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読後の感想
この手の潜入体験ものはついつい読んでしまう。それは自分自身が体験できない世界のこと、だったり、覗き見してみたい気持ちなのかもしないが、見たいものは見たいし、知りたいものは知りたい。よく言えば好奇心、悪くいうと・・・言わない、と。
そんなわけで、この手の本は何冊か乱読しているのですが、特にこの本の著者は、ドヤ街・飯場の中に入ってはいるものの観察者としての自分は決して崩していないところに美学を感じます。
若いせいなのか、それとも容姿(想像)のせいなのか、ドヤ街のおじさん連中に好かれる気質らしく、いろんな話を聞いて参考にしているらしく、取材に関しての情報は大変多い印象を受けました。
もちろん取材の量だけに頼らず、それでいて、聞いた話だけではなく、原因はこうであろうと広がった部分もしっかりしていて、読んでいて、なかなか得心がいく場面もちらほらありました。
ドヤ街や飯場の世界に関わるようになってときどき考えることがある。彼らは、どんな気持ちで地方から都市に出てきたのだろうか。そして今、彼らはどんな気持ちで都会の中で生きているのだろうか。都市に吸い寄せられた彼らに、都市は何かを与えてあげたのだろうか。
飯場やドヤ街を考える上で、この都市の存在は欠かすことができない。事実、ドヤ街の住人には地方から出てきた人が多い。千葉の飯場で働いたときには、北海道や沖縄出身の人も何人かいた。北海道の網走出身の男に、どうして飯場で生活するようになったのかと訊いたら、初めは出稼ぎで網走と東京を往復していたのだが、帰っても何もすることがないので賑やかな東京に住み着いてしまったと言っていた。やはり、都会には雇用だけでなく、田舎で生活する者を惹きつけてやまない魅力があるようだ。またこれは、地方と都市との関係という、日本の関係にまで広がる。地方に雇用がないのではその地方に魅力など生まれるはずはない。雇用もなく魅力もなければ人が都会に流出するのは当然だ。
都会にはその両方がある。でも雇用の多くは未熟練の末端労働だ。未熟練労働は単純さ行で、雇用も一時的で代替え可能なものが多い。誰でも、いつでも、気軽に働くことができる。そして寄せ場の仕事なら、履歴書も、住民票も、住所すらなくても仕事を手に入れることができるのだ。また
ドヤ街には同じような地方出身者が集まるので孤独もやわらぐ(P.211)。
この記述はやや広げすぎのきらいはありますが、その通り。
あちこちのレビューも若干荒れていますが、まぁそれはソレ。
印象的なくだり
日雇い労働の多くは、特殊な技術を必要としない未熟練労働だ(職人もいるが)。彼らはくる日もくる日も土や資材を運んだり、補助作業や現場の掃除をしたりと単純な作業が続く。初めのうちは肉体労働特有の充実感を得られるかもしれないが、何年もやっていれば疲れるだけだ。彼らは、永遠に変わらない日常を何年も送ってきた人たちであり、これから先もずっとこのまま変わらない。それは未熟練労働につきまとう宿命でもある(P.049)。
このように、飯場の住人にはホームレスやドヤ街の人間を見下している人が少なくない。日雇い労働者の多くは、ドヤ街にしろ飯場にしろ、家がなく、財産がなく、家庭を持たない人が多い。そこには目に見える境界が存在しない。そして明確な境界が存在しないからこそ、彼らは必死になって線を引こうとする。そしてその線引きは、会社に対する従順さや仕事に対する勤勉さという形で現れる。
彼らは言う。まだ下がいる、俺たちはまともだぞ、と。そしてそれをバネにして、明日からの辛い現実や厳しい現実に対して向き合うことができる(P.138)。
飯場の人間は勤勉であり続けるために自由を捨てなければならなかった。はたして、ドヤ街の男たちは勤勉であることを捨てることによって自由を手に入れることができたのだろうか。酒とギャンブル以外に彼らの生き甲斐はあるのだろうか。そして社会や組織から縛られずに自由に生きるということは、そんなに楽しいものなのだろうか。充実した人生なのだろうか(P.152)。
飯場の労働者は仕事ができることや勤勉であることを自己の価値基準とする人が多いので、自分自身の力量を過信して、上手くできない仕事までも背伸びをしてしまうことがある。職人になれずに未熟練の土木作業員にしかなれなかった人が大半なのだから、やり直しが多いのも頷けた(P.155)。