『やりがいのある仕事』という幻想

『やりがいのある仕事』という幻想
森博嗣

読後の感想
森先生が、仕事の話を書くとこんな感じになるんだなぁと。
まぁ身も蓋もない話ばかりです(誉めてます
森先生の凄いところは自分の二人の子供が社会人になったあと、どんな仕事をしているか知らないし興味がないと言いきっているところです。
しかもどんな仕事をしているかは、どんな服を着ているかと同様にその人の本質的な部分ではない、というくだりには、本書のコンセプトを誤解して読んでいる人にとってはびっくりするでしょうね。

そんなわけで、初めて読んだ森先生のエッセイ集です。
軽いタッチと歯に衣着せる論理で、好きな人はたまらないでしょう。

たとえば

国を動かすとか、未来を築くとか、それは個人の力によるものではない。
そういう力を持っていると錯覚しているだけだ。
権力を握るのも、大きなお金を動かすのも、仕事上の立場、つまりルールの上に成り立つものであって、個人として特に偉いわけではない。
「俺が国を動かした」と言いたいのかもしれないが、せいぜい、「関わった」という程度のものにすぎない。
そんなことを言ったら、ほとんどの人が国を選挙を通じて動かしている(P.049)。

と言い放っているところとか

基本的に今の世の中は、自分がつき合いたくない人間とはつき合わなくても良い。
心構えでどうこうする問題ではないだろう。
心構えで解決できるレベルならば、その程度の「困った人」はどこにでもいて、全然珍しくない。
誰だって、そういう面を持っているから、たまたま相性が悪いということだってある。
(中略)
人間なんて、それくらい個人個人で違っているのだ。
みんなが同じタイプで、気持ちが通じ合って、仲良しになれる、と思っていたら大間違いで、それこそ狂っているといえる(P.172)。

のあたりは、身も蓋もない話で大変楽しく読むことができました。

ただ現在仕事に対して斜に構えている人は読んでいて楽しいのでしょうけど
これから仕事をしようとする方にとっては、これからの仕事が楽しくないものになってしまう気がしました。
一般的に社会人にとって仕事をしている時間が大部分なので、人生楽しくやろうと思ったら仕事も楽しまないとね。
(楽しい仕事を探すという意味ではない)

印象的なくだり

最近では、以前に比べればだが、私的情報を非公開にするのが当たり前になってきたし、尋ねられても答えなくてもよい場合が多くなった。
こういう社会では、しだいに職業というものの価値は下がっていくはずだ。
それでも、子供には、「仕事は大事だ」「仕事は大変なのだ」というふうに大人は語りたがる。これはもう、単に「大人は凄いぞ」と思わせたいだけのことで、大人のいやらしさだと断言しても良い(P.047)。

確かに昔は職業が先に来ていて、個人が後だったけど、個人の比重が重くなってくるにつれて職業の比重が下がってきていると感じています。
ただ「大人は凄いぞ」とまでは思いつかなかったなぁ。

「好きだから」という理由で仕事を選ぶと、それが嫌いになったときに困ったことになる。
人の心は、ずっと同じではない。
どんどん変わるものだ。
嫌いになったり、厭きたときに仕事を辞めてしまうのでは、効率が悪い。
「好き」で選ぶことは、そこが問題点といえる。
さらに大きな問題は、食べ物のように好きか嫌いかということが、仕事の場合は事前によくわからない、という点にあるだろう(P.065)。

これは採用面接しているときに強く感じました。
「好き」だなんて一時の感情だし、何が好きなのか、どこが好きなのかが聞きたいんだよ、と何度も心の中で思いました(実際に口に出したときもあったかと思います)。

人と話をすることが好きだ、という人は、自分が話すことが楽しいと感じている。
こういう人は、相手からは、よくしゃべる奴だと思われている場合が多い。
一方、自分は思っていることをなかなか話せないという人は、相手に対して、よく話を聞いてくれる信頼できる人という印象を与えやすい。
「人を騙すようなことはできない」という印象が、仕事ではプラスになる。
営業の仕事で最も大切なのは、信頼を得ることであって、調子良くしゃべることではないからだ(P.069)。

ドキッ

人生の選択というのは、どちらが正しい、どちらが間違いという解答はない。
同じことを同条件で繰り返すことができないからだ。
ああしておけば良かったとか、あれがいけなかったという反省をしても、それらはこれからの時間で別の形で取り返すしかない。
過去をやり直すことはできないのだ。
したがって、どちらが正しいでしょうか、という質問に対しては、どちらも正しいと思える人間になると良い、というのが多少は前向きな回答になる(P.146)。

論理的な回答をするとそうなる(しかし、少なくない人が納得しない顔をします)。

上司は、部下に気に入られるためにいるのではない。
部下も、上司に気に入られるために働いているのではない。
人から相談を受けて答えるとき、僕は、その人に好かれようとは思っていない(もちろん、相手を嫌っているわけでもない)。
ただ、できるだけ正しく内容が伝わるように、飾らず簡潔に言葉を選んで答えているつもりである(P.178)。

温かい言葉とか、温かい態度とか、そういうものがはっきりいって嫌いである。
面倒くさいと思う。
「ぬくもり」なんて言葉も胡散臭い。
そもそも「温かさ」というのは、人にかけるものではなくて、自分で感じるものだろう。
たとえば、子供が無邪気に遊んでいたり、犬が走り回っている様子を見ると、心が温まる。
しかし、子供も犬も、温かい態度を取っているわけではない。
見ている者が、自分で自分の心を温めるのだ。
したがって、僕が冷たいと感じる人は、自分の心が冷たいということに気づいただけである(P.216)。

森先生の論理には、なるべく主観を排して客観に重きをおくきらいがあると思いますが、このくだりはその最たるものだと思います。
みんな他者に原因を求めがちですが、そう感じるのは他でもない自分であろうと。

検索しても解決策はない
情報化社会において人は、自分の思うとおりにならないのは、なんらかの情報を自分が「知らない」せいだ、と解釈してしまう。
必死になってネットを検索するのも、また、友達の話や、たまたま耳にしたことを簡単に信じてしまうのも、「知る」ことで問題が解決できると信じているせいだ。
検索できるものは、過去に存在した情報だけだ。
知ることができるのも、既に存在している知見だけである。
しかし、自分の問題を解決する方法は、自分で考え、模索し、新たに編み出さなければならないものなのである(P.217)。

ググレと言う前に、ちょっと立ち止まろう。