『平場の月』

朝倉かすみ『平場の月』

読後の鑑賞
物語の冒頭からネタバレで始まる。50代の男女、須藤葉子と青砥健将の悲恋模様だ。さらに、須藤は物語の最後で亡くなることも明かされている。これは、裏表紙のあらすじに「須藤が死んだ」と書かれているので、ネタバレではない。つまり、読者はこの恋愛が最後はバッドエンドになると分かっていて読むのだ。辛いけれども引き込まれる。

50代の男女が中学の同級生で、お互いバツイチ。このような関係は「平場」という言葉がぴったりだ。しかし、40代の私には多くの共感できる描写があり、心を揺さぶられた。須藤は子供もおらず、友人も少なく、荷物も少ない。そんな人が亡くなると、その人のことを覚えている人がいなくなるのは本当に悲しい。

本書の目次は全て須藤のセリフで構成されている。読み終えた後に目次を見ると、そこには須藤が生きてきた証が残っているのだ。この本は、20代の頃の私が読んでも響かなかっただろう。なぜなら、その頃は身近な人が亡くなる経験が少なかったからだ。しかし、年齢を重ねるとやや多くの別れを経験し、現在の関係が永遠ではないことを痛感するようになる。
須藤の「ちょうどよくしあわせなんだ」は何度も反芻した。

情熱的でも駆け引きでもなく、少しだけ傷ついた男女が寄り添って生きていこうとする様が、あっけない終わりを迎える。
別に特別なことがあるわけではない、二人で話すシーン、食事をするシーン、時々携帯電話のメールを送るシーンなど、どれを切り取ってもドラマになるようなものではなく淡々とした日常だ。
だからこそ、日常を生きる姿を美しく感じた。

印象的なくだり
須藤は終始ウーロン茶のグラスを指で叩いていた。苛立つというより、もどかしげだった。須藤は、須藤のちいさな世界の話が、他人からすれば退屈なものだと知っているようだった。それでも須藤にとっては生活に密着した重要な世界で、ひととおりの愛着もある。だから、ちょっとはひとに話してみたく、どうせなら正確に伝えたく、結果、思った以上にくわしく説明してしまう自分自身をもてあましているようだった(P.046)。

不定形の「案件」がかたちを持ち始めたように思った。おれは須藤と一生いくのか。そんな言葉が胸の底に潜っていった。問いかけだったが、疑問符は付いていなかった。ルートは見えていた。すごろくみたいなチェックポイントを越えていったら、出現したルートだった。アイドリングから走行へと自動的に切り替わり、夢中で走っているうち、友人ルートも、別離ルートも消えていた。ひらけたのは、離れがたいというルートで、ふたつの藁の束を絡み合わせて丈夫な縄にしたような、そんな手応えが青砥にあった。たぶん愛情というやつだ(P.206)。

スポンサーリンク