『不思議の国のラオス』

『不思議の国のラオス』森山明著

読後の感想
森山明さんの『不思議の国のラオス』は、ラオスの歴史、文化、そして現代社会を多角的に捉え、独自の視点から紹介している一冊です。この本を通して、著者はラオスという国の魅力を丁寧に伝え、その中に深い洞察を垣間見せています。

特に、フランスの凱旋門を模した「パトゥーサイ」の建造物についての考察が印象的です。なぜ植民地支配からの解放を目指して戦ったラオス人が、かつての宗主国の象徴的な建物を模倣したのかという問いは、ラオスの歴史の複雑さを象徴しています。ラオス王国がパトゥーサイを建設した背景には、国際社会や植民地主義との関係を超えたラオス独自の歴史的文脈があることが示されています。

この通りの東北端には、パリのエトワール凱旋門を模した戦没者慰霊塔のパトゥーサイが聳えています。パトゥーサイは、エトワール凱旋門の様式を模しているばかりでなく、ラオス語のパトゥーサイは、文字通り「凱旋門」を意味するのです。現在の社会主義国家を建国したラオス人の先人たちは、半世紀を超えるフランスの植民地支配に抗して激しく戦いました。そのラオス人が、なぜかつての宗主国フランスの建造物を真似たパトゥーサイを造ったのでしょうか?答えは、パトゥーサイを造ったのは現政権ではなく、一九七五年に現政権に倒されたラオス王国の政府だった、ということです(P.034)。

また、ビエンチャンの通りに名付けられた王様の名前やその象徴性についても興味深い考察が展開されています。単に政治的な名付けではなく、ラオス国民の感情や歴史に根ざした柔軟な政治的知恵が働いているという点は、現代ラオスの国民性や政府の姿勢を理解する鍵となります。
さらに、著者はラオスの国旗に込められた象徴についても触れ、メコン川に昇る月が50の民族の連帯を示していると説明します。これは、ラオスが多様な民族で構成されている国家であることを強く意識させる描写であり、ラオスのアイデンティティの多様性を浮き彫りにしています。

総じて、ラオスでの体験を振り返り、「何がラオスにあるのか」という問いに対して、著者は「光景の記憶」を挙げています。この「匂い」「音」「肌触り」といった感覚を通して得られる旅の本質が、ラオスの魅力の一つであり、効率や成長を追求する現代社会が忘れ去った何かが、ラオスにはまだ存在しているというメッセージが強く心に響きます。
(村上春樹の「ラオスにいったい何があるというんですか」を強く意識した記述で、ニヤニヤしながら読みました)

逆に日本がラオスから学ぶものとしてジェンダーギャップの点がありました。

世界経済フォーラムが実施する「ジェンダーギャップ指数二〇一八年」で、経済大国の日本は〇・六六二で、149か国中の110位という不名誉な位置でした。一方、国連から後発開発途上国に分類されているラオスは、同〇・七四八で、26位でした。日本は、ラオスに対して、過去に大きな経済支援をしてきましたし、今でもしています。そのことは、大変に結構なことなのですが、こういう国家の関係にあると、自戒を籠めて書くのですが、個人としての日本人までがラオスに対して上から目線になりがちです。現在、日本政府は、「女性が輝く社会」の実現を最重要課題の一つに掲げています。たとえば女性の社会的な活躍のための環境造りについて、ラオス人から知恵を借りる、なんていう謙虚な気持ちが日本の政府や日本人にあっても、罰は当たらないのではないでしょうか(P.186)。

総じて、この本は、ラオスという国を単なる観光地としてではなく、歴史や文化、社会の多様な側面を含む豊かな国家として描いており、森山氏の丁寧な取材と深い洞察が詰まった一冊です。ラオスを理解し、そこから何かを学ぼうとする読者にとって、多くの示唆を与えてくれることでしょう。

という真面目な文はさておき、この方に一番共感をいただいたのは、タイトルの言葉遊びです。
あちこちに散りばめられた本歌取り的な引用、パロディが読んでいてこころくすぐられます。
但し、在ラオス当時はJTBの人らしく、旅行ガイドがメインになっているのはご愛嬌です。

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印象的なくだり
ビエンチャンの大通りを見てきて、あらためて、ラオス政府が王国や王様の名を大通りに付した理由を推測してみましょう。見てきたように、通りの名として付されたのは、ラオス初の統一王朝の名称と、その創始者の王様、また、統一王朝の権力基盤を強化した王様、そして、統一王朝の隆盛期を築いた王様の名でした。さらに、銅像となった王様としては、ラーンサーン王国が分裂してできたビエンチャン王国の、シャム国に反攻した英雄王と、第二次世界大戦の末期に、植民地帝国フランスからの独立を宣言したルアンパバーン王国の王様でした。人民路、解放路、建国路、中山路というような、上からかぶせるような政治色の強い命名よりも、国民感情に訴えるような命名を、ラオス人民民主共和国政府は、選んだのでしょうか。そうであるならば、それはそれで、ラオス政府の柔かな政治的知恵と言えるかもしれません。まあ、ラオス人のある種のナショナリズムの発露だとも言えるのでしょうか。すべては、ラオスにとってはよそ者の私の手前勝手な推測です(P.037)。

ラオス人民民主共和国にとって、月には特別な意味があるのです。ラオスの国旗をご覧ください。一九七五年に人民民主共和国として建国したラオスの国旗です。上下の赤い帯には、幼争で自由を勝ち取るために流された人々の血の色を、また、青い帯には、メコン川と川に育まれた豊穣を象徴させ、そして、中央の白丸には、メコン川に昇る月によって五〇の民族の連帯を象徴させました(P.040)。

ビエンチャンにいた頃に読んだ英字紙の『ビエンチャン・タイムズ』に、二〇一七年六月時点でのビエンチャンを走るトゥクトゥクの数が三四〇台だと載っていました。これが多いのか少ないのかは何とも言えませんが、少なくともビエンチャンの中心部を歩いている限り、主要な寺院を含む観光スポットや大通りの角に客待ち停車するトゥクトゥク、そして、空で走っているトゥクトゥクがいつでも掴まえられるので、何分も待つことはほとんどありません(P.065)。

ビエンチャンの名を聞けば、ラオスの首都を思い出します。しかし、行政上は、首都ビエンチャンと、その北側に広がるビエンチャン県の二つの区域に分かれています。ビエンチャン県は、首都ビエンチャンとは違って、山あり湖あり川ありの、田園が広がっています。首都の住民たちは、週末になると、日帰りで、あるいは一泊で、家族や友だちと連れ立ってビエンチャン県に向かいます。そんなビエンチャン県の見どころをいくつか紹介します(P.092)。

ラオスから帰った村上は、「ラオスにいったい何があるというんですか?」という問いに対する明確な答えを持ち得ていません。しかし、いくつかの光景の記憶だけは持ち帰りました。そして、その光景には、「匂いがあり、音があり、肌触りがある。そこには特別な光があり、特別な風が吹いている。何かを口にする誰かの声が耳に残っている。そのときの心の震えが思い出せる」のでした。村上は、これこそがまさに旅ではないか、というのです。
どうもラオスを訪れることの魅力というものは、村上のようなやり方でないと伝えられないのか、という気がしてきます。高度に経済成長を遂げた日本という国に住む私たち、スピード、効率、競争、成長で気を休めるいとまのない私たちと私たちの社会が、どこかに置き去りにしてしまった何ごとかが、ラオスにはまだ残っているのだ、と言いたくなります(P.104)。

ラオスは多くの民族で構成される国家です。国家が正式に認めているだけでも、五〇の民族が存在します。そして、その民族の分類の仕方に、居住空間によるものがあります。『ラオスを知るための60章」(明石書店)によれば、「ラオ・ルム(低地ラオ)、ラオ・トゥン(山腹ラオ)、ラオ・スーン(高地ラオ)である。(中略)この区分が人々の居住空間や生活様式、生業の多様性をうまく説明しているからである」なのだそうです。
さて、ラーオ・ルムは、ラオスの人口の過半数を占めるラーオ族に代表され、ビエンチャン、ルアンパバーン、サワンナケートなどのメコン川沿いの河岸平野に開かれた町とその周辺に住んでいます。一四世紀半ばにラオスを統一して、ルアンパバーンにラーンサーン王朝を開いたのも、ラーオ族でした。また、ラーオ・トゥンは、ラオスの先住民といわれるモン・クメール系語族に代表され、山の頂と河岸平野との中間の地域に住んで、焼き畑を行ってきた森の民です。北部の各県で多数を占めるクム族は、このグループに属します。そして、ラーオ・スーンは、モン族に代表されます。歴史的にラオスの地にもっとも遅れてやって来た人々で、他の民族がまだ住んでいなかった山の奥深くや頂近くに住んで、焼き畑で生活してきた山の民でした(P.180)。

まずは、近代史におけるモン族の役割ですが、第二次世界大戦が終わって、日本軍がインドシナ半島から撤退した後、ラオスを再度植民地化したフランスと、ベトナムを後ろ盾にして独立を求める勢力の間で戦闘が始まりました。その時フランスは山岳戦に秀でたモン族の若者を訓練して、対独立勢力の戦闘に投入しました。そしてフランスの撤退後は、インドシナ半島の共産化を阻止せんとしたアメリカがモン族の戦士たちを引き継ぎ、ラオスの左派軍や北ベトナム軍と戦わせたのでした。モン族の勇敢な戦士たちは、ラオスの主に北部の山岳地帯戦で勇戦しました。二十数年に渡る戦いで、「推定三万人ものモン族が死んだが、それはラオスのモン族人口の一〇%以上だった」そうです(P.182)。

マス・ツーリズムの喚起策として、売るべきものをルアンパバーンの魅力に絞ったのはよいのですが、マス・ツーリズムの販売促進は、総じていえば、お金がかかります。マスのマーケットに向けて、観光魅力を精一杯の方法で広報・宣伝していかねばなりません。ところが、国連から後発開発途上国、すなわち経済的な「貧困国」に認定されているラオスは、観光促進に投ずることができる予算が、きわめて限られているのでした。二○二○年までに後発開発途上国から脱するという最重要目標を掲げるラオス政府にとって、観光産業は極めて大切な産業です。なぜなら、外国人観光客がラオス国内で消費する金額は、ラオスの輸出産業の中で、銅を主とする鉱物資源の輸出、水力発電によるタイなどへの売電に次いで、三番目に大きいのです(P.191)。

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