『狂人失格』

『狂人失格』
中村うさぎ
太田出版

読後の感想
月曜会の課題本になっていたため初めて中村うさぎさんの本を読みました。普段の読むジャンルとはかすっているんだけど、かぶっていないワタクシ(西原さんやくらたまさんの漫画など無頼系なのは一緒なのに)。
最初に読んだときはこの本って、「自分って痛い人間だわ」と妙な選民
思想を持っている人しか楽しめないのかなと思いましたが、なかなか読み込んでみると発見がありました。
感想としては、人は何もないところから自分を見ることが出来ないから、他人を見ることによって(他人を通じて)自分の気持ちを認識するのかなぁと。
そして、その対象が自分と異なる(と思いこんでいればいるほど)自分が気付いていなかった自分を発見するということでしょうか。
本よりもむしろ講演会が非常に楽しかったです。

あ、本にサイン頂きました(本人本だけに)、ありがとうございます。

印象的なくだり
「地獄」と「天国」は、間違いなく同じ場所にあるのだった。「天国」の入り口は、そのまま「地獄」の入り口だったワケ。そして、今の私は、「天国」も「地獄」もない殺伐とした砂漠を歩いてる。不幸ではないけどさ、でも「不幸でないこと」が「幸せ」だとは思えないよね(P009)。

私にとって「自己顕示欲」よりも恥ずかしい欲望は、この「ナルシシズムのために、自分よりも低い(あるいは弱い)者を見つけて踏みつける」という、あからさまな「自己誇示欲」だ。単に人々に注目されたいという「自己顕示欲」よりも、特定の他者を嘲笑することで己の優越を確認したいという、この無批判な自己讃美に基づいた「自己誇示欲」のほうが、数百倍気持ちいいことを、私は知っている。だからこそ、そう、その快感のタチの悪さゆえにこそ、私はその欲望を恥じるのだ(P027)。

己の凡庸さを憎むあまりに、他者の狂気すら神聖視せずにはいられない私の愚を、諸君、軽蔑してくれたまえ。私は本当に、救いようのない俗物である。その私の劣等感が、優花ひらりを偶像化する。彼女に会いたくて、彼女の世界を覗き見たくて、ウズウズさせられるのだ(P046)。

有名になりたいという功名心から作家を目指して、何が悪い?優花ひらりと我々との間に、どれだけの違いがある?ねーよ。少なくとも、その心根の浅ましさにおいて、我々と優花ひらりは同族だ。我々に優花ひらりを裁く権利はない。神に選ばれなかった凡庸な人間が、それでも夢を見てあがいて・・・・・・よくある図じゃないか。なぜ、君は彼女に腹を立てるのだ?彼女が君自身の愚かしい戯画だから?
おそらくそうなんだろう、と、私は女性ライターの憤然とした顔を眺めながら、推察した。おそらくこの人も、人生のどこかで「作家になりたい」と思ったことがあるのだろう。彼女は文章が上手い。作家を目指してもおかしくない。だが、彼女は作家にならなかった。その理由を私は知らないが、その夢は彼女の心の中でひとつの「聖域」となっていて、凡俗なる者たちが功名心から安易に「作家になりたい」などと言うのを聞くと、何やらその聖域を汚されたような気がするのではないか。そうでなければ、この人がこんなに優花ひらりにムカつく理由を、私は思いつかない(P088)。

私は「胡蝶の夢」という故事を思い出した。蝶になって飛び回る夢を見た男が、目覚めた後、「自分は蝶になる夢を見ていた人間なのか。それとも、人間になった夢を見ている蝶なのか」と自問自答する物語である。
優花ひらりは、蝶になった夢を見続けている。彼女は、自分を蝶だと信じている。他人がいくら「お前は本当は人間で、蝶になった夢を見ているだけなんだよ。目を醒まして現実を見なさい」と諭したところで、彼女は「なぜそんなことを言うの?私は本当に蝶なのに。私を蝶だと思わない人たちこそ、私が人間だという夢をみているんじゃないの?」と問い返す。
どちらが夢を見ているのか。それは多数決によって決まる(P129)。

私が憎悪してきた作家たちの「狂気自慢」など、何でもない。自慢する時点で、「他者」を意識しているのだから。彼女たちの世界は、「他者」で埋め尽くされている。彼女たちは「他者」なしでは生きてはいけない、ある意味、優花ひらりの対極に位置する人間たちだ。そして、この私は・・・自意識でかんじがらめになって生きているこの私は、その極北とも言える存在である。神からもっとも愛されない人間。「原罪」の塊。私は「エデンの園」に永久に近づけないサタンの眷族なのだ(P139)。

優花ひらりには、「他者」がいない。「他者」がいないということは、「自己」も存在しない、ということだ。なぜなら「自己」とは、相対して屹立(あとで変換)する「他者」という存在がなければ成立し得ない相対的な概念だから。そして「自己」という概念が存在しない人間は、「何者でもない」わけだから、逆に「何者にもなれる」ということになる。したがって、「他者」の不在ゆえに「自己」という概念から解き放たれている優花ひらりは、「蝶」だろうと「星」だろうと「神」だろうと、何にでもなれるのである。自由に、思いのままに(P140)。