『最後の授業』

最後の授業
ランディ・パウシュ

読後の感想
単に感傷的な文章以外のもの書こうと、読んだ後に少し寝かせたのですが、やはり感傷的になりそうです。

著者は享年48歳、子供が三人と妻が一人、大学教授で、余命までいくばくもない中、もともと依頼を受けていた講義の内容を「The Last Lecture」とし、後世に残そうとします。

と、これだけ書いてしまうとなんともないように思えてしまいますが、この気持ちに至るまでの心情や迷いが描かれていて、子供を持つ親として、自分の身に置き換えて考えざるをえませんでした。

著者は、子供の頃に抱いた夢を実現する方法と、それにどうやってチャレンジしてきたか、その過程で彼の夢に関わった(協力してくれた)人たちがどのように接してくれたか、と講義形式で進めていきます。

実は、これは彼の人生を振り返る作業(いわゆる走馬灯)であり、この講義はその過程をなぞるように進行していきます。もちろん、彼はこの講義の準備をするために、彼の人生をゆっくり振り返り、そして感謝し、別れることを悲しんだことであろうと思われます。

なんと残酷な作業だろう、と考えの浅い僕は思いました。
ところが、彼は文章の中でこのように書いて、別の形で悲しみを表現しています。

彼ら(注:彼の三人の子供たち)が大きくなったときに父親がいないと思うと。僕は悲しくなる。ただし、シャワーを浴びながら泣いているときに、「あの子たちがあんなことをするのを見ることができない」「こんな姿を見ることはできない」と、いつも考えているわけではない。僕が失うものより、彼らが失うものを考えているのだ(P.228)。

これから死にゆく自分のことを思うよりも、残された子供のことを思う。
この文章を読んで自分の考えの浅さを恥じました。と同時に、このように考えられる人に少しでも近づいていきたいと思いました。

文章自体は平易で読みやすく、特に難解な話も出てきませんが、途中から読み進めるのがつらくなりました。それは、読み進めると著者の「死」がどんどん近づいていることに気がついたからです。

是非子供が大きくなったら読ませてあげたい一冊です。

印象的なくだり

僕が失う配られたカードを変えることはできない。
変えられるのは、そのカードでどのようにプレーするかだけだ(P.033)。

自分の知恵を伝えようとすると、相手は聞き流すことが多い。
でも第三者の知恵を伝えるときは、傲慢さが薄れ、受け入れてもらいやすくなる(P.041)。

素晴らしい考え。実際に使っています。

何かひどいことをしたのに、だれもあえて何も言おうとしないなら、事態は深刻だ。自分に対する批判は聞きたくないかもしれないが、批判する人はたいていの場合、あなたを愛しているからこそ、よくなってほしいと語りかけるのだ(P.056)。

僕はいつも、自分にない専門知識をもっている人を信頼している(P.104)。

つまるところ、教育者のいちばんの役割は、学生が内省する手助けをすることだ。人間が向上する唯一の方法は-グレアム監督が教えてくれたように-自分を評価する能力を伸ばせるかどうかだ。自分を正確に評価できなければ、よくなっているのか、悪くなっているのか、知りようもない(P.130)。

この言葉を聞いてから、他人に意見を求められたら率直に評価を伝えるようになりました。
実は内心では評価を欲しがっていることを知ったからです。

僕はいつも、格好いい人よりまじめな人を高く評価する。格好いいのは一時的だが、まじめさは長つづきする。
まじめさは、かなり過小評価されている。まじめさは本質から生まれるのに対し。格好よさは表面で自分を印象づけようとするものだ(P.155)。

素敵な考え。

幸運は、準備と機会がめぐりあったときに起こる-紀元前一世紀に生まれた古代ローマの哲学者、セネカの言葉。少なくともあと二〇〇〇年は語り継ぐ価値がある(P.170)。

経験とは、求めていたものを手に入れられなかったときに、手に入るものだ。そして経験は、君が提供できるなかで、たいていもっとも価値のあるものだ(P.173)。

お願いごとにはひと工夫を
大学教員の仕事として、論文の批評をとりまとめたことがある。論文を読むのは退屈で眠くなる。そこで僕はあることを思いついた。教授たちに論文の批評を依頼するとき、ガールスカウト・シン・ミンツのクッキーを一箱添えて送ったのだ。

「引き受けてくださってありがとうございます」と、僕は手紙に書いた。「同封のクッキーはお礼です。ただし、批評がすむまで食べないようにしてください」

これには教授たちの顔もほころんだ。電話をかけてしつこく催促する必要はなかった。教授たちの机にはクッキーの箱がある。それを見れば、自分は何をしなければいけないかわかった・

念押しのメールを送るときも簡単だ-「もうクッキーは食べましたか?」

クッキーはすばらしいコミュニケーションの道具になる。仕事をきちんと片づけたあとは、甘いごほうびにもなる(P.186)。

なんてチャーミングなお願い方法だろうか。
僕にとってのカントリーマアムである。

人はさまざまな理由で嘘をつく。たいていは、少ない努力で何かを得られそうに思えるからだ。でも、短期的な戦略の多くは、長期的には非効率だ。嘘をついた人の大半は、その場で切り抜けたと思っている。でも実際は、嘘をついても終わりではない(P.193)。

彼らが大きくなったときに父親がいないと思うと。僕は悲しくなる。ただし、シャワーを浴びながら泣いているときに、「あの子たちがあんなことをするのを見ることができない」「こんな姿を見ることはできない」と、いつも考えているわけではない。僕が失うものより、彼らが失うものを考えているのだ(P.228)。

僕が思う親の仕事とは、子供が人生を楽しめるように励まし、子供が自分の夢をおいかけるように駆り立てることだ。親にできる最善のことは、子供が自分なりに夢を実現する方法を見つけるために、助けてやることだ(P.235)。