はっきり言ってオススメです。
『街場の教育論』
内田 樹
ミシマ社
読後の感想
言われてみたら当たり前のことかもしれないのですが、自分には大変衝撃的な一冊でした。簡潔にまとめると、教育とは時間がかかるし、効果がはっきりと表われるものではない、そんな教育に、ビジネスのやり方を取り入れてはいけない、ということでしょうか。
ところどころ実際に体験したエピソードがちりばめられており、いかにも講義で話している雰囲気が伝わってきました。非常に分かりやすく読みやすい一冊です。久しぶりに友人に勧めても恥ずかしくない本でした。
趣旨もさることながら、そろ論理過程が非常に明確かつユーモラスなので読んでいて引き込まれます。個人的にはこれが「教育」というものなのかなと思いました。つまり師の話に引き込まれていく、ということ。
全然話は変わりますが、内田樹(うちだたつる)と読むのですが、大体の人は「じゅ」で変換しているよね?きっと(笑
いいところが多すぎて大量の抜書きになってしまいました。それでもかなり削ったほうです。
印象的なくだり
(前略)私のこの本は(何頁かめくっていただくとわかりますけど)「教育について熱く論じるのは、よくない」ということを熱く論じている本なのであります(変な本ですね)。「政治家や文科省やメディアは、お願いだから教育のことは現場に任せて、放っておいてほしい」というのが本書が申し述べるほとんど唯一の実践的提言です(P002)。
私たちはこれから教育を論じるわけですけれども、その論の当否は少なくとも相当期間が経たないと検証できません。だから、私たちはこと教育に関しては、自説の誤りの責任を取るリスクを取らずに、言いたい放題に言うことができる。このことを、教育を論じるに当たっての「自戒」の言葉として最初に掲げておきたいと思います(P011)。
問題が深刻であればあるほど、解決のための仕事を「誰が」担うかという問いがニグレクトされる。
というのは、みんな「それほど重大な問題なら、放っておかれるはずがない。きっと誰か「責任者」が出てきて、きちんと処理してくれるにちがいない」と信じてしまうからです。
問題が重大なものになればなるほど、その瑕疵をあげつらう人たちは、「瑕疵をあげつらう」ことだけで市民的義務は果たされ、あとは「誰か」がその尻ぬぐいをするのだろうと思うようになる。
それほど深刻な問題であれば、個人の努力でどうこうなるようなレベルにあるはずがないからです。
制度上の問題が深刻になればなるほど、市民ひとりひとりの責務が曖昧になる(場合によってはなくなる)というのが公的問題を論じるときの落とし穴です(P018)。
教育改革の成否は、教育改革を担うべき現場の教員たちをどうやってオーバーアチーブへと導くか。彼らのポテンシャルをどうやって最大化するかにかかっています。
では、どうやってか。教員たちを上意下達組織の中の「イエスマン」に仕立てることによってでしょうか。教育技術をマニュアル化することによってでしょうか。厳格な勤務考課を行って、能力主義的「格付け」を行うことによってでしょうか。経験豊かなビジネスマンであれば、そのような人事管理政策は「コスト削減」や「不確定要素の排除」はもたらしても、「パフォーマンスの向上」には結びつかないことを知っているはずです(P020)。
正直に言うと、教育というのは「差し出したものとは別のかたちのものが、別の時間に、別のところでもどってくる」システムなのです(P027)。
無人島に漂着した教師と子どもたちがいたとします。最初のうちはいっしょに椰子の葉で屋根を葺いたり、魚を釣ったりしているでしょうが、ある程度、衣食のめどがついたら、当然ながら教師は「じゃあ、そろそろ勉強を始めようか」と言い出すはずです。これは絶対言います。言わないはずがない。歴史や文学や神話について、数学や天文学や美術や音楽について、教師は知る限りのことを子どもに伝えようとする。そして、子どもたちもまた食い入るようにその話に耳を傾ける。
どうしてでしょう。受験勉強に役立てるためでしょうか?学歴をつけていい就職口をみつけるためでしょうか?文化資本を身につけて格差社会の上位にポスティングされるためでしょうか?
どれも違います。だって、ここは無人島なんですから。
でも、教育をしたいという情熱と、教育を受けたいという欲望は、無人島であっても、おそらくは変わらない。むしろ、無人島だからこそ学ぶことを切望する子どももきっと出てくると思います。
それは教育の本質が、「こことは違う場所、こことは違う時間の流れ、ここにいるのとは違う人たち」との回路を穿つことにあるからです。「外部」との通路を開くことだからです。
勉強しているときには、子どもたちも一瞬、無人島という有限の空間に閉じこめられていることを忘れて、広い世界に繋がっているような解放間を覚える。四方を壁で閉じこめられている密室の中に、どこからか新鮮な風が吹き込んできたような爽快感を覚える。そういうことがきっとあるはずです。
「今ここにあるもの」とは違うものに繋がること。それが教育というもののいちばん重要な機能なのです(P040)。
これらの、漫画を呼んでいるのは、たぶん中学生、高校生、大学生(「ハチミツとクローバー」「もやしもん」を指す)これらの漫画を読んでいるのは、たぶん中学生、高校生、大学生でしょう。ということは、かれらが夢に見ている理想的な大学生活というのは、おそらく「そういうもの」なのだということです。
彼らが大学に求めているのは「巻き込まれる」ことなんです(P052)。
弓術と馬術は武術の中で実は特殊なものです。それはどちらも「敵がいない」からです。弓において術の成否を決定するのは一00パーセント自分自身の心身です。的は向こうから襲ってきません。自分の身体をどこまで細かく分節できるか。筋肉や骨格や腱や神経や細胞にいたるまでを意識できるか。それが課題となります。身体運用の精度を上げるためには、どういうふうに心と体を使うのがいいのか。それを工夫するのが「射」です。
「御」も相手は馬ですから、ここにも敵はいません。馬術で要求されるのは、人間ならざるものとコミュニケーションする力です。馬でも操作を誤れば大けがをするし、具合が悪ければ死んでしまう。でも、コミュニケーションを成立させ人馬一体となれば、ケンタウルスのような「キマイラ」になることができる。人間と非人間が一つになって「共ー身体」を形成することができる。それは人間が単体で発揮できる運動能力の何倍、何十倍もの能力を発揮する。
武術の本質はこの二点に集約されると言ってよいのです。
自分の身体をどこまで精密に意識化できて、どこまで細かくコントロールできるか。それが第一。第二が、他者とのコミュニケーション。非ー自己と一体化することによって、パフォーマンスを爆発的に向上させる。これが武術の原理です。「敵と戦って、倒す」ということは武術の目的ではないのです。武術の原則は「敵をつくらない」ということです。的も馬も、身体運用の精度を上げ、運動能力を飛躍的に高めるための「きっかけ」であっても、「敵」ではありません。射は自分自身との、御は馬との、コミュニケーション能力開発のことです(P087)。
「誰に頼めばいいかを知っている」というのはきわめて専門性の高い情報です。
「使える専門家」というのは、誤解している人が多いと思いますけれど、自分が何をできるのかを言い立てる人のことではありません。そうではなくて、自分は何ができないのかをきちんと理解していて、「自分ができない仕事」、それに支援されなくては自分の専門的知見が生かされない仕事について、きちんとしたジョブ・デスクリプションが書ける人のことです。そうしないと必要な専門家の「リクルート」ができませんからね(P104)。
競争を強化しても学力はあがらない
今の日本では、学力の向上は「競争」を通じて達成される、と上から下までみんな信じています。たしかに、個人の学力は競争を通じて向上させることができます。けれども、「競争に勝つ」ことのたいせつさだけを教え込んでいたら、子どもはいずれ「自分ひとりが相対的に有能で、あとは自分より無能である状態」を理想とするようになります。
「相対的に」というところが味噌です。
「今ここでの競争に勝つ」という点に限れば、自分の学力を上げることと、競争相手の学力を下げることは、結果的に同じことだからです。そして、ほとんどの子どもたちは「自分の学力を上げる」努力と同じだけの努力を「競争相手の子どもたちの学力を下げる」ことに投じます。もちろんおおかたは無意識的に。それでも、子供たちは実にこまめに競争相手の知的パフォーマンスが向上することを妨げようとします(P106)。
子どもは学校に通うようになって、まず最初に、先生の言うことと親の言うこと(あるいは近所の大人たちの言うこと)が食い違うということを知ります。それが最初の葛藤。やがて、その先生も親もそれぞれがやっぱり言っていることが首尾一貫していないことを知る。これが第二の葛藤。
それでいいんです。子どもたちが長い時間をかけて学ぶべきなのは、「すっきりした社会の、すっきりした成り立ち」ではなく(そのようなものは存在しません)、「ねじくれた社会の、ねじくれた成り立ち」についての懐の深い、タフな考察だからです(P114)。
「教壇に立つ」というのは、そのこと自体が「私は教育の有効性を信じている」と信仰告白することです(P142)。
師の師
教師が教壇から伝えなければいけないことは、ただ一つです。
「私には師がいます。私がここでみなさんに伝えることは、私が師から伝えていただいたことの一部にすぎません。師は私がいま蔵している知識の何倍、何十倍もの知識を蔵していました。私はそこから私が貧しい器で掬い取ったわずかばかりの知識をみなさんに伝えるためにここにいるのです」
これで十分なのです。自分の師に対する畏敬の念、それに比べたときの自分の卑小さ、それを聴き手に理解させれば、それだけでもう教育は十分に機能する。それはつまり「今私たちがいるこの学びの場は、「ほんとうの学びの場」の頽落したかたちにすぎない」と告げることです。「ほんとうの学びの場」と外形的には似ているかもしれないけれど、その偉大さや深みにおいて、遠く及ばないものである。そのような謙抑の態度を教師は持たなければならない。別に口に出して、「ここはダメだ。私はバカだ。だからバカに教わるキミらもバカだ」というようなことを言う必要はない。というか、そんなことをしても教育的には有害無意味です。そうではなくて、心の底から、「ほんとうの学びの場」を希求している。私が構築しているこの「学びの場」はまだまだ完全というのは遠く足りない。それを私は残念に思う。それだけで十分なのです(P153)。
ブレークスルーというのは自分で設定した限界を超えるということです。「自分で設定した限界」を超えるのです。「限界」というのは、多くの人が信じているように、自分の外側にあって、自分の自由や潜在的才能の発現を阻んでいるもののことではありません。そうではなくて、「限界」を作っているのは私たち自身なのです。「こんなことが私にはできるはずがない」という自己評価が、私たち自信の「限界」をかたちづくります。「こんなことが私にはできるはずがない」という自己評価は謙遜しているように見えて、実は自分の「自己評価の客観性」をずいぶん高くに設定しています。自分の自分を見る眼は、他人が自分を見る眼よりもずっと正確である、と。そう前提している人だけが「私にはそんなことはできません」と言い張ります。でも、いったい何を根拠に「私の自己評価の方があなたからの外部評価よりも厳正である」と言いえるのか。これもまた一種の「うぬぼれ」に他なりません。それが本人には「うぬぼれ」だと自覚されていないだけ、いっそう悪質なものにほかなりません。
ブレークスルーとは、「君ならできる」という師からの外部評価を「私にはできない」という自己評価より上に置くことです。それが自分自身で設定した限界を取り外すということです。「私の限界」を決めるのは他者であると腹をくくることです。
他者が「私の限界」を決める。これは孫悟空における「緊箍児」の機能に似ています。この金輪が頭にはまっているせいで、孫悟空は三蔵法師が「ダメ」というまでは自分の能力を無制限に発揮することが許されます。だから、自分で自分の限界について考える必要がない。やり過ぎたら「先生」が「止めどき」を教えてくれる。実際には、人任せの「止めどき」などというものはないのです。でも、それが「ある」と想定すると、人間のパフォーマンスは爆発的に向上する、そういうものなのです(P156)。
何度も言っていることですけれど、人間は自分が学びたいことしか、学びません。自分が学べることしか学びません。自分が学びたいと思ったときにしか学びません。
ですから、教師の仕事は「学び」を起動させること、それだけです。「外部の知」に対する欲望を起動させること、それだけです。そして、そのためには教師自身が、「外部の知」に対する烈しい欲望に現に灼かれていることが必要である。玉木文之進の教育が成功したのは、覚えてないとぶん殴ったからです。幼い甥に素読をさせて、覚えていないとぶん殴る。それは文之進自身が古典の叡智を心の底から信じていなければできないことです。古典を理解することへの烈しい欲望、それが知的外部へ到達するための唯一の回路だと信じていなければ、そんなことはできない。幼い甥を天下須要の高士たらしめるという教育的責務を託された人が、確信をこめて選んだ教育方法が「古典の素読」だった。これは要するに「外部を欲望せよ」というメッセージに尽くされます(P159)。
このまま座礁していれば、全員死ぬことになると思っていない。誰かがなんとかしてくれるだろうと思っている。他責な人間というのは、実は無根拠に楽観的な人間でもあるのです。自分がいなくても何とかなると思っている。でも、「自分がいなくても何とかなる」というのは、危機の評価が低いということと同時に、自分が貢献できることについても、きわめて低い評価をしているということです。「自分なんかいても、何の役にも立たない」と思っている(ただし、これは意識化されていません)。被害評価の低さ(無根拠な楽観)と、自己卑下(無根拠な悲観)、この二つが「犯人探し」に熱中する他責的な人々の特長なのです(P176)。
一00万円の原資がある。これをどう使うかの最適解を求めて連日議論しているうちに、会議の弁当代で一00万円使い切ってしまった。これが教育の現状です。「原資」というのは、教員と、少数の保護者たち、少数の地域社会の人々が教育改革のために供出できるリソースのことです。残念ながら、文科省とか中教審とか教育委員会とかは「使えるリソース」ではありません。彼らは「使えるリソース」の使い道を決め、「最適解」を出すことが仕事ですが、今はそのような仕事は誰も必要としていないのです。
ですから、教育再生会議が提言したように、教育改革をトップ・ダウンでやるというのはまったくナンセンスなのです。トップ・ダウンでできるのはシステムが日常的に機能している場合だけです。ルーティンワークならなんでもトップ・ダウンで決められる。でも、システムの機能不全というような危機的状況ではトップ・ダウンでは何もできない(P181)。
モジュール化には思いがけないピットフォールがありました。一つは、あまりにモジュール化が進行すると、作業内容そのものが「ブラックボックス化」することです。あるモジュールはその前後のモジュールとどう連結しているのか、それを一望的に理解している人がだんだん減ってくる(P186)。
先日、近くのビデオ屋で、高校生ぐらいの三人の男の子が私の後ろでおしゃべりをしていました。それがどうも耳障りである。どうして耳障りであるのか、理由を考えました。普通に考えると、高校生が三人でおしゃべりしているなら、だいたい同じような「だからさ」「そうなんだよ」という感じで話がやりとりされるはずですから、横で聞いていると個体認識ができなくなるはずなんですね。私もそう思っていました。でも、違うんです。一人が急に大きな声を出したり、一人が急にテンポを遅くしたりする。つまり、何とかして自分の直前の話者と音域や音程を微妙にずらそうとしている。彼らは使用語彙が貧しいので、当面の話題を記述する文はあまり変えようがない。だから音量とピッチを頻繁に変える。「オレは直前の話者とは別人だ」というメタ・メッセージの方が話のコンテンツより優先している。それがすごく耳障りなんですね。おそらく本人たちは気づかずにやっているんでしょうけど(P194)。
小さな子どもたちを放っておくと、必ずいつのまにか近づいて、同じ遊具を、相手の身体に触れて遊び始めますけれど、それは集団の形成が自我の拡大をもたらすからです(P196)。
就活においては、同期の学生たちから見て「どうしてあの人が採用されたのか」わからない人が採用され、「落とされるはずのない人」が落とされます。就活においてはじめて学生たちは、どういう基準で採否の決定がなされているのかが受験者には開示されない選抜試験というものを経験することになります。
「そういうもの」が存在する、ということを彼らはこれまでの二十年間考えたこともなかったでしょう。でも、もちろん世の中にはそういうものがあります。そして、採否の基準は彼らが知らないだけで、実ははっきりしているのです。それは受験勉強で合否の決定をするときの能力査定とはまったく違うものです。まずそれを飲み込んでもらわないと話が始まりません。受験勉強というのは先ほども言いましたけれど、「個人の能力の格付け」です。そして、就活の採否の基準は実は「個人の能力の格付け」ではないのです。驚くべきことに(P207)。
何を基準に採否を決めるのか?
(中略)
でも、「会って五秒」でどうして決められるんでしょう。そもそも、何を見て決めているんでしょう。これが就活をしている学生には理解不能なんですね。
でも、それは分かるんです。この人といっしょに仕事をしたときに、楽しく仕事ができるかどうか、それを判定基準にしているから(P209)。
だから、就活の面接のコツは簡単と言えば簡単だよといつも学生には言ってます。「自分をよく見せよう」と思わないで、その場にいる人たちが(いっしょに面接を受けている競争相手も含めて)気分がよくなるようにふるまうことです(P212)。
うちの大学の音楽学部の声楽の斉藤言子先生から、オペラはイタリア語でなければだめだという話をうかがったことがあります。オペラというものそのものがイタリア語の音韻に乗るようにつくってある。イタリア語で歌わないとやはりオペラにならない。モーツァルトには申しわけないけれど、「魔笛」はドイツ語ですね。だから聴いていて、やはり微妙に耳障りなんです。そう申し上げたら、斉藤先生も同意されていました。ドイツ語のあの「ハッ」という喉頭音(glottal)がありますね。あれがどうもオペラにはなじまない(P231)。
(前略)メンターの前では、自分が未熟であると認めることが少しも不安ではない。メンターとはまさに「その人の前では自分が未熟であると認めることが少しも不安ではない」人のことだからです。その人の前にいるとき、自分が未熟であるということは少しも恥ずかしいことではない人、その人の背中を見ながらあとをついて行くとき、自分が一歩一歩成熟への歴程を歩んでいることが実感される人。それがメンターです。メンターに対面しているとき、弟子はおのれの未熟を認めることに少しの不安も不快も感じない。自分がどういうふうに未熟であるのか、自分は何を知らないのか、何ができないのか、何を言語化できないのか、それを主題的に考究してゆくことそれ自体が胸が高鳴るような経験であるように、メンターと弟子の関係は構造化されていきます(P275)。
大好きな内田樹さんを褒めてもらえて嬉しいです。
次はアダム徳永さんの「妻を愛する技術」を読んでほしいな。
気になったので買ってきて読みました.amazon使わなくてごめんなさい.
専門と教養について述べてる箇所で「符丁の通じる世界」と「そうでない世界」と言う視点で論じているあたりもおもしろかったです.
最終章は個人的に成熟が足りない様でちょっと手に負えませんでした.