『ヒトはなぜ戦争をするのか?アインシュタインとフロイトの往復書簡』

ヒトはなぜ戦争をするのか?―アインシュタインとフロイトの往復書簡
花風社
アルバート アインシュタイン
ジグムント フロイト
浅見 昇吾
養老 孟司

読後の感想
アインシュタインとフロイトの往復書簡。
しかも、内容は「戦争はなぜ起こるのか」というもの。
二人の名前と内容を聞くだけで、心が踊るような、そんな気持ちになってしまいました。

内容については読んでもらえば、ということでおいておくとして(薄いのですぐ読めます)、一番気になったのは、なぜこのような本が今まで世に出てこなかったのか、というところでした。
勘のいい人ならすぐに分かると思うのですが、二人ともユダヤ人の血統を持ち、
そして第一次、二次世界大戦の時代に生きています。
この往復書簡が交わされたのは、ちょうど二つの世界大戦の狭間の時代でした。

想像するに難くないのが、「なぜ戦争をするのか」というタイトルの本を書いている途中に戦争が起こってしまい、しかも迫害される側のユダヤ人の書いたものということで
うやむやになってしまっていたのではないでしょうか。
その意味では悲劇の書とも言えるかと思います。

それにしても、二人ともあの迫害を生き延びてきただけあり、先見の明は流石です。
ただ、解説で養老孟司先生も書いていますが、二人の温度差があるのは、詮索を避けるためにわざとなのか、知らずにそうなってしまったのか、は非常に気になるところでした。(本当のところは知る由も有りませんが)。

印象的なくだり
私は平和主義者である。だが、ただの平和主義者ではない。
戦闘的平和主義者である。自分が納得できないことのために戦争に赴いて死ぬより、
自分の信ずるところにしたがって死ぬほうがよい(アルバート・アインシュタイン)
(P007)。

国際的な平和を実現しようとすれば、各国が主権の一部を完全に放棄し、
自らの活動に一定の枠をはめなければならない(P014)。

なぜ少数の人たちが夥しい数の国民を動かし、自分たちの欲望の道具にすることができるのか?
戦争が起きれば一般の国民は苦しむだけなのに、なぜ少数の人間の欲望に手を貸すような真似をするのか?
(中略)
即座に思い浮かぶ答えはこうでしょう。少数の権力者たちが学校やマスコミ、そして宗教的な組織すら手中に収め、
その力を駆使することで大多数の国民の心を思うがままに操っている!
しかし、こう答えたことろで、すべてが明らかになるわけではありません。すぐ新たな問題が突きつけられます。
国民の多くが学校やマスコミの手で煽り立てられ、自分の身を犠牲にしていく-このようなことがどうして起こりうるのだろうか?
答えは一つしか考えられません。人間には本能的な欲求が潜んでいる。
憎悪に駆られ、相手を絶滅させようとする欲求が!(P017)。

ここまではアルバート・アインシュタイン。
ここからはジグムント・フロイト。

(前略)逆説的に聞こえるかもしれませんが、こう認めねばならないことになります。
人々が焦がれてやまない「永遠の平和」を達成するのに、戦争は決して不適切な手段ではないだろう、と。
戦争は大きな単位の社会を生み出し、強大な中央集権的な権力を作り上げることができるのです。
中央集権的な権力で暴力を管理させ、そのことで新たな戦争を二度と引き起こさないようにできるのです(P036)。

ともあれ、貴方もご指摘の通り、人間の攻撃性を完全に取り除くことが問題なのではありません。
人間の攻撃性を戦争という形で発揮させなければよいのです。戦争とは別のはけ口を見つけてやればよいのです(P050)。

私たち(平和主義者)はなぜ戦争に強い憤りを覚えるのか?
貴方も私も、そして多くの人間が人生の数多くの苦難を甘んじて受け入れているのに、
戦争だけは受け入れようとしないのはなぜなのか?-これがその問題です。
不思議ではないでしょうか。戦争は自然世界の掟に即しており、生物学的なレベルでは健全なものと言え、現実には避けがたいものなのですから!
どうか私の問いかけに驚かないで下さい。
何かを理論的に考察するためには、(現実の生活は違い)物事を高みから眺めるような超然とした態度をとることも
必要でしょう。
私の問いに対してすぐ思い浮かぶ答えは、次のようなものでしょう。
なぜなら、どのような人間でも自分の生命を守る権利を持っているから。
なぜなら、戦争は一人の人間の希望に満ちた人生を打ち砕くから。
なぜなら、戦争は人間の尊厳を失わせるから。
なぜなら、戦争は望んでもいない人の手を血で汚すから。
なぜなら、人間が苦労して築き上げてきた貴重なもの、貴重な成果を台無しにするから。
それだけではありません。
(中略)
私たちが戦争に憤りを覚えるのはなぜか。
私の考えるところでは、その主たる理由はこうです。
私たち平和主義者は体と心の奥底から戦争への憤りを覚えるからです。
心と体が反対せざるを得ないのです。
そうした平和主義者の立場を正当化するのは難しくないように思われます(P055)。

文化が発展していけば、肉体レベルでの変化が引き起こされると思われるのです。
文化の発展がそうした肉体レベル、有機体レベルでの変化を生じさせるだろうことに
ほとんどの人は気づいていないようですが…(P056)。

ギザのピラミッドは、大きいのから小さいのまで、三つあるという。
親、子、孫にあたる王様が造ったというが、いちばん小さいピラミッドになると、内部に文字が書かれるようになる。
土建は金と人手がかかり、環境破壊を起こす。
孫の代にはそれをやめて、同じ記念碑なら、文字に切り替えたのであろう。
つまりよりヴァーチャルになった。それを私は進歩と呼ぶ(P082)。

LA Casa Azul

すこし前から我が家でヘビロテでかかってます。

LA Casa Azul
スペインのバンドですが、超ベタなpopチューンで、
フリッパーズ・ギターやカジヒデキ、初期のPIZZICATO FIVE、
フレンチポップがお好きなN姉さんは是非どうぞ。
出典は不明ですが、スペインの渋谷系と言われているらしく(え?)
PVにパラパラが混じっているなど意識している節は伺えます。

それにしてもスペインでは相当有名なのか
youtubeの曲数がかなり多くてびっくりしてます。
韓国のDHCのCMとタイアップなど意味不明な活動の
広さも魅力的です。

La revoLuciON sexuaL

PVがまんまパラパラじゃないか!
「これは高級品です」w

El Sol No Brillara Nunca Mas

どちらかというとスウェディッシュ・ポップ。
他の曲が途中転調したり一筋縄でいかないのに対して
この曲は最初から最後まで一直線です。
PVが楽しそう!

La nueva Yma Sumac

イントロから8bitポップチューン。
YMCKの影響でも受けているのか!と。
カジヒデキをギャグにした感じです(いい意味で)。
日本ではエイプリルズがカバーしてます(実はオリジナルかと思ってた)

Aunque parezca lo mejor

どことなくコミックバンドやイカ天バンド風味が漂う名曲。
サビからの転調、最後はパヤパヤになるところなど
教科書的に名曲です。

それにつけても歌詞がまったく分からん。
妹(本物)に聞いてみよう。

くせっ毛

くせっ毛

先日細君に指摘されて初めて気づきましたが、33歳を過ぎて前髪が少しウェーブしてきました。
いわゆるくせっ毛というヤツです。
最近は伸びてきたせいもあるのか、クルンと上向きになりつつあります。
(雰囲気としては『少年アシベ』のアシベみたいな感じ)

両親はくせっ毛ではありませんので後天的なものでしょう。
それにしても今までは割と素直な髪質(と性格w)だったのに
いきなりなぜ変わってしまったのでしょう。
少し検索してみました。

くせ毛の原因は、遺伝子の問題、食事や生活習慣等、いろいろな経緯があるといわれますが、
一番多いクセ毛になってしまう原因は、遺伝によるもの。
両親のどちらかがクセ毛の方や、両親のどちらともくせ毛である場合
かなり高い確率でクセ毛になる傾向にあるようです。
特に女性の場合、思春期の頃までに大きな影響を受けやすいようです。
人間の体の成長は20歳位まで続くといわれています。
毛髪の場合は、だいたい15歳前後まで変化するといわれています。
また、思春期にその影響が大きく見られるようです。

遺伝ではなく、後天的な理由として代表的なものが、ストレスです。
ストレスにより、毛穴を締め付け変形させ、血管、神経まで変形させてしまいます。
毛穴が変形してしまうことで、縮毛や薄毛、細毛、抜け毛になってしまいます。
ストレスをためないことにすることもくせ毛の解決のひとつでもあります。
実はこのストレスによって、アドレナリン作用がでてしまい、
皮脂過多症になり自律神経の疲労も極限に達してしまいます。
髪に悩みをもっている方に、ストレスの多い職場での勤務や、高校や大学の受験生、
なれない育児でイライラしている母親などの薄毛傾向があります。

髪の毛の伸びるスピードは1cm/月、程度なので
どうやら半年くらい前に過度にストレスがかかっていたのかなぁと推測してます。
思い起こせば「ああ、確かに」なんてこともw

そんなわけでクルンと上向きな前髪を見つつ、書いてみました。

『「朝4時起き」で、すべてがうまく回りだす!』

池田 千恵
マガジンハウス

読後の感想
シゴタノ!
朝早く起きることを、目的とするのではなく手段として、何を目的とするべきかという点に主眼を置いて書かれた本でした。
あくまでも手段なので、いわゆるノウハウ的なものは必要最小限度にとどめ置かれており、いかにして早起きをしようと思った決意を固めるかが中心的に書かれています。
本書での一番大きなポイントは、著者が実際に行っており、その効果を十二分に享受しているから、読んだほうも決意がぶれにくい点にあるといえるでしょう。その意味ではこの人でないと意味がないとも思えました。
どちらかというと自己啓発本に近い印象を受けました。

ちなみに204ページに紹介されていたものは結構自分も使っているものもかぶっていたので、嬉しいような気恥ずかしいような(笑

印象的なくだり
ラクして得た知識は、その同じ環境下でしか応用が利きません。
つまり、状況が変わると再現できないのです。
しかし、努力して得たものなら、たとえそのノウハウが使い物にならなくなってしまっても、もう一度努力と工夫で新しいノウハウを得ることができます(P012)。

自分との約束を守る。それが自分の自信につながっていくのです(P037)。

朝の電車で寝てもOKだが、帰りの電車では寝ない(P056)。

朝の時間を活用するメリットは3つあります。
1.クリアな頭で、急ぎではないけれど重要なことをじっくり考えられる。
2.段取りをじっくり考えることができるので、仕事が早く終わり、プライベートの時間が多く取れる。
3.睡眠時間を確保するために早く寝ようと、逆算してものを考えることができ、効率がアップする(P098)。

マニュアルには、細部にわたって、「なぜこうするのか」という理由がありました。
そのルールを、どんな例外もなく、まずは徹底します。
決して気分によってそのルールを変えたりしないようにするのです(P122)。

「こういうときはこうする、というルールをきちんと作っておかないと、
何かあったときに判断に迷って余計な時間を取られてしまう」(P123)。

朝の時間で自分の過去の質問内容を振り返ると、失敗だと感じる質問には2つのタイプがあることに気づきました。
一つは、「質問のための質問」。つまり「だからどうした?」「それを聞いて何になる?」
「調べればわかるだろう?」というものです。相手の時間を無駄に費やしてしまう上、自分もその答えを聞いても何にも動けない、無駄な質問です。
もう一つは、「対話になっていない質問」。つまり、相手の事情や状況を無視して自分が伝えたいことだけを言いきってしまう質問です。
これは、結局「自分はこうしたい!」と主張しているだけで、相手の質問の答えによって建設的な何かが生まれるといったことがありません
(P128)。

情報漏洩の防止のために、横からのぞかれても見られないようにするPC用のモニター保護シートは必須アイテムになっています。
(中略)
コクヨの「のぞき見防止セキュリティフィルター」というものです(P193)。

電車が時間どおりに動かなかったからと、堂々と遅刻して出社する人がいますが、それはタイムマネジメントがなっていな い証拠。電車がちょっと遅れたくらいで遅刻する。そもそも、そんな電車に乗るという選択をしたことがすでに失敗です。外からの要因で朝イチの予定を狂わせ るのは恥ずかしいので、今すぐやめましょう(P212)。

『イリュージョン―悩める救世主の不思議な体験』

イリュージョン―悩める救世主の不思議な体験
リチャード バック
集英社

読後の感想
一言でいうとまさにイリュージョン。
もやもやした読後感が残る不思議な小説です。
ジャンルとしてはサンテックスの「星の王子様」に似ているのだけど、あの本ほどファンタジー感はありませんでした。
たまに出てくる「ガソリン」や「3ドル」なんて単語が現実に引き戻しているのでしょうか。
それでいて肝心なところがぼやけているので、何かひっかかりを感じながら読み進めていきました。
本来はこの本から受ける教訓ではなく、この本を読んで「どう思うか」が重要なのであって
実はこの本は触媒にしか過ぎないはずなのですが、本の内容が奇抜すぎて、どちらかというと本に引き込まれる印象でした。

ところで、この本には宗教的なバックグランドがないと分かりづらいところがいくつかあります。
著者が想定している読者層であれば当然分かっているはずなのですが
やはりそこらへんは、訳者の力量、といったところでしょうか。本書は非常に分かりやすかったです。

ところどころ説教臭くなりつつも、それでいて全体を通してのユーモアは、「夢をかなえるゾウ」みたいな印象を受けました。
なんだかんだ書きましたが、子供や細君にも読ませてあげたい本です。

印象的なくだり

(前略)書くことなんて、すこしも楽しくはない。考えることに背を向けて、無知の側にいられるとしたら、そして、考えるドアをあけずにいられるとしたら、ぼくは鉛筆を手にとることさえしないだろう(P008)。

「どこにあった言葉でも、僕が引用するのは真実さ」(P050)。

学習はすでに知っていることの発見である。
行為は、知っていることの実践である(P058)。

責任を回避するいちばん良い方法は、「責任は果たしている」と言うことである(P060)。

そう言ったときの彼はひどく孤独に見えた。生きていながら、これほど孤独な男は見たことがなかった。彼には、食べものも、住まいも、金も、名声も必要なかった。彼はただ自分の知っていることを話したいだけだったのだ。ところが、誰ひとりその話を聞こうとしてくれなかった(P094)。