しまった、パンダはしゃべれない

タイトルは『らんま1/2』より抜粋。

さて、困ったことに全然眠れないので、つらつらと書いてみる。消す気はないが、やむを得ず消すかも。

 報道なぞを見ていると、最近は、「不幸な出来事が生じれば、必ず誰かの責任にしなければならない」という風潮があるような気がしてならない。もちろん翻ってみれば、それが大多数の国民の望んでいることかもしれないけど。

 たとえばのはなし(ということにしておいたほうが気が楽)。夜中に急に産気づく。母体は危険な状態。病院に連絡が入る。難しい手術が「すぐに」必要だという。
 さて、病院がここで考えることは、手術に失敗したときのことではないだろうか。人間のすること、誤りは必ず生じる。
 にもかかわらず、万全を求められる(風潮がある)。

 とするならば、(倫理観などは別にして)模範的な回答は「現在、満床です。他をあたってください」ではないだろうか。実際そのような回答をした病院がいくつもあった(という想像のお話)。手術をしなければ失敗の仕様がないので、病院の回答には、病院の観点からは誤りはないということになる(名誉のためを思って書いておくが、実際に満床だった病院もあるとは思うが、全部が全部そうとは思えない)。

 また別の話。医療過誤事件に続き、今度は弁護過誤が増えるのではないかと、ある人はいう。かいつまんでいうと「弁護士のやり方が下手くそだから訴訟に負けたんだ、だから負け分を払え」ということ。
 そりゃあ、弁護士がぼけっとしてて、負けたのなら話はわかるが、世の中にはどんな優秀な弁護士がついても勝てない事件はいくらでもあると思う。

 またまた別の話。
触らぬ神に祟りなし。

基本的には、自己責任ですよ。

 まったく別の話。
 winnyやshareで情報を見知らぬ人に転送してしまう報道が、あちこちでなされているのに、いまだに職場と個人のパソコンを分けないのはある意味、凄いと思う。