『メディアスクラム―集団的過熱取材と報道の自由』

『メディアスクラム―集団的過熱取材と報道の自由』
花伝社
鶴岡憲一

読後の感想
北朝鮮による拉致被害者に対する報道の加熱ぶりを分析して、なぜメディアスクラムが起こるのか?と書きたかったんだろうなぁ。心意気は汲むけど、現状確認以外は得られるものがありませんでした。

印象的なくだり

取材による人権やプライバシーの侵害とされるケースのほとんどは、個々のジャーナリストのマナー違反や勇み足的なパターンだ。これに対し、人権、プライバシーの侵害と関係付けられるメディアスクラムは、ジャーナリストによる取材が集団的に展開される影響を否定的に受け止められるとらえ方である。個々のジャーナリストの取材には何ら問題はなくても、それが集団的に行われることが”報道被害”となる、というパターンとされる。そのような事情はメディアスクラム防止対策について、メディアの種類に関わらず個々のジャーナリストやメディアの側のストレスを募らせる点である(P016)。

(前略)横並び取材・報道につながりかねないメディアスクラム対策は、メディアの側が安易に容認すべき方式でないことは言うまでもない。だが、拉致問題に限らず、報道の現場で人権やプライバシーへの配慮を視野に協調的な自粛態勢を受け入れざるを得ない一方で、個性的な独自報道を目指して苦闘する記者たちにとって、メディアスクラム的な事態を回避するための有効な対案を示さないままでの批判は説得力を持ち得ない(P025)。

メディアの取材・報道に絡む人権侵害が、犯罪容疑者についてだけでなく、犯罪被害者から事件発生場所近辺の住民も含めた周辺関係者にまで強く意識され問題化するケースが目立ってきたのは九〇年代半ばころからだった。九四年に死者が七人に上った松本サリン事件は後にオウム真理教教団による犯行とされるに至るが、それまでの間、被害者の一人、河野義行さんが容疑者扱いされた例は、過渡期の事例といえる。メディアにとっては痛恨のケースだった。
犯罪容疑者についての報道は、「判決確定前は無罪が推定されねばならない容疑者に対する、メディアの犯人扱い報道」として批判の対象になってきたが、犯罪被害者や周辺関係者にかかわる集中的加熱取材として主に指摘されたのがメディアスクラムである(P071)。

(前略)、公権力経由で行われる取材自粛の養成への対応は慎重さを要する。公権力側は、警察に限らず一般行政官庁でも、事が決着するまで情報を占有し、メディアや一般国民の関与を避けるなかで結論をまとめようとする傾向が、ほとんど習性になっているためだ。そうした公権力の対応は往々にして公権力本位の発想で処理され、公権力にとって不都合な情報を隠す事態が繰り返されてきたのが、この国の実体である(P078)。

GHQの言論・報道政策は、単に言論・報道の自由を回復したというだけではない。「言論の自由の奨励と言論の自由の制限の二つの柱」という両面性を持っていたといえる。
このような矛盾する言論政策は、国家体制の変革のような大転換の局面には往々にして生じがちである。例えば「平等」とともに「自由」という理念を掲げた人権宣言が採択されたフランス革命では、「おお!自由よ。汝の名においていかに多くの犯罪がおかされたことだろう」という言葉を残したロラン夫人をギロチンの刃の下に送った恐怖政治を生んでいる。旧勢力と新勢力の拮抗した状況に移る過程で、一方の勢力が圧倒されそうな場合、「自由」を掲げた勢力であっても、その理念を置き去りにしがちな現象といえる(P110)。