もう一刻の猶予もないので、自宅で激しくお勉強していると訪問客あり。
曰く「こんにちわ~」と名乗らず。
どちらさまですか?と尋ねるもモゴモゴしてたので、「あの?聞こえないのですが?」と強いて、ようやく返答あり。
重ねて曰く「○×(某新興宗教←特に秘す)のものです」。
以前、この団体の方の訪問を受けていたので、いわゆる「起こし(新聞勧誘用語で「過去に新聞を購読していて、現在は購読していない人と契約してくる事」の意)」なのかな、と思いしぶしぶ出る。
以前、Mさんという方がいらっしゃって、そのときにきっぱりお断りしたのですが、としょっぱなから必殺技を繰り出すも、どうやら情報の共有はなされていないらしく、「あぁ、そうなんですか」と華麗にスルー。
以前勧誘を受けたこと、webサイトなどを見て教義についてはおおむね理解していること、かつ、同意していないこと、自分自身の信仰についての考え方のこと、などを数分お話して、お引取り願おうと思い、お話しする。
と、ここまで話してから、向こうの発した言葉はちょっと想像できないものでした。
「まぁ、それはともかく、一度○×(某新興宗教でいうお祈りみたいなもの)を受けてみませんか?お疲れのようですし」。
ここまで清々しい回答だと却って潔し。
自分が考えて数分話したことが「まぁ、それはともかく」の一言で流されるあたり、相当な精神力の持ち主ですな。もしくは、「さては俺の話を聞いてなかったな?」とうっかり邪推してしまいます。
これ以上話しても費用対効果の問題で余りいい結果はないなと思い、自分は「お寒い中ご苦労様です。わざわざご足労いただいて申し訳ありませんが、お引き取りください」と述べて、会話を打ち切りました。
対話って「相手を認めること」から始まるんだよなぁ、としみじみ思ったわけであります。
怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 (
身近な人間の無神経な行動、理不尽、権力者の傲慢からPCの不具合まで、ありとあらゆることに「怒り」の炎を燃やし自らの体を傷つけていた私は、これまでにかなり硬いセルフコントロール実践の本や、怪しげな民間療法的なものまで試してみましたが、読んだはなから、踏み切りがなかなか開かないことにイライラしているよ