『全貌ウィキリークス』
マルセル・ローゼンバッハ, ホルガー・シュタルク
早川書房
読後の感想
ウィキリークスほど日本と海外(特に英語圏)との評価が分かれるサイトは珍しいのではないだろうか?本を読むまでは日本でのイメージとしてはネットを利用して公電などをすっぱ抜くというややダーティなものだったが、本を読むと実際には内部通報が主でありクリーンなもので余りにもイメージと違っていて最初は非常に戸惑いました。
この本は創始者であり中心人物のジュリアン・アサンジのインタビューを元に作られており、その内面に迫ろうとして根気の要る取材を続けていたようです(ウィキリークスに友好的なドイツの週刊誌シュピーゲルの記者ということも幸いしたようですが、アサンジは好き嫌いがハッキリ分かれるタイプに見受けられるので取材は大変だったろう)。
ウィキリークスがこれほど注目を浴びるきっかけとなったコラテラル・マーダー事件。アメリカ軍のアパッチ(AH-64)から機銃掃射をし、さらに無抵抗の民間人も掃射。で、報告書には敵の戦闘行為に巻き込まれたもの、なんて書かれていたもので、非常に大きな影響がありました(見たい方は、Collateral Murderで検索すると見れますが、衝撃的です)。
ロイター通信も手に入れようとして手に入らなかったようですが、既存のメディアではなく、(当時は)単なるサイトが公開できることに権力側は本当に脅威に感じたようです。というのも権力とは、情報をコントロールする力が性質上備わっているので、このように情報を手に入れることができる存在は権力を脅かすものだからです。
この一件を読んで、「情報」って何だろう?と深く考えずにはいられませんでした。世の中には「知らなくてもよかった」ことも多くあり、それを「知らないまま」で居させるかどうかは「知っている」側が決めることに、いまだに何となく抵抗感があります(かといって、すべてを知らせる、のは正しいのかは判断がつかない)。
そんな訳で、隠したい情報を安全に暴露するという仕組みについてウィキリークスは非常に優れたものだとは思うのですが、残念ながらいまは休止中です。理由は本書の中で。
読み応えがあり、リアルタイムで状況を見ながらサクサク読める本でした。
印象的なくだり
「(前略)歴史的に見て、開いた政府がもっとも生き残れる形というのは、情報の公表と暴露の権利が保護されている形である。こうした保護が存在しないところでは、それを確立することが我々の使命となるだろう」
アサンジは、ウィキリークスは「世界最強の諜報機関、人民の諜報機関」になりうると豪語している(P024)。
米国は公式の場でウィキリークスを国家の敵、国家安全保障の驚異と位置づけた。中国、北朝鮮、ジンバブエ、ベトナム、タイといった国々は、すでにその前にインターネットの内部告発サイトは驚異であるとして、ウィキリークスへのアクセスを遮断している。米国も一部でこれに追従した。公務員はウィキリークスのIPアドレスへの接続を禁止され、由緒ある連邦議会図書館さえも、ホワイトハウスの指示によりウィキリークスへのアクセスを遮断した。米国は言論の自由にかんしては中国政府と似たような路線ととっているーこんなことをこれまで誰が想像しただろう?(P027)。
インターネットの時代ほどスパイ行為が簡単な時代はない。自分の良心の命ずるままひとりの公務員がウィキリークスに連絡し、秘密データの入ったファイルを送信すればいいのだから。インターネットの発達により、告発者の居場所はそれほど重要な意味をもたなくなった。むしろ重要なのは、どこにアクセスできるか、何にかんする情報を持っているかだ(P031)。
偶然、一枚の板に何本もの釘が打たれたとしよう。その釘が陰謀者だ。糸を釘から釘へと切れ目なく渡していくとしよう。それがコミュニケーションだ。コミュニケーションは釘のあいだを流れる。すべての陰謀者が互いに信用しているわけではなく、すべての陰謀者が互いに意志の疎通をはかっているわけではない。しかし彼らは間接的に互いにつながっている。陰謀者の間のすべての結びつきを切断することに成功したなら、陰謀はストップする、とアサンジは言う。問題は、それ以上糸を切断したらもう陰謀は成立しないというリミットに、どのくらいの糸を切断しなければならないかだ(P132)。
米国の法体系には「重要参考人」という役まわりがある。ある人物に対する進行中の捜査に重要な証言を行える目撃者は、その意思に反して拘束され尋問されうる(P194)。
体制側に身を転じ、秘密の公開に反対する立場に回るというジャーナリズムの反応は、特に次の二点と関係がある。ジュリアン・アサンジという人物の発言や行動が、ジャーナリストたちの反応を賛成派と反対派にはっきりと二分させてしまうような極端なものであること、そして、ウィキリークスが行った暴露の本質として、暴露された情報には、大方のジャーナリストたちが想定していなかった要素が含まれているということだ。
つまり、ウィキリークスが行っているような、現在の政治システムの根幹をなす部分への攻撃は、多くのジャーナリストが自分の仕事としては想定していなかったものなのだ。ジャーナリストが目指すのは改革であって革命ではない。だからこそ、ジャーナリズムの多くが、ウィキリークスが行った群の報告書の暴露や、ひいては外交文書の暴露に対し、後ろめたさを感じる。つまり、ジャーナリストたちにとっては、改革を目指していたはずなのに革命を目指す行為の手足になってしまった気がするわけだ。そもそも改革をめざしているのかどうかもわからないが(P355)。
各種の賞を受賞しているドイツ人の調査報道記者、ハンス・ライエンデッカーは、公開されないままの秘密があってもよいはずだと主張した。また、独ターゲスシュピーゲル紙の発行責任者、ゲルト・アッペンツェラーは、オリジナルの文書がひとつも公開されないうちから、この文書には「何も目新しいことはない」と書いた。文書を公開しても誰の役にも立たないどころか、多くの人に損害を与えるだろうと、彼は述べた。
公開される文書をまだ読んでもいないのに、そのような判断を下したということは、アッペンツェラーが何も知ろうとしないことを表している(P356)。
ウィキリークスの批判をする人たちは、文書公開は民主主義をおびやかすものだと主張している。だが、もしかすると、まったく逆なのではないだろうか?一部のメディアが政権と協力しあうのは危険だ。本来は互いを監視し合うことが役割のはずのメディアと政治という二つの軸が手を結ぶことになるという印象が強まれば、この相互監視という構造の効果や正当性への疑問が高まるだけだろう。一部のメディアが監視の役割を引き受けようとしないため、政治とメディアの協力関係によるチェック・アンド・バランスというシステムへの信頼も失われていく。機密文書の公開そのものよりも、ジャーナリズムの機能麻痺のほうが、民主主義を脅かすのかもしれない(P358)。