塩の辛さ、砂糖の甘さは学問では理解できない だが、なめてみればすぐ分かる。

タイトルは、松下幸之助さんの名言より抜粋(でも出典は不明なのです…、しかもタイトルと本文はちょっと関係あります)。

敬愛する小田和正先生なら「伝えたい事があるんだ」と書き始めるところですが
あいにく今日はあんまり考えずに行動だけしていた一日なので特に伝えたい事はありません…

というのもアレなので、気になったことをば。

進地 崇裕
ブログを書こうと思うのだけど、ネタが浮かばない。というか、Twitterでいいじゃんとか思ってしまう。長文を書く理由が浮かばないのよね。

twitterより

なぜ心に強くひっかかったというと、自分も同じ傾向にあるなぁということを考えていたからです
(さすが、彼とは無駄に時間を共有していただけあります)。

そんな訳で、なぜ心に引っかかったのか、
またなぜ自分もそのようになってきたのかをムムムと考えてみました。

話を分かりやすくするために、時系列順に場合分け。
「1.インプット」があって、「2.思考」があって「3.アウトプット」があると仮定します。
つまり、「ある風景を見て」→「綺麗だなぁ、誰かに伝えないなぁ」と思い→
「この世のものとは思えない素晴らしく美しい風景に出会ったよ」と表現する、となるはずです。

まず、インプット。
ここはそんなには変わらないのかなと思います。
単純に何も思いつかなかっただけ。

次に、思考。
思ったのはtwiiter用に140字に収まるようにする癖が
そのまま思考に影響しているのかもしれないと考えました。
つまり、論理数を減らすために(AならばB)みたいになっているのかなぁと。
一次方程式みたいな論理ばかりになってしまっているので、深く考え(られ)なくなったのかも。
もしくは、深く考える体力がなくなってきたのかもしれません(加齢で

で、一番の肝はやはりアウトプットの表現力。
近年この力の衰えを痛感していて、その手の本を読んだり、読書会に出たり
自分なりに熟考しているのですが語彙の貧弱さも含め、人に「的確に」伝えることがほとんでできません。
「正しく伝えよう」と思えば思うほど、このように無駄な文章が増え
却って遠回りしてしまうことが本当に多いです。

加えて、「思考」と「アウトプット」の間に横たわる大いなる罠、それは
近年ブロードバンド化が進み、文字データ(テキスト)だけでなく
画像や音声、映像を簡単に使えるようになったことだと思います。

今までは風景について文章で表現しなければならなかったことが
写真一枚で簡単に、しかも正しく伝えられるようになってしまったからです。
つまり「文字で書いて伝えるよりも、写真を一枚添付したほうが楽だ」とか
「他のサイトにリンクを張っておけばいいや」とか思うようになるのです(いや、思ってます

というわけで、それぞれの要因が相まって
「長い文章で表現することが」面倒になっているのかなぁと思いました。

ちなみに、現状ではネットを通じても絶対に表現できないことがいくつかあると思います。
例えば、食べ物の味や花の香り、触感などです。
そこで、ちょっぴり「他人に伝えるトレーニング」をしようかなと思ったときに
これらのことを考えてみると、代替できる手段がなくてとても効果的でした。
例えばラーメン食べて美味しかった、ではなくどのように美味しかったかを考える、伝えることは
個人的に非常に勉強になりました。

そんなわけでまとまりの無いまま文章を終わらせるのが自分のスタイルなのでこの辺りで。

本日の妻との対話
お題「栄養ドリンクといえば?」
俺「リボD」
妻「ユンケル」