祖父母の家でじゃがいもを掘ってきました。
ムスメは昨年のさつまいも掘りに引き続き
二年連続二回目の広義の意味での芋掘りです。
自宅から長靴を履いていくなど
やる気の程が伺えます。
じゃがいもを掘り進むムスメ。
気分はさながらミスタードリラーのホリ・ススムくん(違う
四歳児の顔が小さいのか、はたまたジャガイモが大きいのか
非常に判断に困る写真。
採りたてなので、手で触るだけで皮が向ける新鮮さ。
ただ蒸かしてバターと粗塩で召し上がりました。
美味でございました。
どっとはらい
旅する読書家、ふくだしげたかのログ。旅の記録と、読書の記録、あとはおまけです。
新しい組織の中で働くと、時折このルールはなぜ発生したんだろう?
と思うことがしばしばあります。
もちろん何かのルールが成立するにはある意味合理的な理由があり
きっとその過程において必要だったのであろうとと推測される訳です。
ただ、現時点でもその理由が合理的かどうかは別問題なので
最近は、理由をもう一度よく考えたりしています。
こんな時によく思い出すのが、黒ひげ危機一発(「髪」ではない)ゲームのことです。
(樽の中に剣を指し、海賊が飛び出るまで指し続けるという残酷な遊びです)
実はタカラトミーから発売された当初のルールは
海賊が飛び出ると「勝ち!」というものでした。
ところがクイズ番組「クイズ!ドレミファドン!」で
小道具として使われると、なぜか海賊が飛び出ると「負け!」という
ルールが世間一般で広まってしましました。
そこで、タカラトミーがやったことはというと
「取扱説明書の記載を、海賊が飛び出ると「負け!」に変えた」というもの。
ただ単に「勝ち」を「負け」に変えただけでゲーム性としては
大して変わらないじゃん、と評価することもできるとは思う人もいるかもしれません。
しかし、一度決めたことを変えるのは、最初に決めるよりもより大きなエネルギーを
必要する訳で、個人的には「すごいこと」だなぁと思うのです
(あくまで個人的にはです)。
そんなことを考えた週末でした。
どっとはらい。
宅地建物取引業法の一部を改正する法律案が衆議院で可決され
まぁおそらく参議院でも可決されるので(されなくても衆議院の優越で)
どうやら本決まりの様子です。
今回の改正案の肝は
1.宅地建物取引主任者から宅地建物取引士への名称変更
2.欠格事由に暴力団排除規定
3.倫理規定追加(他の士業なら大抵ある当たり前の規定)
というところでしょうか。
何年も前から全宅や全日(業界団体)の記事では
そろそろなるかも、と報じられていたので
関係者の陳情と圧力の賜物といえるでしょうね、頑張った。
既存の資格者については
講習を受けて、宅地建物取引士としての登録をし直す事になるでしょうが
僕の免許は東京都にあるので、東京まで変えに行かないといけないデス。
(石原慎太郎が都知事時代の免許)
これを受けて合格率が5%程度のなるかも、という報道もあるらしいのですが
そんなことは法律が通ってから心配すればいいので
お勉強している人はどういう難易度になろうとも
「今年合格する気で勉強しなさい」ということです。
理 由
宅地建物取引業の業務の適正な実施を確保するため、宅地建物取引主任者という名称を宅地建物取引士という名称に変更するとともに、宅地建物取引士の業務処理の原則、従業者への必要な教育を行うよう努める宅地建物取引業者の義務、宅地建物取引業の免許及び宅地建物取引士の登録に係る欠格事由として暴力団員等であることの追加等について定める必要がある。これが、この法律案を提出する理由である。
お暇な方は衆議院のサイトでも御覧くださいな、と。
おそらく大半の方は見たこともないであろう衆議院のサイト。
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g18601026.htm
タイトルは、東日本大震災に被災した友人が言った言葉。
ちょうと友人にも我が家と同じくらいのムスメがおり
非常に実感がこもった台詞に考えさせられました。
大抵の親はおそらく、子供には苦労をさせたくないと
思いつつも、たくましく育って欲しいと
難しいことを期待するのはなぜなんでしょうね。
努めて汚いトイレを探しに行くのはちょっと
難しい気もしますが、そういったところでも行きていける
強さも身につけてほしいものです。
「わんぱくでもいい、たくましく育って欲しい」
よく考えたらあのCM、ハムとあんまり関係ないですよね。
タイトルは、インディオ(インディアス先住民)問題をめぐる討論もしくは論争のこと。
定義がぶれているのにも気づかず(気づいているかも
そのまま運用して結果失敗したら
運用のせいにするんだもんなぁ(望遠
定義がぶれている例で思い出すのは
アマゾンに住む原住民たちの「ポルトガル人」という言葉。
植民地時代の名残か、原住民たちは
「外部からくる侵入者」は
相手の国籍を問わず全て
「ポルトガル人」と定義して呼んでいました。
というわけで、日本人取材者が通訳と一緒に
取材に行った時、全く無関係の会話の中に
「ポルトガル人」という言葉がしばしば登場し
通訳が混乱して、うまく進まなかったという話を思い出します。
よくよくポルトガル人という言葉を再定義してみると
森林を違法伐採してる連中のことを「ポルトガル人」と
指して呼んでいたというだけだったりしますが
これも定義の共有が出来ておらず通訳(運用)が困ったとの一例でしょう。
お仕事が煮詰まっているので
こんなことを思う毎日なのです。
ちなみに下の本はスペイン人の聖職者が書いた告発文。
キリスト教の名の下に、アマゾンを荒らしまくった
同胞を告発した当時としては勇気ある本です。
この時代は、白人優位、それ以外は知性に劣るという
先天的奴隷説(自然奴隷説)が幅を利かせており
現代の感覚からすると人権侵害のオンパレードだったりします。
でも本を読むと分かるのですが、当時の感覚からすると普通なのです。
この本は常識というものがいかに相対的かを教えてくれます。
つまりいま自分が考えている常識だって、何百年後かに
否定される危険を内在的に孕んでいるということなのですな。
出典
インディアスの破壊についての簡潔な報告