『問題は、躁なんです 正常と異常のあいだ』

『問題は、躁なんです 正常と異常のあいだ』
光文社
春日 武彦

読後の感想
本を読む前までは、躁は鬱の対象概念程度しか認識をしていませんでしたが、それは誤りでした。全能感、衝動性、自滅指向と鬱よりも行動的である代償として多くの問題を本人に残していると感じました。
分かりやすさと行動力という部分は、自分の経験を含めて、いわゆる気持ちの盛り上がりなのかなぁと思う部分がありました。誰にでも躁的な部分はあると思いました。但しP075にもあるとおり、「躁的なもの」と「躁病」は混同すべきではありません。
特に気になったキーワードは、過剰・両極端・衝動性・浪費。

印象的なくだり
いったい「躁」には、高揚感や活動性のこう進や無鉄砲で大胆な心性のほかに、どのような要素が伏在しているのか。
以下の3つを差し当たって挙げてみたい。
全能感。
衝動性。
自滅指向。
まずは全能感である。根拠があろうとなかろうと、とにかく自分は何でもできるしグレートであり、だから周囲の連中は僕同然であり、自分は敬意を払われるべき存在であるといった思い上がり、「オレ様
」的な心のありようを指す。
通常、まともな人間はこんなことを本気で考えない。分をわきまえ、羞恥心を持ち、他人をも尊重すべきであると謙虚に構えているからである。だが甘やかされた子どもはどうであろう。どれほど尊敬に値
する人物に会おうと、その価値を子どもは理解し得ない。頭の中にあるのは今現在の欲望だけであり、親はその欲望を満たしてくれる奉仕者でしかない。自分が金銭を稼げないとか親に頼らねば生きていけ
ないことなどには、まったく考え及ばない。無知ゆえの錯覚が尊大さをもたらすが、周囲は「所詮子どもだから」とそれを容認する。遅かれ早かれ、成長にともなって自分の矮小さを思い知るだろうと予測
しているからである。
近頃の若者はどうか。非生産的なまま延々と親に寄生したり、学歴も才覚も努力の痕跡もなかろうと、往々にして彼らは全能感を抱いている。なぜこのような「あつかましい」芸当が可能なのか。
現在の自分が、本来の自分ではないと思い定めているからである。もしも然るべき環境やチャンスに恵まれれば、自分は十分に勝者になり得る。あるいは、そもそも自分が能力を十分に発揮できる分野に自
身でまだ気付いていない(すなわち、自分さがしが終わっていない、ということであろう)。いまだ無限の可能性を秘めたまま、お門違いの状況に置かれているだけの話なのであり、そういった意味におい
て自分はむしろ被害者なのであると信じてる。
つまり彼ら若者は子ども同然の全能感を「自分さがし」と被害者意識といったもので表現している。自分さがしの途中であるということは、周囲から見れば「いい気なもんだ」としか映らない。引きこもっ
てごろごろしていたり、一日中ゲーム三昧であったり、物見遊山の旅行も彼らにしてみれば自分さがしのプロセスだから、大人としては困惑する。被害者意識は、無作法な振る舞いや反抗にための反抗や無
関心といった形で示されるから、傲慢そのものと映ることになる(P024)。

一流作品に対する粗雑な「まがいもの」、できそこないとしかB級SFは見なされない。だがカップヌードルが「本物」のラーメンの代用品ではなく今やもっと別のジャンルの食べ物として認
知されているように、B級SFにも相応の次元が与えられるべきと気付いた人たちがいた(P037)。

(前略)放火犯は他人に自慢ができない。威張れない。じっと放火の事実を隠していなければならない。放火犯にとっては、何食わぬ顔をしてそっと全能感を噛みしめるといった屈折した喜びがハイライト
である。だが躁病では、自分にスポットライトを当てたがる。皆に絶賛され、感心され褒められたいといった気持ちこそが優先される(P099)。

躁的人間にとって最も重要なのは「分かりやすさ」である。デリケートさやあいまいさは関係がない。
彼らの世界は仮装行列やどたばた喜劇と大差ない。外見と肩書きとですべてが判断可能で、欲望や喜びはシンプルきわまりなく、人の心は通俗心理ですべて説明可能。あらゆる事象には単一の意味しかなく、つまり世界は記号で構成されている。物事はビリヤードの球のように、明快な連鎖をしていく。
彼らのような世界の把握の仕方は、あまりにも安っぽく薄っぺらである。しかし書き割りのような世界には不安感や無力感や虚無感が宿ることはない。奥行きがないのだから、影も闇も生じない。ある種の人々にとって、そうした世界を生きることは安心感につながるだろう。躁的な人々の生き方が、その犯罪をも含めて興味深く感じられるのは、彼らの「分かりやすい世界」にわれわれが幾分なりとも羨ましさを覚えるからかもしれない
(P.130)

「『問題は、躁なんです 正常と異常のあいだ』」への1件のフィードバック

  1. 私は双極性障害(躁鬱病)でもⅡ型(躁鬱のふり幅が小さい)だから浪費等は無かったけれど、
    全能感はあったなぁ。
    その時はバイトもこなせて自信たっぷりだったけれど
    その後直ぐに鬱に転落していって暫くはどうしても脳がそれについていけなかった。
    いまは薬でプラマイ0に抑えてあるから安定はしているけれど
    元気な人に会うとついていけなくてあわあわしちゃう(-_-;

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