タイトルはVillage Peopleの楽曲タイトルより。いまだにゲイ・カルチャーの代名詞だよね(挨拶
なんか眠れずもうこんな時間。06時30分に起きなければならないのにいいのか、いやよくない(反語
ところが、寝なくてはと思えば思うほど眠れないのが、人の常。
困ったねぇ。
アルコールが適度に入ると目が冴えるという性質に最近気づいた。泥酔するほど飲まないと、夜が大変。たとえばいま(苦笑
こういったときは抽象的なことを考えるのが一番好き。
なので、つらつらと、心に移りゆくよしなし事でも書いてみます。
自由が危険。
民主党がネットで有害な情報を取り締まる法案を出すらしい。まだ案の段階なので、軽々には語れないが、出そうと思った経緯、また、それを止めず(止められず?)、報道される状況。
過去を振り返ると、危ない時代ってのは、その時代を生きてきた人は「今は危ない時代だ」なんて思ってなかったことが多いと思う。
つまり、危ない時代なんてものは「後から振り返って」初めて評価できるものだと思う。
だからこそ、その時代を生きている人が一歩離れて時代を観察しなくてはならない。
過去に比べて現代は価値観がかなり相対化している。そんな中で、いったいどんな基準をもって取り締まるのか、果たしてそれが現実問題として可能なのか、非常に気になる。
取り締まりは、恐怖を生み、沈黙を作り出す。しかし、その沈黙は選択した沈黙ではない。
かつて、国家が危うい方向に進む中、これではいけないと声をあげた人も(直接、間接を問わず)たくさんいたと聞く。しかし、その声を弾圧した結果、あたかも国全体が誤ってしまったかの印象を過去に与えてしまった。
温故知新。
経験のお話。
ある人との話で、自分が納得できないことについて「それは実際に経験したモノと、本で読んだ知識の差」だと言われた。
その二点「経験」と「知識」の両者について、差異があるのは同意。自分もそのとおりだと思う。
しかし、その経験が何を指しているかについては、結局最後までよく分からなかった。
思うに、ある原因があって、過程を経て、結論へとたどり着く、そのプロセスのどこが経験によって得られたものかによって、変わってくるんだと思う。
過程部分が「経験」によって得られたものなら、ある程度納得がいく。なぜなら、原因と結論の間にある一定の法則を(まさしく経験によって)つかんでいるからだ。
ところが、経験が指しているものが結論だけだと、どういった過程でそうなったのか、理解できないから、予測が立てられず、他の要因によるものかもしれない、という反論には応えられないことになってしまう。
人間は一般に「結論」しか経験できない。
そこから、なぜそうなったかを、それこそ「仮定→検証→確認→(繰り返し)」を経験し続けないと、「過程」を「経験」によって学べないと思う。
残念ながら最後までその言葉は聞けなかった。
結局、「経験」という言葉を「経験していない者」へ伝家の宝刀として使っただけだったのかな、と感じた。
https://fukudashigetaka.com/
ブログのお話。
ブログを半月ばかり書いてみたけど、とっても楽しい。
その結果、ブログは半月で60エントリくらい書いてるけど、mixiの方は…。
最初は使い分けをしようかと思ったけど、書いてるうちに「そんな面倒なことはできない」と感じた。
というのも、感覚としては、一般的なことはブログで、個人的なことはmixiで、と思ってましたが、じゃあ、一般的なことを通じて考えた個人のこととかは、どっちに書けばいいの?となってしまった。
いわゆる、「分類方式の限界」ってやつです。
結果、「区別することなくブログで書いて後で検索」方式が一番簡便で、目的に一番近い方法になったわけです。そもそも自分のmixiで書くレベルの「個人的なこと」などたかが知れているわけで。
付言するなら、極個人的なことはネットにあげないし…。
そんなわけでブログのほうもご贔屓に。
もちろんmixiのほうの利点の「コメントしやすい」点を生かして、まとめや目標など、他の方の意見も聞きたいときにはmixiにも書いていきたいと思っています。