『プロフェッショナルの条件』

『プロフェッショナルの条件』―いかに成果をあげ、成長するか

ダイヤモンド社
P・F. ドラッカー, Peter F. Drucker, 上田 惇生

読後の感想
ここの記述も去ることながら体系的に優れた一冊です。現状分析→評価→転換の必要性→そのため備えるべきもの、の流れが、物語のように己に入り込んできます。特に自らをマネジメントする、との考え方は、いつどんなときにも参考になります。
ドラッカーの考え方が他の本と大きく異なるのは「組織の中での個人」としての生き方を説いた点にあります。
組織の中での自分はどうあるべきか、と考える必要性は痛感しました。
組織に属する前と後では印象はガラリと変わるでしょうね、きっと。

印象的なくだり
知的労働者とは、他のいかなる者とも二つの点で大きく異なる存在である。第一に、彼らは生産手段を所有する。しかも、その生産手段は携行品である。第二に、彼ら(そしてますます多くの彼女ら)は、雇用主たる組織よりも長生きする。加えて、彼らの生産手段たる知識は、他のいかなる資源とも異質である。高度に専門分化して、初めて意味を持つ(P.ⅷ)。

成果を生み出すために、既存の知識をいかに有効に適用するかを知るための知識がマネジメントである。しかも今日、知識は、「いかなる新しい知識が必要か」「その知識は可能か」「その知識を効果的にするためには何が必要か」を明らかにするうえでさえ、意識的かつ体系的に適用されるようになっている。知識はイノベーションにも不可欠である(P.024)。

ソクラテスにとって、知識の目的は己れを知ることであり、己れを啓発することだった。成果は心のうちにあった。ソクラテスのライバル、プロタゴラスにとって、知識の目的は、何を言うかを知り、いかに上手に言うかだった。彼にとって重要なことは、今日のいわゆるイメージだった。二〇〇〇年以上の長きにわたって、このプロタゴラスの知識の概念が西洋の学問を支配し、知識を規定した。中世の三大科目、いわゆる教養科目の基本は、論理、文法、修辞である。それらは、何を言うか、いかに言うかの道具であって、何をなすか、いかになすかの道具ではなかった(P.028)。

組織は創造的破壊のためにある
社会、コミュニティ、家族はいずれも安定要因である。それらは、安定を求め、変化を阻止し、あるいは少なくとも減速しようとする。これに対し、組織は不安定要因である。組織は、イノベーションをもたらすべく組織される。イノベーションとは、オーストリア生まれのアメリカの経済学者ジョセフ・シュンペーターが言ったように創造的破壊である。
組織は、製品、サービス、プロセス、技能、人間関係、社会関係、さらには組織自らについてさえ、確立されたもの、習慣化されたもの、馴染みのもの、心地よいものを体系的に廃棄する仕組みをもたなければならない。要するに、組織は、絶えざる変化を求めて組織されなければならない。組織の機能とは、知識を適用することである。知識の特質は、それが急速に変化し、今日の当然が明日の不条理となるところにある。
新しい組織社会では、知識を有するあらゆる者が、四、五年おきに新しい知識を仕入れなければならない。さもなければ時代遅れとなる。このことは、知識に対して最大の影響を与える変化が、その知識の領域の外でおこるようになっていることからも、重大な意味をもつ(P.032)。

企業、病院、学校、その他あらゆる組織が、いかにコミュニティに根を下ろし、コミュニティから愛されていようと、人口構造や技術や知識の変化によって成果をあげるための条件が変われば、自らを閉鎖できなければならない。これらの変化すべてが、コミュニティを動揺させ、混乱させ、継続性を断つ。コミュニティにとっては、それらのすべてが理不尽である。コミュニティそのものを不安定にさせる(P.036)。

組織が果たすべき責任
組織の中には、企業よりはるかに大きな力をもつものがある。歴史上、今日の大学ほど強大な力を与えられたものはない。入学や卒業を拒否する権限は、ひとりの人間が仕事や機会を得ることを不可能にする。同じようにアメリカでは、病院が医師に対し病院の利用を拒否することは、医師が医師としての仕事をすることを事実上不可能にする。労働組合は、組合員しか雇用をしないクローズドショップにおいて、組合入りの拒否権をもつこによって雇用機会を支配する力をもつ
(P.038)

(前略)、知識労働の生産性の向上を図る場合においてまず問うべきは、「何が目的か。何を実現しようとしているか。なぜそれを行うか」である。手っとり早く、しかも、おそらくもっとも効果的に知識労働の生産性を向上させる方法は、仕事を定義し直すことである。特に、行う必要のない仕事をやめることである(P.055)。

教えるときにもっとも学ぶ
第一に、生産性の向上には継続学習が不可欠であるということである。仕事を改善し訓練するという、テイラーが実践したことだけでは不十分である。学習に終わりはない。まさしく日本企業の経験がわれわれに教えているように、訓練の最大の成果は、新しいことを学びとることにあるのではなく、すでにうまく行っていることを、さらにうまく行えるようにすることにある。
第二に、同じく重要なこととして、ここ数年の観察で明らかになったこととして、知識労働者は自らが教えるときにもっともよく学ぶという事実がある(P.064)。

知力や想像力や知識は、あくまでも基礎的な資質である。それらの資質を成果に結びつけるには、成果をあげるための能力が必要である。知力や想像力や知識は、成果の限界を設定するだけである(P.065)。

組織の存在理由
外の世界への奉仕という組織にとっての唯一の存在理由からして、人は少ないほど、組織は小さいほど、組織の中の活動は少ないほど、組織はより完全に近づく。
組織は、存在することが目的ではない。種の永続が成功ではない。その点が動物とは違う。組織は社会の機関である。外の環境に対する貢献が目的である。しかるに、組織は成長するほど、特に成功するほど、組織に働く者の関心、努力、能力は、組織の中のことで占領され、外の世界における本来の任務と成果が忘れられていく(P.074)。

根本的な問題は、組織にとってもっとも重要な意味をもつ外のできごとが、多くの場合、定性的であり、定量化できないところにある。それらはまだ事実となっていない。事実とはつまるところ、誰かが分類し、レッテルを貼ったできごとのことである。定量化のためには、概念がなければならない。そして、無限のできごとの集積から特定のできごとを抽出し、名称を与え、数えなければならない(P.075)。

あるコンサルタントは、新しい客と仕事をするときに、最初の数日間を使って先方の組織や歴史や社員について聞くなかで、「ところで、あなたは何をされていますか」と尋ねることにしているという。ほとんどの者が、「経理部長です」「販売の責任者です」と答える。時には、「部下が八五〇人います」と答える。「他の経営管理者たちが正しい決定を下せるように情報を提供しています」「客が将来必要とする製品を考えています」「社長が行うことになる意思決定について考え、準備しています」などと応える者は、きわめて稀だという。
肩書や地位がいかに高くとも、権限に焦点を合わせる者は、自らが単に誰かの部下でることを告白しているにすぎない。これに対し、いかに若い新入りであろうと、貢献に焦点を合わせ、結果に責任をもつ者は、もっとも厳格な意味においてトップマネジメントである。組織全体の業績に責任をもとうとしているからである。
貢献に焦点を合わせることによって、専門分野や限定された技能や部門に対してではなく、組織全体の成果に注意を向けるようになる。成果が存在する唯一の場所である外の世界に注意を向けるようになる。自らの専門や自らの部下と組織全体の目的との関係について、徹底的に考えざるをえなくなる。経済的な財、政府の施策、医療サービスなど組織の産出物の究極の目的である客や患者の観点から、ものごとを考えざるをえなくなる。その結果、仕事や仕事の仕方が大きく変わっていく(P.084)。

知識ある者は、常に理解されるように努力する責任がある。素人は専門家を理解するためには努力すべきであるとしたり、専門家はごく少数の専門家仲間と話ができれば十分であるなどとするのは、野卑な傲慢である。大学や研究所の内部においてさえ、残念ながら今日珍しくなくなっているそのような風潮は、彼ら専門家自信を無益な存在とし、彼らの知識を学識から卑しむべき衒学に貶めるものである(P.089)。

ゼネラリストについての意味ある唯一の定義は、自らの狭い専門知識を、知識の全領域の中に正しく位置づけられる人のことである。いくつかの複数の専門領域について知識をもつ専門家もいる。だがたとえ複数の専門領域をもっていても、ゼネラリストとはえいない。単に、いくつかの専門領域のスペシャリストであるにすぎない。たとえ三つの領域に通じていても、一つにしか通じていない人と同じように、偏狭でありうる。
自らの貢献に責任をもつ人は、その狭い専門分野を真の全体に関係づけることができる。もちろん、たくさんの知識分野を統合するなどということは決してできない。だが彼らは、自らの仕事の成果を活かしてもらうためには、ほかの人のニーズや方向、限界や認識をしらなければならないことを理解している(P.089)。

成長と自己変革を続けるために
第一に、ヴェルディの『ファルスタッフ』の話が教えてくれるようなビジョンをもつことである。努力を続けることこそ、老いることなく成熟するコツである。
第二に、私が気づいたところでは、成果をあげ続ける人は、フェイディアスと同じ仕事観をもっている。つまり、神々が見ているという考え方である。彼らは、流すような仕事はしたがらない。仕事において真摯さを重視する。ということは、誇りをもち、完全を求めるということである。
第三に、そのような人たちに共通することとして、日常生活の中に継続学習を組み込んでいることである。
(中略)
第四に、自らを生き生きとさせ、成長を続けている人は、自らの仕事ぶりの評価を、仕事そのものの中に組み込んでいる。
第五に、きわめて多くの成功してきた人たちが、一六世紀のイエズス会やカルヴァン派が開発した手法、つまり行動や意思決定がもたらすべきものについての期待を、あらかじめ記録し、後日、実際の結果と比較してきている。そのようにして、彼らは自らの強みを知っている。改善や変更や学習になければならないことを知っている。得意でないこと、したがって、他の人に任せるべきことまで知っている。
第六に、成果をあげている人たちに、その成功の原因となっている経験について聞くと、必ずといってよいほど、すでに亡くなった先生や上司から、仕事や地位や任務が変わったときには、新しい仕事が要求するものについて徹底的に考えるべきことを教えられ、実行させられてきたという。事実、新しい仕事というものは必ず、前の仕事とは違う何かを要求するものである。
しかし、これらのことすべての前提となるべきもっとも重要なこととして、成果をあげ続け、成長と自己変革を続けるには、自らの啓発と配属に自らが責任をもつということがある(P.109)。

知識労働者たるものは、自らの組織よりも長く生きる。したがって、他の仕事を準備しておかなければならない。キャリアを変えられなければならない。自らをマネジメントすることができなければならない。つまるところ、これまで存在しなかった問題を考えなければならない(P.112)。

今日では、選択の自由がある。したがって、自らの属する場所がどこであるかを知るために、自らの強みを知ることが不可欠となっている。強みを知る方法は一つしかない。フィードバック分析である。何かをすることに決めたならば、何を期待するかをただちに書きとめておく。九か月後、一年後に、その期待と実際の結果を照合する。私自身、これを五〇年続けている。そのたびに驚かされている(P.112)。

フィードバック分析から分かること
フィードバック分析から、いくつかの行うべきことが明らかになる。
第一は、明らかになった強みに集中することである。成果を生み出すものに集中することである。第二は、その強みをさらに伸ばすことである。フィードバック分析は、伸ばすべき技能や新たに身につけるべき知識を明らかにする。更新すべき技能や知識を教える。同時に、自らの技能や知識の欠陥を教える。無能でない程度の技能や知識であれば、よほどのことがないかぎり、誰でも手に入れることができる。第三は、無知の元凶ともいうべき知的な傲慢を正すことである。多くの人たち、特に一つのことに優れた人たちは他の分野を馬鹿にする。他の知識などなくとも十分とする。ところが、フィードバック分析は、仕事の失敗が、知っているべきことを知らなかったためであったり、専門以外の知識を軽視していたためであったことを明らかにする。第四は、自らの悪癖を改めることである。行っていること、あるいは行っていないことのうち、仕事ぶりを改善し成果をあげるうえで邪魔になっていることを改めなければならない。フィードバック分析では、それらが明らかになる。
第四は、自らの悪癖を改めることである。行っていること、あるいは行っていないことのうち、仕事ぶりを改善し成果をあげるうえで邪魔になっていることを改めなければならない。フィードバック分析では、それらが明らかになる。第五は、人への対し方が悪くて、みすみす成果をあげられなくすることを避けることである。頭のよい人たち、特に若い人たちは、人への対し方が潤滑油であることを知らないことが多い。
第六は、行っても成果のあがらないことは行わないことである。フィードバック分析は、そのような無駄を明らかにする。いかなる能力が足りないかを明らかにする。人には、苦手なものはいくつもある。超一流の技能や知識をもつ者は少ない。そのくせ人には、並の才能や技能さえもちえない分野がたくさんある。そのような分野では、仕事を引き受けてはならない。
第七は、努力しても並にしかなれない分野に無駄な時間を使わないことである。強みに集中すべきである。無能を並の水準にするには、一流を超一流にするよりも、はるかに多くのエネルギーを必要とする。しかるに、多くの人たち、組織、そして学校の先生方が、無能を並にすることに懸命になっている。資源にしても時間にしても、強みをもとに、スターを生むために使うべきである(P.113-114)。

仕事の仕方について初めに知っておくべきことは、自分が読む人間か、それとも聞く人間かということである。つまり、理解の仕方に関することである。
(中略)
もう一つの仕事の仕方について知っておくべきことは、仕事の学び方である。学び方は、読み手か聞き手かという問題以上に深刻な状況にある。なぜならば、世界中のあらゆる国のあらゆる学校が、学び方には唯一の正しい方法があり、それは誰にとっても同じであるとの前提に立っているからである(P.115)。

成果をあげる者は、時間が制約条件であることを知っている。あらゆるプロセスにおいて、成果の限界を規定するものは、もっとも欠乏した資源である。それが時間である。時間は、借りたり、雇ったり、買ったりすることはできない。その供給源は硬直的である。需要が大きくとも、供給は増加しない。価格もない。限界効用曲線もない。簡単に消滅する。蓄積もできない。永久に過ぎ去り、決して戻らない。したがって、時間は常に不足する。時間は他のもので代替できない。他の資源ならば、限界はあっても、代替することはできる。アルミの代わりに同で代替できる。労働の代わりに資本で代替し、肉体の代わりに知識で代替できる。時間には、その代わりになるものがない。
時間はあらゆることに必要となる。時間こそ真に普遍的な制約条件である。あらゆる仕事が時間の中で行われ、時間を費やす。しかるに、ほとんどの人が、この代替できない必要不可欠な資源を当たり前のように扱う。おそらく、時間に対する愛情ある配慮ほど、成果をあげている人を際立たせるものはない。しかし一般に、人は時間を管理する用意ができていない(P120)。

実は、本当に行うべきことは優先順位の決定ではない。優先順位の決定は比較的容易である。
集中できる者があまりに少ないのは、劣後順位の決定、すなわち取り組むべきでない仕事の決定と、その決定の遵守が至難だからである(P.142)。

必要条件を満たさない決定は、成果をあげられない不適切な決定である。実際、そのような決定は間違った必要条件を満たす決定よりもたちが悪い。もちろん、正しい必要条件を満たさない決定も、間違った必要条件を満たす決定も間違いである。だが間違った必要条件を満たす決定ならば、救済することはできる。一応の成果はあがるからである。満たすべき条件を満たさない決定は、新しい問題を生むだけである。
一度行った決定をいつ放棄するかを知るためにも、必要条件を明確にしておくことが必要である。さらに、必要条件を明確に理解しておくことは、もっとも危険な決定、すなわち万一都合の悪いことが起こらなければうまくいくかもしれないという決定を識別するうえで必要である。その種の決定は、もっともらしく見える。しかし必要条件を仔細に検討すれば矛盾が出てくる。そのような決定が成功する可能性は皆無ではないが、きわめて小さい。奇跡の困った点は、稀にしか起こらないことにあるのではない、あてにできないことにある(P.153)。

決定を行動に移すには、「誰がこの意志決定を知らなければならないか」「いかなる行動が必要か」「誰が行動をとるか」「行動すべき人間が行動するには、その行動はいかなるものでなければならないか」を問わなければならない。これらのうち、特に最初と最後の問いが忘れられることが多い。そのため、ひどい結果を招くことがある(P.156)。

勇気をもつ
これでいよいよ、決定を行う準備は整った。すなわち、決定が満たすべき必要条件は十分に検討し、選択肢はすべて検討し、得るべきものと付随する犠牲とリスクは、すべて天秤にかけた。すべては分かった。ここにおいて、何を行うべきかは明らかである。決定はほぼ完了した。しかし、まさに決定の多くが行方不明になるのが、このときである。決定が、愉快ではなく、評判もよくなく、容易でないことが急に明らかになる。
とうとうここで、決定には判断と同じくらい勇気が必要であることがあきらかになる。薬は苦くなければならないという必然性はない。しかし一般的に、良薬は苦い。決定が苦くなければならないという必然性はない。しかし一般的に、成果をあげる決定は苦い。
ここで絶対にしてはならないことがある。「もう一度調べよう」という誘惑に負けてはならない。臆病者の手である。臆病者は、勇者が一度死ぬところを、一000回死ぬ。「もう一度調べよう」という誘惑に対しては、「もう一度調べれば、何か新しいことが出てくると信ずべき理由はあるか」を問わなければならない。もし答えがノーであれば、再度調べようとしてはならない。自らの決断力のなさのために、有能な人たちの時間を無駄にすべきではない
(P.167)。

すでにわれわれは、コミュニケーションについての四つの原理を知っている。コミュニケーションとは知覚であり、期待であり、要求である。情報とは違う。依存関係にはあるが、むしろ相反することのほうが多い(P.169)。

リーダーシップの本質
それでは、カリスマ性でも資質でもないとすると、リーダーとは何か。
リーダーたることの第一のリーダーシップを仕事と見ることである。
(中略)
効果的なリーダーシップの基礎とは、組織の使命を考え抜き、それを目に見える形で明確に定義し、確立することである。リーダーとは、目標を定め、優先順位を定め、基準を定め、それを維持する者である。もちろん、妥協することもある。
(中略)
リーダーたることの第二の要件は、リーダーシップを、地位や特権ではなく責任とみることである
(P.186)。

第一に、イノベーションを行うためには、機会を分析することから始めなければならない。私がイノベーションのための七つの機会と呼ぶものを徹底的に分析することから始めなければならない。もちろんイノベーションの分野が異なれば、機会の種類も異なる。時代が変われば、機会の重要度も変わっていく。
①予期せぬこと②ギャップ③ニーズ④構造の変化⑤人口の変化⑥認識の変化⑦新知識の獲得(P.199)。

イノベーションに成功する者は保守的である。保守的たらざるをえな
い。彼らはリスク志向ではない。機会志向である(P.205)。

自らの仕事をし、自らのキャリアを決めていくのは自分である。自らの得るべきとところを知るのは自分である。組織への貢献において、自らに高い要求を課するのも自分である。飽きることを自らに許さないよう、予防策を講ずるのも自分である。仕事を心躍るものにするのも自分である(P.232)。