佐世保の話。
読売新聞夕刊に考えさせられる文章があった、ので引用。
<引用>
今回の事件は暴力団が違法に所持する銃ではなく、合法的に所持を認められた一般人の散弾銃で引き起こされた。警察は事件後に自殺した男への許可を「適正」だったとする。
が、男の近隣住民が彼の銃砲所持に不安を訴えたこともある。結果として適正でなかった許可の現実は見直したほうがいい。許可後の銃の使用、保管のチェック、欠格事由や取り消し基準は厳格にと望む。
引用>
さらっと読んだ印象は、もっともなことを書いているようだけど、論旨がぶれている。
まず、許可が適正だったかどうか、について。
警察の「適正」の判断は、申請時を基準としての評価に対し、新聞の「適正」の判断は事件後を基準としている。
事件後を基準とするならば、どんな判断も「適正」ではなかったことになってしまう。なぜなら、事件を引き起こしたものだけを抽出しているわけだから当たり前。
だから、新聞の「適正」の判断基準は、次の「許可の現実は見直したほうがいい」の結論を導くためのミスリードな気がする。
これは、許可後の事由についてくどくど書かれている文章の意図とも合致している。
別に自分は、銃は自由に、とか、取り締まってはいけない、とか思っているわけではない。ただ無意識か意識的かはわからないが、結論ありきの新聞の記事には少し恐怖を感じる。
今回の事件はこれが「銃」という、判断基準が割と明確だったから結論には共感が持ちやすかった。
ところが、これが外国人だったり、ある特定の宗教だったり、と許可の「適正」の基準がぶれやすいものだったらどうか?考えると少し怖いね。