『ヒトラー・ユーゲントの若者たち』

「ヒトラー・ユーゲントの若者たち」
S.C.バートレッティ著
林田康一訳

読後の感想

この本はアメリカ生まれの作家が、ヒトラー・ユーゲントに興味を持ち、国内にいる生き残った人々のヒアリング結果や、資料から時系列順に物語り風にリライトしたものです。

その時代に起こったことが客観的に書かれているのと同時に、当時の手紙の内容などから人々の主観的な部分が対比的に書かれていました。

例えば、学校で先生が教えてくれることと、家で親が教えてくれることがずれていて戸惑う子供たちの感情などです。

それにしても何度も思うのはナチスのもったいない精神です。

障害者は何も生み出さないのにお金がかかってもったいないから安楽死させよう、とか、虐殺するのに銃弾がもったいないからガス室を開発して効率よくしようとか、方向性さえ正しければすばらしい考えが実現できたかもしないと思うと、やるせない気持ちになります。

戦前のドイツやヒトラーに関するものは、昔から興味があって本を読んだり映像をみたりしていましたが、やはり色々なところでつながっていました。特に映画の「白バラの祈り」のハンス・ショルとゾフィー・ショルは本作品にたびたび登場する手紙の差出人です。

ムスメが大きくなったら読ませてあげたいと思います。

同じ事を繰り返させないためにも。

印象的なくだり

ヒトラー自身はできのよくない学生だったが、教育に対しては確固とした考えをもっていた。
ヒトラーにとって、教育の目的はただ一つ。それは、子どもや若者をりっぱなナチス的人間にすることだった。ナチスは政権につくとすぐに、効率学校を支配下におさめ、國民学校とした。
それまでの教科書は廃棄され、新しいものが提供された。カリキュラムも徹底的に変えられ、ナチスによって承認されたことだけが教えられるようになった(P.052)。

一九三八年の十一月九日から十日にかけての事件は、のちに「水晶の夜(クリスタルナハト)」として知られることとなる。
街路に散乱したガラスの破片が月明かりで水晶のようにきらめいていたところからつけられた名前だ。
この事件で中心的役割を果たしたのは突撃隊と親衛隊だが、ヒトラー・ユーゲントの多くの若者たちも。ユダヤ人と彼らの財産への襲撃に加わった。
さらに、多数の一般人も、自らの意志でそれに参加した。
「水晶の夜」という事件自体、とてもショッキングなものだったが、もっとショッキングだったのは、何十万人もの一般のドイツ人が、ユダヤ人の隣人たちが虐殺されたり、暴行されて軍のトラックで連れ去られたりするのを、何もせずに傍観していたことだ(P.073)。

「水晶の夜」はユダヤ人たちにおって「絶望の夜」だった。
混乱し、おびえた彼らは、目の前で起こっていることが信じられなかった。
こうした迫害は一時的なものであって、やがて事態はよくなるだろうと自らに言い聞かす者もいた。
彼らは、ヒトラーやナチスは短命な現象にちがいないと信じていた。
ドイツを脱出するときが来たと考えるものもいた。
「水晶の夜」のあと、およそ十一万八千人のユダヤ人―ドイツのユダヤ人全体の約二十五パーセント―が、自分たちを受け入れてくれる国へと移住した(P.076)。

綺麗な言葉と裏腹にとても残忍な事件で有名です。
いち早く気付いたのは25パーセントだけだったのですね。

一九四一年、ナチスはユダヤ人の移住に対して決定的な一撃を加えた。
十八歳から四十五歳までのユダヤ人の移住を禁じたのだ。
彼らは、健康で丈夫なユダヤ人を工場で奴隷労働者として使い、それ以外のユダヤ人を強制収容所へ送ることにしたのだ(P.079)。

一九四一年の夏、安楽死計画が始まって二年近く経ったころ、新しい質問表がつくられた。今度は、高齢者についての質問表で、各家庭で実施するものだった。多くのドイツ人が衝撃を受けた。次の安楽死の標的は、自分の両親や祖父母になるかもしれないと思ったからだ。
単に年を取ったというだけで、高齢者は「不適格」で「無駄飯食らい」だと見なされてしまうのか・・・・・・(P.131)。

何百万人もの犠牲者を出した計画的殺人について、一般のドイツ国民が何も知らなかったなどということが、ありうるだろうか。
ホロコーストを生きのびたイタリア人作家プリーモ・レーヴィは、それを「故意の無知」と呼んでいる。彼は言う。
「ヨーロッパの真ん中で、だれにも知られることなく何百万人もの人々を虐殺するなどということが、どうしてできるだろうか」
はっきりしていることが一つある。ドイツ国内、そしてドイツに占領された地域において、状況は急激に悪化していった。
一九四一年には、ユダヤ人を集めて家畜運搬車に積みこむということ自体、日常的なことになっていた。つまり、ドイツの人々は、ユダヤ人やユダヤ人の家族に何が起こっているのかを、自分の目で見ていたのである(P.139)。

クルト・マイヤーは部下の少年たちを誇りに思った。
「わたしは若い手榴弾兵一人一人をよく知っている。いちばん年長の者でも、十八歳になるかならないかだった。彼らは、まだどう生きるべきかを学んではいなかったが、どう死ぬべきかは知っていた!」(P.184)。