最近とみに思うこと。
ネット見ていて悲しくなるのは、反社会的な行為を自慢する文章を発見したとき。
他人のエアロをバキバキにしたとか、皮膚病の患者さんの写真を隠し撮りして揶揄したりとか、コミケに行く途中キセルを自慢したりとか、観光地に落書きしてきたりとか、東京メトロの乗客情報を流したりとか、実名ブログで「後輩をぶんなぐってやりました、すっきりした~」なんて書き込みを見たときとか、吉野家で豚丼を大盛りにしたりとか、数え上げればキリがない。
確かに規律に縛られて生きていくのは、息が詰まるし、たまにははみ出してみたくなる。実際、ちょっとの違反なんて、意識的にしろ、無意識にしろみんなやっているものだと思う。
特に思春期なんかはさらなり。自分も多聞にもれずそうだったから、気持ちは分かる。
しかし、それと自己顕示欲とを混同すると大変なことになることも、やはり理解しなければならない。
A.反社会的な行為→かっこいい
B.反社会的な行為→罰せられる
A.の気持ちを否定するのではなく、B.の気持ちを忘れてはいけないということ。
そして、社会全体はB.の方向に向いていかないといけない(もちろん罰すべき行為を類型化したものが反社会的行為なわけだから、常に一致はしないが、かなり類似する傾向にあるけど)。
以前にも書いたけど(mixiの日記の内容まで検索できないのが悲しい、ブログにしようかなぁ)、誘拐して「娘はもらった」とメールしてきるなど犯罪が自己表現として行われる事件が増えてきたと思う。
この種の事件は、発覚が非常に早い(そりゃあ自分で公開するんだから)。ところが動機が(他の人には)理解できないことが多いし、見ていて恐怖を感じる。
この動機が良く分からないという部分が、恐怖を生むんだろうなぁとしみじみ思う。
閑話休題
悪いことはしてはいけない、という教育は必要だと思う。
ならば、教育を受ける側は、悪いことはしてはいけない、という理屈と、実際に行われている悪いこととをどうバランスをとって理解していけばいいのか?
例えば、横断歩道で赤信号を無視して歩いていく大人を見て、赤は止まれと習った子供はどう理解すればいいのか。
あの大人は違反しているんだなぁ、と思うのか、それともタテマエは「違反してはいけない」ことになってるけど、実際はみんな違反しているんだから守らなくてもいいんだぁと思うか。
自分は歩行者のときは、どうしても必要なとき以外は必ず信号は守る。たとえ、街中で大部分の人が無視していく状態でも絶対に止まる。
守っている人がいるという事実が、守らなくてもいいという考えを変える可能性だってあるはずだと信じているので。
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なんだかまとまらなくなってきたけど、論旨としては
★社会的な行為(ルールを守る行為)→かっこいい
という、風潮にならないかなぁととみに思うもののであって、そのためにはルール自体も合理性のある、守れるものしないといけないなぁと思う今日この頃(無理矢理なまとめ)。
かといって、「今日は信号守ってきました」ってのは、ルールに従っているんだから、あったりまえの、当然のことであって自己顕示欲が満たせないことになってしまう。
ということは、ルールを守る→かっこいい、という考えが成立するのは、大部分の人が「守らない社会」が前提条件として必要なのであり(そうでないと他人との差異が際立たないから)、そんな社会は願い下げだ~と思うので、結局のところ、どうしていいのか分からないジレンマだったりする。
注意
箇条書きでちょこちょこ書いてたら、論旨が一貫しなくなっちゃった。
あとで書きなおしたいなぁ。