平気でうそをつく人たち 価格:2,310円(税込、送料別) |
『平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学』
草思社
M・スコット・ペック, 森 英明
読後の感想
途中までは個人レベルのお話でしたが、最終章が秀逸でした。
それは組織としての「悪」を語っており、著者はその原因が良心・責任の希釈化にある、と説いています。
つまり、多くの人間が関与すると、この責任は自分にはないと考えがちになり結果、誰も責任をとらないまま大変なこと(この本の中ではたとえばベトナム戦争下での民間人虐殺)を起こしてしまうというものでした。
これは全くの他人事ではなく、我々自身も組織に属していると、自分でやっているにもかかわらずどこかしら他人事になっている部分が少なからずあると思います。
このことを思い出して日々戒めようと思いました。
印象的なくだり
治療は、患者自身が、自分が施療者から受け入れられていると考えていないかぎり、効果があがらないものである。患者は、自分が受け入れられているという雰囲気のなかにおいてのみ、自分の秘密を打ち明け、自分自身の価値観を発展させることができる(P038)。
一般に、子供がうそをつき、ものを盗み、ごまかしをはたらくということは、日常的に目にすることである。こうした子供たちがまったく正直な大人に成長しうるという事実のほうが、まさしく驚嘆すべきことのように思われる。勤勉よりも怠惰のほうが広く一般にみられるものである。こうしたことをまともに考えるならば、この世は本来的には悪の世界であって、それがなんらかの原因によって神秘的に善に「汚染」されていると考えるほうが、その逆の考え方をするより意味を成すものかもしれない。善の不可解性は、悪の不可解性よりはるかに大きなものである(P055)。
いやしとは愛がもらたす結果である。愛の果たす役割のひとつがいやしである(P056)。
虚偽とは、実際には、他人をあざむくよりも自分自身をあざむくことである。彼らは、自己批判や自責の念といったのもの耐えることができないし、また、耐えようともしない(P100)。
われわれは邪悪につくられているわけではなく、また、邪悪になることを強制されているわけでもない。た
だ、長期間にわたる長い選択の連続を通じて、徐々に邪悪になるというのである(P106)。
邪悪な人間が選ぶ見せかけの態度に最も共通して見られるのが、愛を装うことである。これは、それとまったく正反対のものを隠そうするものである以上、当然のことである(P144)。
あるものにたいして的確な名称を与えることによって、われわれは、それに対処するに際して必要な力を相当程度にみにつけることができる。その名称を通じて、それを特定し、認識することができるからである(P168)。
失敗するということはけっして愉快なことではない。しかし、心理療法という仕事にかぎらず、人生のあらゆる面において失敗とはきわめて教育的なものである。おそらく、われわれは成功よりも失敗から多くを学んでいるはずである(P212)。
健全な子供は、だれでも、異性の親にたいして性的な愛着を抱くものである。通常、この愛着は四歳から五歳のころにピークに達するもので、エディプス・コンプレックス(エディプス・ディレンマ)と呼ばれている。このエディプス・コンプレックスによって、子供は恐ろしい苦境に立たされる。自分の親にたいする子供のロマンチックな愛は、けっして成就する見込みのない愛である。子供は親に向かってこう言いたいと思っている。「子供は大人とセックスできないって言われるかもしれないけど、私はもう大人よ」。しかし、大人として行動することは子供にとって大きなエネルギーを必要とするものであり、いつまでも続けることのできないものである。そして、最後には子供は疲れ果ててしまう。疲れ果てた子供が、自分は子供であり、大人のふりをしてもうまくいくはずがないという現実を受け入れ、二度とそういうことを望まなくなったときに、やっとこのコンプレックスは解消する。
その過程で子供は、いいことは二つ同時にできない、つまり、子供として愛されながら、親を性的に所有することはできないということを悟るようになる。そして、子供であることの有利性のほうを選び、これでエディプス・コンプレックスは消え去り、周囲のだれもが安どのため息をつく。とくに子供のほうは、目に見えて以前より幸せになり、気分が落ち着くようになる。精神医学においてエディプス・コンプレックスが重要視される理由のひとつとして、これを解消できないまま大人になった人間は、通常、大人としてうまく適応していくうで必要とされる欲望の自制や放棄がむずかしくなる、ということがあげられる。いいことを二つ同時にできない、ということを学んでいないからである(P220)。
彼女は、セックスを装って授乳を求めている。大人の性を装って、子供のようにあやしてもらいたがっている(P228)。
幼児にたいする母親の愛情の真髄は「受け入れる」ことである。正常な、健全な母親であれば、ただ子供がそこにいるというだけの理由で子供を愛する。幼児は、母親の愛を得るために何もしないし、何もする必要はない。そこのはひもつきの条件など何もない。その愛は無条件の愛である。母親は幼児を、幼児であるが故に、幼児そのものとして愛する。この愛は、幼児を幼児としてそのまま受け入れる愛であり、こう語る愛である。「あなたはね、存在するだけで大きな価値を持っているのよ」
しかし、子供が生後二年目から三年目に入ると、しだいに母親は子供に何かを期待するようになる(P229)。
集団のなかの個人の役割が専門化しているときには、つねに、個人の道徳的責任が集団の他の部分に転嫁される可能性があり、また、転嫁されがちであう。そうしたかたちで個人が自分の良心を捨て去るだけでなく、集団全体の良心が分散、希釈化され、良心が存在しないも同然の状態となる。いかなる集団といえども、不可避的に、良心を欠いた邪悪なものになる可能性を持っているものであり、結局は、個々の人間が、それぞれ自分の属している集団ー組織ー全体の行動に直接責任を持つ時代が来るのを待つ以外に道はない。われわれはまだ、そうした段階に到達する道を歩みはじめてすらいない(P264)。