『若者殺しの時代』

『若者殺しの時代』
講談社
堀井憲一郎

読後の感想
文体が口語で独特なので、最初はとっつきにくかったのですが、慣れてくるとリズムになって読むスピードが上がりました。
行き過ぎた口語体は食わず嫌いでしたが、いい発見でした。
若者文化が経済に組み込まれ、それまでハンドメイドあった文化が消費財となってしまったというのが主題です。そして消費財の後、消費されるだけになってしまい、生み出すものがなくなってしまった、と。
大量のデータとその分析による書き方は非常に面白かったです。特にその着眼点が。
但し、仮説が正しいかはちょっと疑問。
全体的な印象としてはペシミズムを装った明るさといったところでしょうか。
こういった雰囲気は嫌いではありません。

別名調べるフリーライター。
映画評論家の町山智浩さんと知り合いなのね。

印象的なくだり
ペテンは現場でしか説得力を持たない。人を前にして地声で話すエリアで、圧倒的な力を持つ(P019)。

いきなり有名になることはとても危険なので、有名になりたいなら徐々に有名になったほうがいい。
徐々に有名になった場合は、昔から知っててくれた人たちがあとでやんわりと保証人になってくれるのだ。
有名人業界も保証人が必要なのだ。急激に有名になるとすぐにアラ探しをされて、確実に蹴落とされてしまう(P024)。

「クリスマスを、若者に売れば、もうかる」とおとなたちが気づいたのは80年代に入ってからである。
手編みのセーターを作らせてる場合ではない、と気づいた連中がいたのだ。
そういう連中に見つかって、若者は逃げられなくなってしまった。
でもそういう連中を自分たちのまわりに引き込んだのは、若者だった。
「革命を夢見る楽しい世界」から「画期的に楽しそうな世界」に方向を変えて歩み出し、結局僕たちは「楽しそうな世界地獄」へと自分を追い込んでしまったのだ。
若者と若者文化にとっての決定的なターニングポイントが迫ってきていた(P042)。

自分たちでまだ稼いでいない連中に、次々とものを売りつけるシステムを作り上げ、すべての若い人をそのシステムに取り込み。おとなたちがその余剰で食べてるという社会は、どう考えてもまともな社会ではないのだ。
まともではない社会は、どこかにしわ寄せがくる。それが21世紀の日本と日本の若者だ
(P046)。

女の子が何かを欲しがれば、すぐに用意された。
用意されたものは高度資本主義経済によって、より洗練され、より細分化され、多種多様な商品として市場にでまわった。
そのあと「やがて欲しがるだろう」というものまで前もって用意され、欲しがっているのかどうかわからないものも用意してくれるようになった。
すべて洗練され、細分化され、店頭に並べられた
(P082)。

コミックマーケット、(後略)。
宮崎勤事件の直後、そこにやってきたワイドショーのレポーターが、「ここに十万人の宮崎勤がいます!」と叫んだのだ(P118)。

70年代に若者が「自分たちのものだ」と思ったカルチャーは、80年代を通しゆっくりと分解されていった。
マンガの無駄な部分を嫌い、おたくを切り捨てていった「若者に消費をすすめる社会」は、90年代には恋愛ドラマを売り出す。
90年代は恋愛と携帯しか売られなかった。そして恋愛と携帯からは、何も生まれなかった(P124)。

携帯電話は、人と人とをダイレクトに結びつけている。
自分が話したい相手が、いきなり電話口に出てくれるのだ。
それは、最初、無限の可能を僕たちにあたえてくれてるように見えた。
でも、ちがった。みんなとつながってるということは、逃げ場がないということだった。(中略)
昔の一般電話には、もう少し肉体感覚があった。
彼女の家に電話をかけると、親が出た。親を乗り越えないと、彼女にたどりつけない。(中略)
つながらないときは、つながらないのだ。電話はもともと、ひとつの可能性でしかなかった。(中略)
携帯電話は、もっと根本的な緊張を強いてくる。
見も蓋もない。相手がでなければ、拒否されてる可能性が高いのだ。
電話をかけただけで、そんなことまで知らされてはたまらない(P151)。

僕たちは、便利さ地獄に陥っている。
便利な新製品のあとに、もっと便利な新製品が出てくる。すべての商品とサービスが、消費者を圧倒的な王様のような気分にさせてくれる。
すべての人が自分を王様だとおもいはじめ、世界は王で満ちあふれ、混乱している。
しかも世界は、自分が期待しているほど自分中心に動いてくれるはずもなく、世界と自分との折り合いがつけにくくなってしまった。
都市で、人と人の方がぶつかる回数が増えているはずである。昔は分をわきまえてお互いに避けていたものが、いまはぶつかっていくようになったのだ。
哀しい王様の争いが今日も都会で起こり続けている(P176)。