『日本を捨てた男たち』

『日本を捨てた男たち』水谷竹秀

読後の感想
『日本を捨てた男たち』は、フィリピンを舞台に経済的に困窮した日本人たちの実態を描いたノンフィクションです。
著者の水谷竹秀は、彼らの苦しい現状に肉薄し、その人生の葛藤や選択に迫っています。
本書を通じて、私たちは「困窮邦人」という存在について考えさせられます。

「困窮邦人」が直面する現実は衝撃的です。
彼らは、フィリピンの街で路上生活を強いられ、日本とは全く異なる環境で日々を過ごしています。
P.021に書かれているように、こうした日本人たちは、所持金を使い果たし、ホームレス状態に陥っています。
フィリピンにおいては、彼らの存在はよく知られており、特にこの国で困窮邦人が増えているという事実は、現代社会が抱える問題の一端を示していると感じました。

また、ノンフィクションである以上、取材の難しさについて「困窮邦人は自分の都合のいいことしか言わない」という取材相手の言葉は、非常に考えさせられます。
困難な状況にある人々が、自己防衛のために自らの発言に整合性を持たせようとする姿勢には、人間の弱さや葛藤が浮かび上がります。
この状況を目の当たりにした著者が、取材の中で真偽を確かめざるを得なかったことも理解できます。
フィリピンという異国の地で生き抜くために、彼らがどのようにして自分を守っているのか、その姿勢には複雑な感情が交錯しているように思います。

80歳手前の老人との対話は、取材者としての著者が自らの限界に直面する場面です。
この老人が突然怒り出し、感情をぶつける瞬間に、著者は自らの思い上がりに気づきます。
困窮する人々に対して「助けてあげよう」という気持ちは、善意であっても相手にとっては逆効果であることがあるのです。
この老人とのやり取りを通じて、著者が抱く「人は対等ではいられない」という現実は、取材者と取材対象者との間に存在する見えない壁を象徴しているように感じました。

今までの常識をひっくり返したくだりは、フィリピン警察の捜査費用についてです。
海外の警察(特に東南アジア系)って腐敗しているイメージがありましたが、その理由はもしかしたら待遇にあるのかもしれないと思い至りました。
P.143ではフィリピンの捜査機関の現状について触れられています。
偽札の取り締まりがあまりにもあっけなく終了してしまったことは、フィリピンの警察の資金不足や労働条件の厳しさが背景にあることが示されています。
このような途上国特有の事情は、困窮邦人たちの生活をさらに厳しいものにしていると感じました。
彼らは日本では経験しなかったような法律やシステムの違いにも直面し、孤立感を深めているのかもしれません。
例えば、フィリピンでは日本人の名義では不動産が購入できないので、フィリピン人妻名義で購入し、妻から捨てられるなんてことはおそらく想像だにしていなかったでしょう。

あと、1953年に制定された国援法について言及されています。
戦後に中南米に移住した日本人の帰国支援を目的に作られたこの法律は、現在では困窮した日本人を救済するための手段となっています。
フィリピンで困窮する邦人たちがこの制度によって帰国できるということは、彼らにとって最後の頼みの綱となっているでしょう。
しかし、飛行機代や宿泊費が貸し付けられるものの、それが「貸付」である以上、彼らが返済の目途を立てられるのかは疑問です。
また、支援がある一方で、彼らの状況が根本的に解決されるわけではないという現実が残ります。

『日本を捨てた男たち』は、フィリピンという異国で生きる困窮邦人の現実を鋭く描いた一冊です。
読者は、彼らの姿を通じて、人生の選択やその先に待つ現実について深く考えさせられます。
彼らの境遇に共感し、理解しようとすることは容易ではありませんが、本書はその困難さと向き合う機会を与えてくれる貴重な作品だと感じました。

印象的なくだり

海外で経済的に困窮状態に陥っている在留邦人を「困窮邦人」と呼ぶ。所持金を滞在先で使い果たし、路上生活やホームレス状態を強いられている吉田のような日本人のことだ。特にフィリピンではこの困窮邦人が一般的な問題になっており、在留邦人の間でも、その存在はよく知られている(P.021)。

「困窮邦人は自分の都合のいいことしか言わない」
フィリピンの事情に精通したある日本人男性が言った言葉だ。私は取材相手の過去の経歴などについては、一度聞いた内容にブレがないかどうか確かめるため、同じ質問を繰り返し、発言内容の一貫性を追求してきた。しかし、バクララン教会で生活を続ける吉田は、逆に「僕、前何て言いましたっけ?」と何度も聞き返してきては、これまで私に話した内容に無理に整合性を持たせようとするところが再三見受けられ、事実関係が食い違うことが何度もあった。であれば、その真偽を確かめなければならない(P.067)。

フィリピンの捜査員には「偽札=重罪」という認識が日本に比べて希薄なのか、事件発生から数日後、犯人特定や製造元につながる有力情報を得られないまま、捜査は事実上終了してしまった。これには、捜査員の給与が安く、捜査費用も基本的には支給されない上に、事件現場まで行く交通費や車の燃料まで自腹で賄わなくてはいけないという途上国特有の事情も大きく関係していた。ちなみに知人の警察官によると、一般の、キャリア組でないフィリピンの警察官の給与は1ヵ月1万2000~2万5000ペソ(約2万4000~5万円)程度である(P.143)。

国援法が公布されたのは1953年。この法律はもともと、戦後にブラジルやドミニカ共和国等の中南米に移民した日本人の帰国支援を実施するために作られたとされる。
現在は、海外で無一文になった日本人に対して公費で帰国を支援する際に適用されている。貸付額は基本的に飛行機代と宿泊代金や食費、空港施設使用料などの雑費。雑費に関しては「合理的な範囲で貸し付ける」(外務省筋)という。また、日本の空港から自宅や知人宅までの交通費も貸し付けることがある(P.206)。

息子と娘の子供2人について尋ねた時は、星野はこう語った。
「一切考えないことにしている。切ったもんは切ったことにしている。そういうのはは切れるんだよね。いきなりフィリピンに来てるから後ろめたいもんはあるでしょう。申し訳ないという気持ちもあるわね。考えても始まんないし、どうなるもんでもないでしょう。一応、息子と娘の2人が大学を卒業するまではやったっていうのはあったで。親として最低限はな」一切考えないことにしているのは、考える時があることの裏返しか。私はそう受け取った。
フィリピンへ来るために犠牲にした代償を星野は未だに背負い続けているように見えた(P.257)。

このテーマの取材のきっかけになった80歳手前の老人は、ある時、粗末な掘っ立て小屋の中で突然怒り出した。「今すぐにでも帰国したい」と無茶な話を執拗に繰り返したため、私が制した時だった。「あなたは俺のこと何も知らない。あなたには俺のことこれ以上話さない方がいいと思う。毎日苦しい思いして飯食ってんだよ。これで死んじゃったら、俺のたれ死にじゃない」それまでは取材を快く受けてくれたこの老人の本音が飛び出した瞬間だと思った。のたれ死にしそうな境遇に置かれた老人の心境について、給料を稼いで生活に不自由しない私が理解できるわけがなかったのだ。だが、理解しよう、何とか援助してあげようという私の思い上がりがおそらく、この老人の逆鱗に触れたのだ。これを境に私は変に臆することになり、その後、気を遣ってばかりいた。彼もどことなくよそよそしく感じて少なくともこの2人からは「こいつ、人の気持ちも分からずにネタにしやがって」と思われていたことだろう。もしかしたら今回取材した対象者全員かもしれない。人は対等ではいられないという現実をまざまざと突き付けられたようでもあった(P.278)。

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