『7つの習慣―成功には原則があった! 』

『7つの習慣―成功には原則があった! 』
キング・ベアー出版
スティーブン・R. コヴィー, ジェームス・スキナー, 川西 茂

読後の感想
人生を変えた本、との重厚な表現にも耐えうる素晴らしい本です。
自分自身の心の変化を行動に反映させ、そして他人にも影響を与えていく、その過程を、ケーススタディを通じて簡潔に、分かりやすく描かれています。
この本で勧められている行動を習慣化することによって、他人に対して影響力を持った人間になれることは疑いないと感じました。そして、そのような状態を成功と呼ぶんだなぁと。
それにしても、書き抜き長すぎ。こんなに本に線を引いて、折ったりコピーしたりしたの生まれて初めてです。
本当の意味でのオススメなので読んでも後悔させません。

印象的なくだり
自分の人格に基本的な欠陥、二面性、あるいは不誠実さを持ちながら、テクニックや手法だけで人を動かしたり、仕事をさせたり、士気を高めようとしたりすれば、長期において成功することはできない。
いずれは、その二面性によって相手に不信感が生まれるからである。
いくら人間関係を改善させるためのテクニックを使ったとしても、それはすべて相手を操ろうとしている行動にしか見えない。
信頼という土台がなければ、永続的に成功することはあり得ない。
基礎となる人格の良さがあってはじめて、テクニックが生きてくるのだ。
だから、テクニックだけに集中することは、学校で詰め込み式の勉強を繰り返し、中身を丸暗記しようとするようなものである。
その場限りであれば、何とかやっていけるかもしれない。時には、良い成績を取ることもあるだろう。
しかし、日々勉強を積み重ねるというしかるべきプロセスを怠れば、真の意味で学習課題をマスターすることはできないし、「教養ある人間」になることもない(P013-014)。

人は、物事をあるがままに、つまり客観的に見ていると思い込んでいるのが常である。
しかし、私たちは世界をあるがままに見ているのではないく、私たちのあるがままに(条件づけされたままに)世界を見ているのだ。
物事を説明しようとすると、それは結果的に自分自身、自分の知覚、自分のパラダイムを説明しているにすぎない。
そして自分の意見に相手が賛成しないとなれば、すぐにその人が間違っていると思ってしまう。
しかし、この演習から学べるように、誠意がありかつ知力に恵まれた人たちでも、それぞれの経験というレンズ(パラダイム)を通して、同じ事実について異なる見方をするのである(P023)。

テニスやピアノなど、ごまかしが全く効かない分野において成長のレベルは意識しやすい。
しかし、人格や精神の成長に関しては、ごまかしが効くことがあるので成長のレベルをカンタンに図ることができない。
他人の目を欺こうと格好をつけたり、着飾ったりすることは簡単である。
できるふりをすることも可能だろう。
自分自身さえもだませるかもしれない。
しかしながら、ほとんどの人は、自分自身の本当の人格のレベルを知っているだろうし、長期的には周囲も必ずその真実を見抜くだろうと、私は確信している(P037)。

インサイド・アウトの考え方では、私的成功が公的成功に先立つ。
つまり、他人の対して約束をし、それを守る前に、まず自分自身に対する約束をし、その約束を守らなければならないということなのだ(P046)。

正しい原則は幅広い状況に応用できるところに大きな価値がある(P067)。

この本を読んでいる自分の姿を想像してみてほしい。
自分の意識は部屋の一角にあり、本を読んでいる自分の姿が見える。
まるで他人であるかのように自分自身を見ている。
(中略)今あなたが行ったことは、人間にしかできないことである。
動物にはこの能力がない。
これは「自覚」といって、自分の考えそのものにうちて考える能力である。
この能力があるからこそ人間は世界の万物を支配し、世代から世代へと有意義な進歩を遂げることができる。
この自覚という能力があるからこそ、自分の経験だけでなく他人の経験からも学ぶことができる(P078)。

人間は刺激と反応の間に選択の自由を持っているということである。
この選択の自由の中にこそ、人間の人間たる四つの独特な性質<自覚・想像力・良心・自由意志>がある。
まず自覚がある。これは自分自身を客観的に見つめる力である。
次に想像力がある。これも現在の状況を超えて頭の中で想像する力である。良心もある。
これは人間の心の奥底で善と悪とを区別し、正しい原則を知り、今の思いや行動はどれだけ原則と調和しているかをわきまえる意識または能力である。
そして自由意志がある。これはほかのあらゆる影響に縛られることなく自覚に基づいて行動する能力のことである(P084)。

本当の意味では、自分の身に起こる出来事によって傷つけられるのではない。
自分がその状況を容認するという選択によって、傷を受けるのだ。
これが精神的に受け入れにくい概念だということは、百も承知している。
特に何年にもわたって環境や他人の行動を、自分の不幸の理由にしてきた人にとっては、そうだろう。
しかし、心底から正直に「今の状況はこれまで私が行ってきた選択の結果だ」と言えるようになるまで「他の道を選ぶ」と言うことはできない(P088)。

「愛は動詞である。愛という気持ちは、愛という行動の結果にすぎない。だから奥さんを愛しなさい。奥さんに奉仕しなさい。犠牲を払いなさい。
彼女の話を聞いてあげなさい。感情を理解してあげなさい。感謝を表しなさい。奥さんを肯定しなさい。そうしてみては、いかがですか」(P100)。

アルコール中毒者匿名会という断酒団体があるが、その座右の銘はとても参考になる。
「主よ、変えるべき変えられることを変える勇気を、変えられないことを受け入れる平和を、そしてその区別をつける知恵を与えたまえ」
(P109)。

反応的な人には責任を回避する癖がある。「自分には責任がない」といってしまう方が無難である。
なぜなら、「自分に責任がある」と言ってしまえば、「今、自分は無責任なことをやっている」ということになりかねないからだ。
反応を選択する力があるということは認めにくいものである。特に、何年にもわたり他人の弱点を理由にして、自分の責任を拒否し続けた人にはそうである。
なぜなら、自分には選択する力があると認めてしまえば、まさに自分は今の悪い状況を作り出すプロセスに荷担(原文ママ)していたと認めざるを得ないからである(P112)。

間違いを認めず、行動を修正もせず、そこから何も学ぼうといないということは、全く異なった次元の間違いになる。
こうすることで人は自己を欺き、正当化を繰り返し、嘘を重ねることになる。この二つめの間違い、つまり自己背信は、最初の間違いに異常な力を与えることになり、
必要以上の意味を持たせ、自分自身さらに深い傷を負わせることになる(P118)。

ここですぐに自分の生活の主導権を取り戻す方法を二つ提案したい。
ひとつは、約束をし、それを守ることである。もうひとつは目標を設定し、それを達成するために働くことである
(P119)。

良い自己宣言には、五つの基本的な要素が含まれている。
「個人的」であり、「積極的」であり、「現在形のもの」であり、「イメージできるもの」であり、「感情を表したもの」である、という五つだ(P185)。

時間管理のマトリックス
私たちの時間の過ごし方は、基本的に四つの領域に大別することができる。活動を定義する二つの軸は、緊急度と重要度である(P213)。

(前略)、第二領域の活動を行うためには、主体的でなければならない。
なぜなら、第一領域や第三領域の事柄は、向こうから私たちに働きかけてくるが、第二領域は、自ら進んで働きかけなければならないからだ。
そして、第二領域の優先課題に「イエス」と言うには、一見重要に見える緊急な活動に「ノー」と言わなければならない(P222)。

多くの人は、この第一世代のパラダイムで自己管理を行おうとする。
なぜなら、それは最も抵抗の少ない道であり、無理を感じることなく流されて生活することができるからである。
また、外から押し付けられた作業を順番にこなしていくことは、結果に関して自分には責任がないという楽な気持ちを与えてくれるからである(P226)。

私たちが目標を達成するには二つしか方法はない。
時間を投入して自分で実行するか、ほかの人に任せるかのどちらかである。
ほかの人に仕事を任せることをデレゲーションという。
自分で時間を投入する場合は「能率」を考え、人に任せる場合は、「効果」を考えるべきである(P243)。
信頼は人間にとって究極の動機づけである。それは人の最善の姿を引き出すものである。
しかし、それには時間と忍耐が必要だ。そして、人はその信頼に応えられるレベルまで能力を引き上げるために訓練が、必要になることもある(P256)。

近年、個性主義のテクニックやスキルだけで、人間関係を円滑に、そしてスムーズに進めようとする風潮がある。
しかしながら、その過程において、本来テクニックに命を吹き込んでくれるはずの人格という土台を、根こそぎにしてしまうことが少なくない
(P267)。

忍耐することは難しい。主体性を発揮し、影響の輪に集中し、生き物を育てるように、「根の成長を見たいと思っても、花を土から引き抜いたりしない」ためには、それに耐え得るだけの人格が必要なのだ(P273)。

誠実さとは正直という概念を含んでいるが、それを超えるものである。
「正直」とは真実を語ることである。つまり、言葉を現実に合わせることである。
それに対して「誠実さ」とは、現実を言葉に合わせることである。つまり、約束を守り、期待を応えることなのだ。
そして、誠実さを持つには統一された人格が必要なのである。
誠実さを示す重要な方法のひとつは、その場にいない人に対して忠実になれることである(P283)。

間違いを犯すことはひとつの問題であるが、それを認めないのはもっと大きな問題である。
人は間違いを許してくれる。なぜなら、間違いは往々にして判断を誤ったために発生するものだからである。
しかし、人は心のあり方の間違いを容易に許そうとはしない。
不正な動機や最初の間違いを正当化しようとして、それを隠そうとする傲慢さは、全く違う次元の間違いなのである(P289)。

Win-Winとは、当初それぞれの当事者が持っていた案ではなく、全く新しい第三案の存在を信じることであり、相手や自分の考え方に限定される必要はなく、より良い方法が
あるはずだと確信することである(P302)。

Lose-Winは、Win-Loseよりも質が悪い。なぜなら、Lose-Winには、基準、希望、期待、ビジョンなどが全くないからである。
Lose-Winを考える人は相手の要求に対して折れるのが早く、また、相手に好かれたいという欲求が強い。
人に受け入れられ好かれることに、自分の価値を求める。自分の気持ちや信念を表現する勇気がなく、ほかの人の我の強さにすぐおびえることになる。
(中略)しかし、ここで問題になるのは、Lose-Winを考える人は、自分の気持ちを押し隠しているだけだということである。
表現されない気持ちが死んでなくなることはなく、それは生き埋めにされて、後々になってもっと醜い形で出てくるのだ(P306)。

ほとんどの人は、欠乏マインドと私が呼ぶ脚本づけを受けている。
「欠乏マインド」とは、人生を一個のパイと見て、ほかの人が大きなひと切れを取ると、自分の取り分が減ると考える。
それは、人生をゼロ・サム・ゲーム(一方のプラスが他方のマイナスになり、両方の得点の総和が必ずゼロになるゲーム)とみるパラダイムである。
「欠乏マインド」を持つ人にとっては、名誉、評判、権力、利益などを人と分かち合うことはとても難しい。
たとえ相手が自分の家族、親戚、友人であっても、ほかの人の成功を素直に喜ぶことはできない。
他人が褒められたり、大きな成果を出したり、成功したりすると、まるで自分から何かが奪われてしまったような気持ちになってしまうからである。
ほかの人の成功に対して口では「おめでとう」と言いながらも、内心は嫉妬に満ちている。
「欠乏マインド」を持つ人人の自尊心や価値観は、他人との比較から得られるので、他人の成功は自分の失敗を意味すると考えてしまう。
優等生になれる人数には限りがある。”一番”はひとりしかなれない。
”勝つ”ことは、”相手を負かす”ことだ。そう考えてしまうのである
(P323)。

Win-Loseを考えている人に対して、Win-Winの精神を教える最も有効な方法のひとつは、Win-Winを考えている人に接する機会を与えることである。
Win-Loseの哲学に深く脚本づけをされている人が同じ考えを持っている人とばかり接していれば、Win-Winの哲学を学ぶことは難しい(P324)。
聞く訓練を受けたことのある人は、極めて少ない。また、たとえ訓練を受けたことがあったとしても、そのほとんどが個性主義のテクニックであり、誠心誠意にほかの
人を理解するのに必要不可欠な人格と人間関係の土台からは、切り離されたものだろう(P352)。

相手に対して本当に影響を与えることができるかどうかは、あなた自身が模範を示すこと、つまり日頃どう行動しているかにかかっている。
その模範とは、あなたは真にどういう人なのか、あなたの人格はどうなのかということから自然に流れ出るものである。
それは、ほかの人があなたのことをどう言っているかとか、あなたが相手にどう思って欲しいかということではなく、あなたのと接するとき、相手は何を経験するか、にかかっているのである。
あなたの人格は常に周囲に向かって発信しており、長期の人間関係においては、相手はそこからあなたとあなたの行動を、本能的に信頼するかしないか決めているのである。
もしあなたの一貫性がなく、熱したり冷めたり、怒ったかと思うと優しくなったり、あるいは私生活と公の生活とが一致していないような人間だったら、あなたに本当の気持ちを打ち明けることなど、とても私にはできない。
私が、あなたの愛や模範をどんなに必要としても。自分の意見や自分に起こったこと、微妙な心の動きをあなたに見せることは、恐くてできるものではない。
そういう状態であるなら、お互いの関係はどうなるだろうか。
私があなたに心の中を打ち明けない限り、そして、あなた私という人間や私の独自の状況や気持ちを理解できない限り、あなたは、私にどういうアドバイスや助言を与えたらいいのか分かるはずもないということだ。つまり、あなたの口から発せられる言葉がいくら正しく素晴らしいものであっても、私の状況にはあてはまらないものになってしまう(P353)。

感情移入とは、相手の見地に立ち、相手の立場から物事を眺め、相手が見ている世界を見ることであり、相手のパラダイムを理解し、相手の気持ちを感じとることなのだ(P356)。

例えば、あなたのいる部屋の空気がすべて突然なくなってしまったら、この本にどのくらい興味を持ち続けられるだろうか。
つまり、生存以外のことは動機づけにはならないということである。
しかし今、空気はある。だから今度は、空気を持ってしても動機づけにはならない。これが人間の動機づけの研究の中で、最も重要な成果のひとつである。
つまり「満たされた欲求は動機づけにならない」のである。
満たされていない欲求が動機づけになるのだ。人間にとって生存の次に大きな欲求は、心理的な生存である。
それは、理解され、認められ、愛され、必要とされ、感謝されることである(P358)。

「私は傾聴と感情移入についての本を読みました。そして自分たちの関係について考え、今まで十分にあなたの話を聞いていないということに気がつきました。
それが難しいということは十分に分かっています。でも私は、本当にあなたの話を聞きたいと思っているんです。
うまくできないかもしれません。でも頑張ってみようと思っています。あなたのことも大切に思っているし、理解したいと願っています。協力してほしいんです」
自分の動機を明確にすることは、大きな預け入れになる(P376)。