『日本人の犯罪意識』
中央公論社
青柳文雄
読後の感想
刑事訴訟法の観点からも、日本人論の観点からも勉強になる一冊でした。ワクワクするエピソード満載で楽しめました。
専門用語が多用されているので一般受けするかは判りませんが(多分無理)。
印象的なくだり
参考人といってもいろいろで、マス・コミが重要参考人と称しているのは実質的には被疑者に近い者で、ただ後で犯罪と関係がないと判ったときに、記事の訂正とか
損害賠償とかを請求されないように、隠れ蓑に使っているわけである(P189)。
明治政府に招かれて治外法権撤廃のための国内法の整備に努めていたボワソナードがある夕方通訳を連れて裁判所の横を通ったところ、裁判所の中から悲鳴が聞こえてくる。
ボワソナードが通訳に「あれは何か」と聞いたところ、通訳は平気な顔で「今拷問しているんです」と答えた。
ボワソナードは大変驚いて明治政府に献言して拷問をやめさせたのが明治一二年であり、事実の認定は証拠によることになったのが明治一九年である。
法廷で拷問をしていたのでは、審理の公開などはとんでもない話である(P206)。
戦前の裁判所構成法では、裁判官、検察官、弁護士、裁判所書記官はいずれも黒い繻子の法服をつけ、神主のような法冠をかぶることになっていた。
ただその法服、法冠の刺繍の色が違った。裁判官は紫で慈悲を現し、検察官のものは赤で正義の怒りを現し、弁護士のは白潔白を現していた(P207)。
殺人事件の再審で問題となった血液型の鑑定などその一例とすることができよう。
こういう事件で、弁護士として被告人に不利な血液型の鑑定をした鑑定人への反対尋問に一番効果的なのは、「あなたはこの結論を絶対のものと思いますか」という殺し文句的の一句だろう。
自然科学は社会科学にくらべると、絶対的な結論がでやすいには相違ないが、巨視的にいえば、絶対のものがないからこそ従前の理論を批判しながら自然科学が今日の進歩を来たしたのだから、鑑定人としては「絶対とはいえません」と答えるだろう(P224-225)。
日本人は、他国民から欠点を指摘されるのを好まないし、そのような批判に接しても彼らがよく判らないからそのようにいうのだと考えがちである。
そればかりでなく、自ら自国民の欠点を厳しく批判もしないのは、日本人が和の社会に住んでいて、そのような批判をする人を変り者として白い眼で見るからであろう(P250)。
他人のレビューを読んで
SNS内でのレビューなので引用は控えますが、著者の文章は一貫して実務の観点から書かれているので、理論とはかけ離れているとの指摘がありました。
特に、個別の事件によって理論を変えて対応するとの記述は理論を重んじる人にとっては我慢ができないというのは、まさに現実問題として生じていることだと思います。
216ページに傍聴席の傍聴人を状況証拠の要素として加味するとの記述に、「とんでもない!」との指摘がありました。完全に読み飛ばしていましたが、流石にこれは著者も筆が滑ったのでしょうね…。