『母に襁褓をあてるとき―介護 闘いの日々』

『母に襁褓をあてるとき―介護 闘いの日々』
中央公論社
舛添要一

読後の感想
読んでいて胸が痛くなり、一度は読み進めるのが苦痛で読むのを中断しました。
それは無意識のうちに我が家に置き換えて読んでいたからです。
この家庭は、確かに不幸が重なったと言えますが、決して我が家に起こり得ないということではありません。
介護という問題が家族にとってどれほどのことかを考えさせられずにはいられません。
人は必ず老います。そのときに、どう対応するか、そのきっかけになると思います。
是非読んで欲しい一冊です。

印象的なくだり
(前略)介護は社会全体の責任だという考え方を全国民が共有する必要があるのです(P013)。

私は自分の不注意と不勉強から、母を救う機会を失しています。
早めに、私が気づいて医者に頼んで適切な処置をしていれば、痴呆の進行を大幅に遅らせることができたでしょう。
とくに悔いが残るのは、後で記すような事情があったとはいえ、在宅介護を諦め安易に老人保健(老健)施設に母を入れてしまったことです(P019)。

老健施設はお年寄りの家庭復帰が目的の施設なのですが、現実には、八~九割は特養ホームの代用品になっていると言ってもよいと思います。
つまり、最終的には特養ホームに行く、しかし、空きベッドがないので老健施設で待機しておく、という使われ方が圧倒的に多く、リハビリをまじめにやって、家庭に戻れるように体力を回復させることなど行っていない老健施設が多いのです(P039)。

この世に生を授け、育ててくれた親のことを考えれば、少しでも長生きさせてあげたいと思うのは子どもとしても当然なのですが、介護という課題は、そんな当然の人情すら吹き飛ばしてしまうほど過酷で、親子の絆すら断ち切ってしまう類のものなのです(P040)。

日本では、医療は専門知識と権威を持ったお医者さんや看護婦さんが、無知な患者に一方的に与えるという認識がまだ広く共有されています。
だから、患者にわからないようにカルテを横文字で書くといったことが平気で行われています。
しかし、この考え方はもう改めなければなりません。
カルテは患者のものですし、もはや情報を独占することによって権威を高めるような時代ではないのです。
医者が出す薬の内容もわからないまま、患者の負担ばかり重くなるのでは、たまったものではありません。
医療改革の前提、情報の開示です。
しかし、私たち患者の側にも責任はあります。
国民が、医者や医療施設の出す情報に無関心であるかぎり、情報開示は実現しません。
正しい情報を求めようとすれば、手間暇がかかりますが、私たちがそれを厭っていたのでは、患者の権利は守れません。
国民もまた努力が必要です
(P105)。

おむつについて、あと二点述べておきたいと思います。
まずは、何歳になっても、男は男、女は女であることを忘れてはいけないと思います。
とくに女性の場合、自分の裸を男の目にさらすことほど恥ずかしい思いをすることはあまりないのではないでしょうか。
(中略)どうしても人手が足りず、一度だけ私が母のおむつの面倒をみたことがありますが、やはり母は露骨に嫌な顔をしました。
それ以来、おむつの取り替えには、男の私は関わらないことにしています(P109)。

少しずつ長く伸びていく秋の日差しが、母の和室をやさしく包むとき、横たわった母の満足げな言葉が聞こえてきます。
「ああ、極楽、極楽」(P237)。