『対話する家族』

『対話する家族』
河合隼雄
潮出版社

読後の感想
河合さんの本を読んだ後はいつも思うのですが、今まで黒だと思っていたものが白に見えてきたり、逆に白だと思っていたものが黒に思えてきたりの連続が起きます。自分の偏狭な視野を丁寧に広げてくれることに驚きで一杯です。
と同時に、分からないことに向き合うという勇気を与えてくれる本でもあります。俗に言う、当たり前のことを当たり前に言うのはどんなに難しいことか、教えてくれました。
小鳥と笛、はユーモアたっぷりな内容です。思わずニヤっとしてしまいます。日本ウソツキクラブのくだりは、河合さんのセンスが光っていました。

ちなみに本の内容ですが、別々の本に収録されていたものを抜書きし並べただけなので、テーマの一貫性はありませんが、思想の一貫性はもちろん担保されているので読みやすくはあります。その点がちょっと残念。

印象的なくだり
近代科学の強力な武器は切断である。現象を細かく分析してゆき、その後にそれらの関係を合理的論理的に組み立てたモデルをつくりあげる。そして、それに従って対象を自分の思うように操作する。この方法があまりにも効果的なので、人間は誤ってこの方法をそのまま人間に当てはめようとしたのではなかろうか。たとえば、「正しい育児」とか「よい教育」をしようとすると言えば聞こえはいいが、子どもたちから見れば「そんなにうまく操作されてたまるか」と言いたくなるのではなかろうか。大人の人間関係においても、互いに相手を上手に操作しようとし過ぎて、現代人は「関係性喪失」の病に苦しんでいる(P017)。

近代科学は、いかに生きるかという点や他人の死について語るときは雄弁であるが、自分と関係の深い死については無言である。われわれは真に生きることを考えるのなら、自分の死との関係性の回復をはからねばならない(P019)。

人間はその存在そのものに不安を内在させている、と言えるだろう。誰にも避けることのできない「死」ということは、常に人間にのしかかっている課題である。科学やテクノロジーが発達しすぎたために、現代人は何でもかでも自分の能力によって思いのままになると思いこみすぎたのではなかろうか。遠くに行くにしろ、重いものを運ぶにしろ、伝染病を免れるにしろ、すべて「便利」な方法を人間は発明した。昔の人が困り切っていたことをどんどんと「うまく」やることができるようになった。ここで人間は何でも「うまく」やれる「便利」な方法があると思い込みすぎたのではなかろうか。
人間が恐れる「死」に対しても、それを少し遅らせる「よい方法」がないかと考え、昔だったら死んでいるはずの人をどのくらい「延命」できるか競争するような医学も発達した。しかし、ここでわれわれは気がつきはじめた。いったいそれはほんとうに「よい」方法なのか。「延命」はほんとうに幸福なのだろうかと。死と直面する方法に、よい方法や便利な方法があるだろうか(P030)。

教育全般に対しても、「教える」側は「育つ」ことの重要性をもっと深く認識するべきだと思うのです(P034)。

偏差値教育になぜ親は逆らえないか、という問題で必ず浮かび上がってくるのがいわゆる「歩留まり」論です。わが子に出世してほしいとまでは望まないが、例えば就職のときも、転職に際しても、昇進においても、あるいは結婚にあっても、いわゆる偏差値的に「良い大学」を卒業していれば損はしないだろう、という親の「思い」が強いようです。
この「歩留まり」論は、親の子育てサボタージュ以外のなにものでもないのです。いまや父親は「稼いでいる」といったことだけで家庭内でふんぞりかえっていられない時代なのです。子供に豊かな人生を歩んでほしいと思ったら、相当エネルギーを使わないと駄目な時代なのだということを自覚すべきなのです(P048)。

科学・技術の発展によって、人間は実に多くのことを可能にした。人間は月まで行って帰って来られるようになった。科学・技術に対する信頼感が強くなりすぎたために、人間はどんなことでもそのような考え方に頼ろうとし過ぎるようになったのではなかろうか。子どもが学校に行かない。そうすると何か「よい方法」があるのではなかろうかと考える。あるいは子どものどこかがおかしい。つまり、「故障」しているのだから、そこを修理すればよい、と考えるのではなかろうか。そのような考えに乗って、ーまったく非科学的なのだがーこれを買って祭っておけばよくなるなどという「よい方法」を売りつけに来る人がおり、それにだまされてしまうのである。
大切なことは、人間は機械ではない、ということである。人間は自ら考えたり感じたり、それに変化してゆくものである。人間が考え、感じていることのなかには科学・技術の解決できないことは沢山ある。宇宙飛行士の多くの人が、宇宙空間で宗教的な体験をしたことは、立花隆「宇宙からの帰還」に詳しく述べられていて興味深い。宇宙遊泳をしていて、その飛行士が「いったいなぜじぶんはこんなところに一人でいるのだろう」、「それは何を意味するのか」と考えはじめるとき、科学・技術はそれに答えてくれない(P130)。

「心のケア」と言っても一番困るのは、押しつけがましい親切で、これは傷を余計に深くするだけである。その点、ボランティアの人たちは特に気をつけてほしいと思っている。苦しみや悲しみを「引き出そう」とするのはいけない。傷ついた人の傍らに黙ってそっといることが大切である。あくまで自然に流れるものに沿って役に立つことである(P164)。

かつて、米の一粒一粒に心血を注いだのと同じ姿勢をもって、近代工業のパーツのひとつひとつをつくるのに、欧米人の考え及ばない姿勢で臨むことになる。仕事と遊びを峻別したり、日常と非日常を明確に分けて考えるのではなく、ものつくりに遊びも宗教も混入してくるのである。
ところで、そのようにして優秀な製品を世界に売る、ということは、日本の国内で米つくりをいしてるのと違って、欧米の論理に乗って生きてゆかねばならぬことを意味している。西洋の論理の生み出したテクノロジーの製品を沢山輸出するなら、西洋の論理に従って、米を輸入するのは当然のことだ、という考え方も出てくるわけである。
やや「風が吹けば桶屋がもうかる」式の論法になるが、日本人が一所懸命に近代機器などをつくることは、自分自身の神殿を破壊することにつながることになる。つまり、日本人が米つくりをやめ、四季の変化の風物の担い手として重要な田圃がなくなると、「見るなの座敷」を開けられたような悲劇が生じることになる。日本には神社、仏閣が沢山あるが、それはそれを取り巻く「自然」全体とこみで宗教性をもっている。
ここで日本の神殿を守るために、米は輸入しないという論理は簡単には世界に通用しないだろう。日本の輸出品は西洋の論理の上になり立っているのだから(P171)。

小鳥と笛
(P208)。

ボランティアは、どのようなことをするにしても、「善意の押しつけ」をしてはならない。ボランティアの趣旨に賛同して協力してくれる人が出てくるのはうれしい。しかし、それを「押しつける」ことは決してしてはならない。たとえば、芸術家に対して「僕たちボランティアでやっていますので、あなたも無料でやってください」などというのは困る。
このことにも関連するが、ボランティアだから、少しぐらい質が悪くても仕方ない、といような甘えをもってはならない。玄人ができること、専門家がするべきことを、ボランティアだから少しぐらい質が悪くても、という考えで決してやらないことだ。こんなことをされると、ボランティアの善意によって傷つく人や不愉快になる人がでてくる。善意がまかりとおるのは恐ろしい。
次に、ボランティアは、ある程度の長期的展望をもってほしい。何によらず「続ける」ことは大変なことで、続けてやっていると、自分のしていることのマイナス面や、どのくらい意義をもつか、ということも見えてくる。しかし、ボランティア活動を何か一回だけ、という気もあるだろう。そのときは、その一回の行為が長期的展望のなかで、どのような意味をもつか、よく考えないと、善意でしたことが、かえってマイナスになるときもある、一時的にお祭り騒ぎをすることによって、地道に仕事をしている人に被害を与えることになったりする。思いつくことを少しだけ書いたが、これを見てもわかるとおり、ほんとうに意味のあるボランティア活動をするのは、あんがい難しいことなのである。しkし、それだからこそ、いろいろと頭をはたらかせてするところに面白さもでてくると思う。現代の若い人たちが、大人どもを「あっ」と言わせるような、文化ボランティア活動をしてくださるのを大いに期待している(P214)。

『働きざかりの心理学』

『働きざかりの心理学』
新潮社
河合隼雄

読後の感想
河合さんの本を読むと、今までいいことだと思っていたことがそれほど良くなくて、逆にそうでないことに意味があるんだなぁと気づかされることが多いです。
この人は普段多くの人が見ても素通りしてしまう出来事に立ち止まれる人だと感じました。
日本人の気の遣い方を「場の論理」という形で説明する部分は秀逸でした。
普段の生活における問題意識を喚起する文章です。

印象的なくだり
日本語の「虫が好かぬ」という表現は、なかなか味のある言葉で、私とかあなたとかではなく「虫」を主語にしているところが面白い。
つまり、嫌いは嫌いだが、自分にとっては、もうひとつわけが解らないという感じがうまくでている(P018)。

確かに、その部下を他と比較して良い点を探そうとしても何もないかもしれない。
しかし、部下のしていることのなかで何か良いとrこは無いかと思うと、案外見つかるものである。
他を標準にせずに、その人の標準のなかで良い点を探すのである(P032)。

強調というときは相手の存在だけはなく、自分の存在も生きていかなくてはならない。
両方をぶつかり合わせて、どうしようかと考えるところに苦しみがあるが、それを解決したときは新しい局面がひらかられる感じがあり、そこでは両者ともに生かされている。
ところが、妥協というのは、安易に自分を殺してしまっていることが多く、そこに新しいことがはいってこない、と言うのである(P051)。

場の力学(P133)

場の構造を権力構造としてとらえた人は、それに反逆するために、その集団を抜け出して新しい集団、彼らの主観に従えば反権力の集団をつくる。
ところが既述のような認識にたっていないため、彼らの集団も日本的な場をつくることになる。
そして、既存の集団に対抗する必要上、その集団の凝集性を高めねばならなくなるので、その「場」のしめつけは既存の集団より協力にならざるを得ないという状態になってくる。
このため、「革新」を目ざす集団が、その主義はともかくとして、集団構造をは極めて保守的な日本的構造をもたざるを得ないというパラドックスが生じてくるのである(P136)。

文明が進むと、どうして老人は不幸になるのか。
それは、文明の「進歩」という考えが、老人を嫌うからである。文化にあまり変化がないとき、老人は知者として尊敬される。
しかし、そこに急激な「進歩」が生じるとき、老人は、むしろ進歩から取り残されたものとして、見捨てられてしまうのである。
近代科学は、その急激な進歩によって人間の寿命を延ばすことに貢献しつつ、一方では、それを支える進歩の思想によって、老人たちを見捨てようとしている。
この両刃の剣によって、多くの老人が悲劇の中に追いやられているのである(P206)。

Amazonによる説明
本書は30~40代の働きざかりが、いかにして会社や家庭、そしてそこから起こる問題に向き合っていくべきかを指南した本である。
本文中には、会社ではまじめ人間の夫が家庭では妻に当たり散らす、円満だった夫婦が突然離婚に至る、何の不満もないはずの子供が突然親に反抗するなど、さまざまなケースが登場する。いずれも心理学者である筆者が実際にカウンセリングしたケースであるが、あまりにも過激な例が多くて驚かされる。それほど、ちょっとしたストレスや人間関係のもつれが人生に大きな影響を与えるということだろう。
本書は、さまざまなケーススタディーを通し、読者が心身の健康を保ち、かつ会社の同僚や家族とうまく付き合っていくためのアドバイスを与えている。
現在、会社生活や家庭生活で悩みを抱えている人はもちろん、そうでない人にとっても、快適な生活を営む上で、参考になる本である。(土井英司)

裏表紙の内容
働くこと=生きること」責任ある立場に立ち、人生の光と影を背負いながら誠実に働くことは、それだけで充分に難しいこと。「働きざかり」の世代が直面する“見えざる危機”を心身両面から探り、解決のヒントを提案します。「つきあいの功罪」「会議と疲れ」「妥協と協調」「男女の迷走」「いじめの病根」そして「中年の危機」。誰もが避けては通れない大切な課題を考えるための心のカルテ。

こころの処方箋

こころの処方箋
新潮社
河合隼雄

読後の感想
 肩肘の張らないエッセイが沢山詰まった本。
 ゆっくり自分のペースを守りながら読める本です。いつの間にかいろいろなことを考えるようになります。

印象に残ったくだり
「男女は協力し合えても理解し合うことは難しい」というもの。難しいことが分かっていれば、少しずつ努力しようか、という気になるものである。オススメの一冊です。