娘に自我(の一部)が芽生えた日

たまたま妻が熱を出して寝ていたので、娘の面倒を一日中見ていました。
普段ならテレビのある部屋で遊ばせておくのですが、その部屋には病床の妻(大げさ)が臥せっていたので、代わりにほぼ荷物置き場になっている部屋に行きベビーベットの上でおもちゃを並べて遊ばせておきました。

で、自分はベッドの横でパソコンを開いて、スキャンしたりネットをしていました。

しばらくしてなにやら娘の様子が静かなので、チラッと見てみると、なんと娘は鏡に向かって左手を上げたり、下げたり、ひざを曲げたり、伸ばしたりとキャッキャ、キャッキャと一人遊びをしているではありませんか!?

おおっ、これが知性というやつか。

急いで妻を呼んで「これが知性だ。これが自我の芽生えである(エッヘン)」と説明したのですが、あんまり感動はなく「あっそ」と去っていってしまいました。

こうやって娘は成長していくんだろうなぁ、これから楽しいことばっかりじゃないんだろうなぁと、耽っていたら夜になってしまいましたとさ、めでたしめでたし。

で、肝心の自我の話なのですが、ジャック・ラカンがそういってたと何かで読んだはずなのですが、思い出せなかったので、検索してみました。
正確な出典は不明ですが、内田樹『寝ながら学べる構造主義』にありました。

鏡像段階とは人間の幼児が、生後六ヶ月くらいになると、鏡に映った自分の像に興味を抱くようになり、やがて強烈な喜悦を経験する現象を指します。人間以外の動物は、最初は鏡を不思議がって、覗き込んだり、ぐるぐる周囲を回ったりしますが、そのうちに鏡像には実体がないことが分かると、鏡に対する関心はふいに終わってしまいます。ところが、人間の子どもの場合は、違います。子どもは鏡の中の自分と像に映り込んでいる自分の周囲のものとの関係を飽きずに「遊び」として体験します。この強い喜悦の感情は幼児がこのときに何かを発見したことを示しています。何を発見したのでしょう。
子どもは「私」を手に入れたのです(P169)。

そんなわけで
娘が生まれて282日目の感動でした。おしまい。
ちなみに妻の熱は無事に下がりました。