という独善的な思想など)は一方的な見方ではありますが、説得力に富んでいたと思います。すごくいい本でした。おすすめです。みんな読みましょう。

印象的なくだり
アナリストのデビッド・ロスコスがいうように、失われる仕事の大半は、インドや中国にアウトソーシングされて失われるのではないー「過去にアウトソーシングされて」失われるのである。つまり、デジタル化もしくはオートメーション化される。<ニューヨーク・タイムズ>ワシントン支局には、かつて電話交換手兼受付がいた。いまは録音された声が応対し、ボイスメールが使われている。受付嬢の仕事は、インドに流れたわけではない。過去に流れ、マイクロチップに収まったのだ(P012)。
プリンストン大学の経済学者アラン・ブラインダーは、鋭い洞察を述べている。「アメリカその他の裕福な国々は、自分たちの社会に実際に存在する仕事ができる労働者を生み出す教育システムへ移行しなければならないだろう・・・・・・教育の程度を単純に高めるのは、長い目で見ればいいことかもしれない。教育程度の高い労働力は、柔軟性も高く、ありふれていない仕事や職業の変更にもついていけるからだ。しかし、それは特効薬にはならない・・・・・・将来的には、子供にどの程度まで高い教育をほどこすかではなく、どのように教育をほどこすかが重要になるはずだ」(P044)。

「砂地でジャンプするのと、硬い床でジャンプするのと、どっちが高く跳べるか?」とシードマンは問いかける。「もちろん硬い床の上でジャンプするほうだ。信頼とはその硬い床だ。それがあるから予測でき、大きくジャンプできる・・・・・・信頼がなかったら、リスクを負うことができない。リスクを負えないと、イノベーションはない・・・・・・イノベーションを行うのに必要なリスクを負う人間を増やそうと思ったら、その場にもっと信頼を持ち込めばいい」信頼の低い社会では、持続的なイノベーションは生まれない(P070)。

ルー・ガースナーが会長就任後に最初にやったのは、終身雇用制度を止め、それを、企業にずっと「雇用される能力」という概念に置き換えることだった。私の友人でフランス生まれのソフトウェア・エンジニア、アレックス・アタルは、当時IBMで働いていたが、その転換をこう表現している。
「IBMが雇用を保証するのではなく、社員自身が、”自分には雇用されるだけの能力がある”ことを証明しなければならなくなった。会社は、”雇用される能力”を鍛える機会を社員に提供してくるが、それを活かすかどうかは社員自身の責任、ということだ(後略)(P132)。

労働者に一番必要な筋肉は、職場などを変わっても持ち運び(移動継続)できる社会保険制度と、生涯学習の機会だ(P135)。

動機は間違っていても、大企業に正しいことをやらせるのが、世界を変える最善の方法である場合もある。正しい動機で正しいことをやるのを待っていたら、いつになるかわからない(P152)。

思いやりのあるフラット主義を提唱する人間は、商品を選ぶことや購買力が政治的判断でもあることを、消費者に啓蒙しなければならない。消費者として何かを買うと決めるのは、一つの企業理念そのものを支持することを意味する。どの障壁や摩擦を残したいか、あるいは消滅させたいかということを、それによって意思表示している。改革派は、こういった情報がもっと容易に入手できるようにして、多くの消費者が適切な投票を行い、善行をほどこすグローバル企業を支持できるようにしなければならない(P156)。

能力は意図を生み出す、と私は確信している(中略)。
私はテクノロジーがすべてを決すると確信しているが、歴史の必然は信じていない。こうした新テクノロジーあるいは三重の集束を、すべての人間が自分や国家や人類全体に有益なように使うという保証はない。テクノロジーはテクノロジーにすぎない。テクノロジーを使うからといって、人間は現代的になったり洗練されたり道義的になったりするわけではない。テクノロジー自体が人間を賢くしたり公正にしたり穏やかにしたりするということはないのだ(P260)。

バンガロールに行ったときに、私は「平和の楽園」を意味するシャンティ・バーバンという実験校を訪れた。学校はタミル・ナドゥ州のバリガナパリ村の近くで、ガラスと鋼鉄でできたバンガロールのハイテク・ビル群ーあるビルには「黄金の飛び地」というぴったりなあだ名があるーから車で一時間ほどのところだった。学校へ向かう車中でラリタ・ラウ校長ー情熱的で、カミソリのように鋭い、キリスト教徒のインド人女性ーは、怒りを抑えきれない口調で、学童数は一六〇人であること、父母は近隣の村の最低のカーストに属する人々であることを教えてくれた。
「親は拾い屋や、苦力や、採掘場人夫です」学校へ向かう凸凹な道をジープでがたごとと走るとき、ラウ校長は説明した。「そういう家庭は最低限の生活すらできません。最下級のカーストは、あたえられた運命を死ぬまで続けるべきであると考えられていますから、放っておかれるのです。わたしたちの学校は、四、五歳の子供から引き受けます。子供たちはきれいな水の味すら知りません。排水溝の汚れた水を飲むのに慣れているからです。それも、運よく近くに排水溝があればの話です。便所も風呂も見たことがありません・・・・・・まともな服すらないのです。社会生活ができるように教えるところから始めなければなりません。連れてきたばかりのときは、走っていって、どこでも好きなところで大小便をします。(最初のうちは)ベッドに寝かせることもしません。子供たちにとってはカルチャー・ショックですから」
村の暮らしについてラウ校長が義憤をこめて語るのを記録しようと、私はジープの後部座席で懸命にノート・パソコンのキーボードを叩きつづけた(P261)。

テロリズムは自尊心の欠乏から生まれる。屈辱が生み出す力は、国際関係においても人間関係においても、必要以上に軽視されている。人や国家は、屈辱を味わうと、攻撃的になり、極度の暴力行為に熱中する。アラブ・イスラム世界全般の現在の経済的・政治的後進性に、過去の栄光と宗教的優位という自己認識が混じり合い、アラブ・イスラム教徒が祖国を離れてヨーロッパに移住し、あるいはヨーロッパで成長するときに感じる被差別意識と疎外感そこに加味されると、怒りという名の強いカクテルができあがる。友人のエジプト人劇作家アリ・サレムが、9・11同時多発テロのハイジャック犯について述べているように、彼らは「人生という通りを、高いビルを探して歩いていた-それを崩壊させるために。なぜなら、自分たちはそんなふうに高くなることができないからだ」(P296)。