『人間この信じやすきもの―迷信・誤信はどうして生まれるか』

『人間この信じやすきもの―迷信・誤信はどうして生まれるか』
新曜社
トーマス ギロビッチ

読後の感想
迷信・誤信はどうやって生まれるのかをテーマにした一冊。人間能力が低いとか、頭が悪いとか、そういった話ではなく、そもそも人間は認知と理解の段階で誤りやすいという内容でした。
一つは認知する動機の点で、そもそも無意識に自分の願望・希望に合致する事実を見てしまいがちということ、もう一つは、仮に誤った意見を話したとしても、それに対する修正のフィードバックがなされることが少ないので誤った考えが強化・固定化されがちという点でした。
個人的にはセルフハンディキャップの記述が非常に心に沁みました。気をつけます。

印象的なくだり

多くの誤った考えはもっぱら認知的な原因によって生じてくる。つまり、情報を処理したり結論を引き出したりする能力の不完全さによると考えられる。言い替えれば、「そう思いたい」というような心理的欲求を満足させるために誤った考えを持つのではなく、得られた事実に最もうまくあてはまる結論として導き出されたものが、結果的に誤った考えとなってしまうのである。ロバート・マートンの言葉を借りれば、人々がそうした信念を持つのは「自分自身の体験からこう結論せざるをえない」と考えるからである。誤った信念は決して非合理性から生じるのではなく、合理性の欠陥から生じるのである(P004)。

代表性にもとづく判断は、多くの場合正しく、有効であることが多い。というのも、いっしょに起こる物事は多くの場合、現実に類似していることが多いからである(中略)。
原因はしばしばその結果と類似したものとなる。他の要因が一定ならば、「大きな」結果は「大きな」原因から生まれるし、複雑な原因は複雑な結果につながる。問題が生じるのは、こうした代表性にもとづく判断を、あまりに使いすぎてしまうことである(P028)。

重要な点はまさにここにある。後づけでならば、どんなデータからも最も特異な部分を見つけて、そこにだけ都合のいい検定法を施すことができるのである。しかしながら、正しい教育を受けた科学者は、(あるいは、賢明な人であれば誰でも)こうしたことを行わない。というのも、統計的な分析を事後的に行うと偶然の要因を正しく評価することができず、分析そのものが意味のないものになってしまうことをよく理解しているからである。科学者たちは、上述のような見かけ上の偏りからは仮説を立てるにとどめ、その仮説を新しい独立な一連のデータによって検証しようとする。こうした検証に耐えた仮説だけが、真の仮説として真剣に検証されるのである。
不都合なことに、一般の人々の直感的な判断は、こうした厳密な制約を受けることがない。ある結果にもとづいて形成された仮説が、その同じ結果によって検証されたと見なされてしまうのである。ここでの例がそうであるように、人々は、データを事後的に、また選択的に読み取ることにより、見かけ上の特異性を過大評価し、その結果、何もないところに秩序を見つけ出すことになってしまうのである(P033)。

統計学入門の授業で必ずといってよいほど教えられる重要な現象に、回帰効果がある。二つの変量が相関関係にあり、その相関が完全ではないときに、一方の変量の両端部分の値は、もう一方の変量ではより平均値に近い値と対応する傾向があるということである(P037)。

回帰の誤謬はまた、親や教師が子どもたちの教育に用いる褒美や罰の効果についても、誤った考えを植え付ける原因となっている。心理学者たちは、望ましくない反応を罰するよりも、望ましい反応をほめてやることの方が、一般により効果的であることを見いだしている。ところが、一般の人々にとっては、こうし事実は受け入れがたく、昔も今も大半の親たちが好んで用いるしつけの手段は、ほめることではなく、叱ることである。ほめることが心理学的に推奨されているにもかかわらず、親たちはなぜ叱るのを止めないのだろうか。これも、回帰効果で説明できる。というのは、回帰効果が、ほめることの真の効果を隠すと同時に、叱ることの見かけの効果を生みだしていると思われるからである。ほめられるのは、多くの場合、子どもが特別に良いことをした後である。ところが、ここでも回帰効果により、そうした特別に良い行為の後には、平均して、それほど良い行為が続かないと予想できる。それゆえ、ほめたことには効果がないように見えたり、反対に、むしろ逆効果のように見えてしまうのである。それに対し、同じ回帰効果により、もともと悪い成績の後にはいくぶんかの向上が見られる傾向があるため、悪い成績の後に与えられた罰は効果があったように感じられてしまうのである。言い替えれば、回帰効果は、「ほめることを罰し、罰することをほめる」ことに一役買ってしまうのである(P044)。

どんな場合にも肯定形で答えられることが多い質問も存在し、そうした質問が用いられると、上述のような特殊な質問の場合とはまた別の影響も生じる。たとえば、ある人物が内向的であるかどうかを確かめようとして、「人前で本当に自然にふるまうことが難しいと、ときどき感じることがありますか」という質問をしたとしよう。ところがこの質問は、外向的な人でも、内向的な人でも、「はい、本当に自然にふるまうのは、ときどき難しく感じます」と答えることができるため、実際にはあまり有効な質問ではない(P058)。

ある政策がとられたことの効果を評価しようとする際に生ずる根元的な問題点は、その政策が取られなかった場合にどうなったかについての情報が得られないということである(P067)。

自己成就予言には2種類あるということである。つまり、真の自己成就予言と、疑似自己成就予言とである(中略)。
少年野球にもこうした疑似自己成就予言の例が見られる。ある子どもは下手だと思われているために、ボールがめったに飛んでこないような守備位置(少年野球では、ライト)しか守らせてもらえない。そこで、下手でないことを示して見せようにも、ほとんどその機会が無い。そして、上手いところを見せることがないままで推移していると、そうした機会が無かっただけのことが、能力がないことと勘違いされることになってしまうのである
(P075)。

ノーベル生理医学賞を受賞したピーター・メダワー卿も指摘したように、科学は「発想作業と検証作業、提案と廃案、推量と反(ぱく)を交互に繰り返して」進歩していくのである。アイディアのひらめきの後には、厳格な検証がなされねばならない。ノーベル賞を2度受賞しているライナス・ボーリングは、テレビの対談番組で成功の秘訣を聞かれて、こう答えている。「アイディアをたくさん出さなければならない。そして、悪いアイディアはどんどん捨てるんです。」科学的方法の多くは、あるアイディアが捨て去るべき悪いものであるかどうかを正しく決定するための手続きとして作りあげられたものである。日常生活においても、私たちは、こうした一連の手続きを活用すべきではないだろうか。私たち人間は、アイディアや理論やもっともらしい響きをもった説明を生み出すことに長けている。しかしながら、一度作り上げたアイディアが正しいものであるかを評価したり検証したりすることは、あまり得意ではない。その最大の原因は、「何をもって仮説を支持する証拠とするかが厳密に決められていないかぎり、お気に入りの仮説を支持する証拠はいくらでも見つかることになってしまう」ということを忘れがちだかれである(P094)。

ザイガルニック効果(P102)。
完了した作業よりも中断された作業の方が記憶に残りやすいという

普通の人々は自分自身について過大評価しがちであるということがある(P125)。

私たちの動機は、多くの証拠の中から都合の良いものを選ぶという気づかれにくいやり方をとおして、私たちの信念に影響を及ぼしているのである(P131)。

人づての情報において、伝えられやすいことと伝えられにくいこととがあるというこうした非対称性のために、噂には聞いていても実際にあったことのない人物の印象は、その行動だけで作り上げられ、その行動がどんな状況でなされたものかはあまり考慮されないことになる。そこで、そうした人物の行動は、個人的な意向がそのまま反映されたものとなりやすく、そうした行動がなされた場面に直接居合わせた場合に受ける印象よりも、程度の激しいものとなりやすいのである(P151)。

自分の親戚の勤め先の誰かに起こったできごとは、自分の親戚に起こったこととして話される。話をこのように変えることは、話し手が自分を偉くみせたい一種の「見栄」からも生じてくる。こうすることにより、話し手自身が、より中心的な役割に近づくからである(P154)。

意志決定理論の研究者は、これら二つの情報源を統合して、総合的な判断ができるような形式的手続きを開発してきた。しかしながら、母比率の情報が不正確なものであるとしたら、そういった手続きをとってお意味がない。個人的な経験からの情報と、背景となる統計的な情報とが一致する場合には、問題なく、自分の理解が正しいことが確信できる。ところが、両者が一致しない場合にする判断は、特に誤ったものとなりやすいことに留意しなければならない。私たちは、自分の個人的経験が母比率と食い違っているときには、個人的経験を少しばかり疑ってみることを学ぶ必要がある。同時に、そうした母比率が不確かな情報源からの人づてのものである場合には、そうした母比率もまた疑ってかかるべきである。つまり、こうした二つの重要ではあるが不完全な情報源に不一致があるときには、自分の判断や信念を過信しないように注意すべきである。多様な情報源を統合して判断しようとする際、ときに、私たちが頼れるものは、この認識論的な教訓だけである。自分がよく知っていることと自分が真実であると思っているだけのこととの区別ができるだけでも重要な進歩であるから、この教訓だけでもかなり役に立つはずである。第1章の冒頭に引用したように、「問題なのは、われわれが無知であることではなく、間違った知識を持っているということなのである。」というわけである(P179)。

私たちは、自分の信じる考えに反するような情報を遠ざけることが多いため、自己の信念を支持する議論や証拠ばかりを偏って取り入れている。その結果、こうした偏りのない情報に接していた場合よりも、自己の信念がより支持されているように感じられ、そこから、一般に広く認められているように感じてしまうのである(P190)。

多くの人々が誤解しているようであるが、最近200年間に、人々がより健康になり寿命が伸びたことの主たる原因は、病気にかかった人に対する薬や手術による治療が進んだことではない。下水道が整備されたり、水道水が浄化されたり、牛乳の低温減菌法が進んだり、食生活が全般に向上したことこそが、人々の健康や長寿の一番の大きな要因だったのである(中略)。最近百年間で、成人期に達した人の平均余命はほとんど変化していない。19世紀における45歳の人の平均余命はだいたい70歳前後であったが、今日においても、この数字はあまり変わっていないのである(P231)。

セルフ・ハンディキャッピングに関して、いくつかの興味深い疑問が生じてくる。真のセルフ・ハンディキャッピングのような方略が使われるとすると、いったい他人にどう思われたいと思っているのか不思議に思えてくる。まがりなりにも人並以上の能力を発揮して、標準以上の人物と評価されるよりも、有能だが酔っぱらっていてダメなやつと評価される方が本当に良いのだろうか?勉強しないで学生時代を無為に過ごしても、「勉強しない割にはできるやつ」と評価される方が良いのだろうか?(P248)。

(前略)人は否定的な反応を直接に表に出すことをしたがらないため、ある対人方略がどれほど有効であったかは、ほとんど知りようがない(P255)。

第一に、成功は、まったく別の因果関係連鎖の結果である場合がある。ある企てのせいで、というよりも、ある企てにもかかわらず成功がもたらされる場合がある。第二に、失敗の原因が、因果の連鎖の別の部分にある可能性があるとしても、それが失敗の原因であるということにはならない。私たちは、失敗の原因をこうして自分以外のところに求めようとし過ぎる傾向がある(P260)。

科学においては、ある現象が真のものであると認められるためには、いくつかの実験室において同じ現象が再現できることが要求されるのである(P282)。

超能力肯定派が、種々の現象をまがりなりにも超能力という統一されたもので説明できているのに対して、否定派は、いろいろな説明をつぎはぎしたり、現象そのものを否定して、特別な説明をしなかったり、とスッキリとしたきれいな説明にはならないのである。
(中略)ここで注目すべきことは、一般の人々を満足させるような統一的な理論が提示できないということによって、いつのまにか超能力の存在を証明するという役目が、本来そうした責任がないはずの否定派の方に移ってきてしまっていることである。存在証明の責務があるのは否定派ではなく、その存在を主張する側であることは、論理学者や哲学者の実質的に一致した見解である。しかしながら、超能力に関する討論では、この立場が逆転してしまうのである。多種多様な超自然的にみえる現象の暗黙の統一的な原因として超能力が想定されてしまっているために、否定派はしばしば「超能力でないとすれば、いったい何で説明するのだ」という詰問を受けることになってしまう(P307)。

人々は常に、ものごとの白黒がはっきりしていることを好み、考えを過度に単純化しようとし、自分の信念に過剰な自信を持ちたがるものである。また、人は自分の周囲で起こるすべてのことがらが制御可能なものであと考えがちである。同様に、まったくのランダムなデータの中に一定の構造や関連性を見つける傾向も、人間の認知機構に深く組み込まれたものであり、とうてい解消される見込みはない。起こらなかったことよりも起こったことばかりに注意が向いてしまう傾向や、比較対照すべき別の状況を考慮せずに現在の状況で起こったことがらから結論を引き出してしまう傾向も、同様に、人々の心に深く染み込んでいるもののようである(P315)。

誤信を防ぐために身につけるべき習慣の中で、おそらく最も一般的で重要なものは、不完全で偏りのあるデータの誤解釈に留意することであろう(P316)。

私たちが現在知っていることの多くは、数年後にはそうでなくなってしまうものである。そこで、本当に大事なことは、個々の誤信を払いのけることではなく(もちろん、そうすること自身にもある程度の利点もあるが)、誤信がいかに形成されてしまうかについての理解を深めることである。複雑な世の中で私たち人間が経験することの複雑さを真に理解するためには、日常経験の中でうわべの事実に私たちがいかに惑わされやすいかを認識しておくことが何よりも大切である。そのためには、さらに、自分自身の経験したことを正しく評価し、自分自身のもつ仮定を問い直し、自分自身が知っていると考えていることを疑ってみることが必要なのである(P327)。