『生物と無生物のあいだ』

『生物と無生物のあいだ』
講談社
福岡 伸一

読後の感想
これほど感傷的になれる生物学の本を知りません。そんな本でした。
書いてある内容は、学術的にはどうなのかはよくわかりませんが、当時の研究所の様子や人間関係、時代背景を丁寧になぞって書かれているので、あたかもその時代の当事者になったかのように引き込まれました。
動的平衡のくだりはいい意味で文学がかっています。
筆者はなんてロマンチストなんだろう、と思わずにはいられませんでした。
俗っぽい言葉で言えば「少年の心」を忘れないままの研究者というところなんでしょうけどね。
いずれにせよ「読ませる」学者さんですね。
中学生の頃に読んでいたら生物学者を目指していたかもしれません。

印象的なくだり
ウイルスは、単細胞生物よりもずっと小さい。大腸菌をラグビーボールとすれば、ウイルスは(種類によって異なるが)ピンポン玉かパチンコ玉程度のサイズとなる。光学顕微鏡では解像度の限界以下で像として見ることはできない。ウイルスを「見る」ことができるようになったのは、光学顕微鏡よりも十倍から百倍もの倍率を実現する電子顕微鏡が開発された一九三〇年代以降のことである(P035)。

ウイルスをして単なる物質から一線を画している唯一の、そして最大の特性がある。
それはウイルスが自らを増やせるということだ。ウイルスは自己複製能力を持つ。ウイルスのこの能力は、タンパク質を甲殻の内部に鎮座する単一の分子に担保されている。核酸=DNAもしくはRNAである(P037)。

生命現象に参加する粒子が少なければ、平均的なふるまいから外れる粒子の寄与、つまり誤差率が高くなる。粒子の数が増えれば増えるほど平方根の法則によって誤差率は急激に低下させうる。生命現象に必要な秩序の精度を上げるためにこそ、「原子はそんなに小さい」、つまり「生物はこんなに大きい」必要があるのだ(P143)。

第9章 動的平衡とは何か
よく私たちはしばしば知人と久闊を叙するとき、「お変わりありませんね」などと挨拶を交わすが、半年、あるいは一年ほど会わずにいれば、分子レベルでは我々はすっかり入れ替わっていて、お変わりありまくりなのである。かつてあなたの一部であった原子や分子はもうすでにあなたの内部には存在しない(P163)。

アミノ酸とタンパク質の関係は、文字と文章との関係に対応する。ちょうどアルファベットの並び順が、特別の文章を紡ぎだすように、数珠玉のように何十、何百と連結したアミノ酸の配列順序こそが、あるタンパク質を他のタンパク質から区別する斑紋となる(P232)。

ドミナント・ネガティブ現象
タンパク質分子の部分的な欠落や局所的な改変のほうが、分子全体の欠落よりも、より優位に害作用を与える。部分的に改変されたパズルのピースを故意に導入すると、ピースが完全に存在しないとき以上に大きな影響が生命にもたらされる。
ドミナント・ネガティブは、分子生物学の現場でも広く知られるようになってきた生命という系固有の現象である。マウスに致命的なアタキシア症状をもたらすことになった、頭三分の一を失った不完全なプリオンタンパク質。これが引き起こしたことはおそらく次のようなドミナント・ネガティブ現象だったのである(P267)。

インテリジェントビルの、精密に制御されたエレベーターのように、最小の振動ときわめて微弱な加速度しか感じさせない乗り物に乗ったとき、私たちはそれが上昇しているのか下降しているのか、あるいは動いていることすらわからないことがある。時間という乗り物は、すべてのものを静かに等しく運んでいるがゆえに、その上に載っていること、そして、その動きが不可逆的であることを気づかせない(P270)。

機械には時間がない。原理的にはどの部分からでも作ることができ、完成した後からでも部品を抜き取ったり、交換することができる。そこには二度とやり直すことのできない時間というものがない。
生物には時間がある。その内部には常に不可逆的な時間の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、一度、折りたたんだら二度解くことのできないものとして生物はある。生命とはどのようなものかと問われれば、そう応えることができる
(P271)。

今、私の目の前にいるGP2ノックアウトマウスは、飼育ゲージの中で何事もなく一心に餌を食べている。しかしここに出現している正常さは、遺伝子欠損が何の影響をももたらさなかったものとしてあるのではない。つまりGP2には細胞膜に対する重要な役割が課せられている。ここに今、見えていることは、生命という動的平衡が、GP2の欠落を、ある時点以降、見事に埋め合わせた結果なのだ。正常さは、欠落に対するさまざまな応答と適応の連鎖、つまりリアクションの帰趨によって作り出された別の平衡としてここにあるのだ。
私たちは遺伝子をひとつ失ったマウスに何事も起こらなかったことに落胆するのではなく、何事も起こらなかったことに驚愕すべきなのである。動的な平衡がもつ、やわらかな適応力となめらかな復元力の大きさにこそ驚嘆すべきなのだ。
結局、私たちが明らかにできたことは、生命を機械的に、操作的に扱うことの不可能性だったのである
(P272)。