『幕末会津の女たち、男たち 山本八重よ銃をとれ』

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『幕末会津の女たち、男たち 山本八重よ銃をとれ』
中村彰彦

読後の感想
恥ずかしながらw大河ドラマに影響されて読んでみました。
高校時代まで日本史をがっつり勉強し、「風雲児たち」や光栄の「信長の野望」シリーズが好きな我が身としては、若干手薄な時代だったので非常に勉強になりました。
やはり歴史というものは、勝った側のみの歴史であり、いわゆる敗者である会津藩の歴史はほとんど語られることがないため(筆者曰く会津人の語らない気質がさらに影響しているとのことらしいのですが)、本当に知らないことだらけでした。

特に本書は、おそらく大量の資料と地図を読み解きながら史実に従って忠実に記載しているので、非常に綿密な記載がなされており読むほうも安心して読むことができました(原典がきちんと記載されているところも好印象)。

例として、京都守護職として京都で陣を張っていた松平容保と国家老として会津に残っていた西郷頼母との関係が挙げられます。
京都での勤務を終えて帰ってきた武士たちが、今まで木綿物・紺色の足袋をはいていたのに、京都から帰ってきたら絹物・白足袋だったを見て、西郷は「会津にはお金がないのに贅沢しやがって(意訳)」と怒って京都まで諫めに行った、という史実があります。
ところが、本書によると、これは実は西郷の浅慮によるものであったというのです。
実際には京都で守護職を全うするには通常のやり方だけではなく、朝廷や芸者衆から情報を得る必要がある。
ところが、京都の人は外見で相手を値踏みするから(そうか?)、木綿に紺足袋だとまったく相手にされないため情報戦で後れをとった。
というわけで、贅沢ではなく職務上やむを得ず絹物と白足袋だったにも関わらず、そういった部分を無視している西郷の批判は失当、だというのです。

ふむふむ〆(._.)メモメモ

というわけで、「八重の桜」の背景を楽しみたい人ならぜひ
(但し、西郷頼母こと西田敏行が嫌いになっても責任は持てません)。
あ、あと最後の最後にあった柴五郎についての文章は、作者の考え方がきちんと反映された素晴らしいものでした。トレビアン!

印象的なくだり

大山(大山巌)に銃弾を浴びせたのはだれだったのでしょうか。私は八重だった可能性が高いと考えています。八重は銃砲の威力をよく知っていますから、本一ノ丁の通りへ薩摩砲が曳き出されるや瞬時にその目的に気づき、この砲隊の責任者を倒してしまわないと北出丸を落とされかねない、と直感したと思われるのです。だから指揮旗をつかんでいる大山を狙った、というわけですが、大山の受けた傷が貫通銃創だったという点もこの際注目に値します。
というのも会津藩の老人たちが迎撃に使用したのは前述のように火縄銃かゲベール銃で、いずれから発射されるのも丸い銃弾だからです。この丸玉の直径は銃身の内径より小さいため、丸玉は推進火薬が銃尾近くで爆発的な燃焼を開始すると、その圧力に吹き飛ばされ、銃身内部のあちこちにぶつかってから発射されます。その分だけ発射速度が遅くなるので敵のからだに命中したとしてもなかなか貫通銃創にはならず、盲管銃創になることが多いのではないでしょうか。
対して、八重の使用していたスペンサー銃とは南北戦争(一八六一)の直前にアメリカで発明された元ごめ式七連発のライフル銃ですが、このライフルとは銃身内部に刻まれた螺旋状の溝のことで、薬莢から飛び出した椎の実形の銃弾はこのライフルによって回転を与えられるため発射速度がより早く、しかも銃身内部のあちこちにぶつかってから発射されるわけではないので命中率も良いのです。火縄銃やゲベール銃と較べたらスペンサー銃で撃たれたときの方が貫通銃創を生じる確率は圧倒的に高いであろうという点も、大山を撃った銃弾は八重のスペンサー銃から発射されたものとする私の説を支持しているのではないでしょうか(P.158)。

鹿児島で自殺できなかった(徳冨)廬花は、明治二十二年、民友社を起こして「国民之友」を発行していた兄徳富蘇峰を頼って上京し、その「国民之友」や「国民新聞」に寄稿することから文筆生活をスタートさせます。いわば蘇峰は兄であると同時に恩人だというのに、廬花はいったん臍を曲げれるとその蘇峰と十数年にわたって絶交し、おなじ徳富姓を用いることもイヤになって徳冨の表記を使ったほどの変わり者なのでした。
明治二十七年、原田愛子と結婚するとその妻と兄の肉体関係を疑うという「一種特有の病的示現」の持ち主でもあった、と蘇峰の「弟徳冨廬花」にありますが、その変人ぶりは「廬花日記」大正三年八月四日の項に「細君以外に余が交接した女」「犯さんとせし女、多少心をかけし女」が三ページ半にわたって列記され、同月十二日の項にそのつづきとして「女として余の頭に残つて居る若い女(余をそそった女)」の名が三ページも書きつらねていることなどからも、十分に察することができます(P.220)。