『私の嫌いな10の人びと』

『私の嫌いな10の人びと』
新潮社
中島義道

読後の感想
他人が何も考えていない、というのは別に頭が悪いからではないのだなぁ思いました。物事について深く考えるコストを投じない→考えることに価値を見出さない→考える前提として現実を見据えるのが怖いというように著者は考えているようです。
文章の中に三島由紀夫の言葉が入っていましたが、猛烈に自分の心に突き刺さりました。ちょうど読んだ時期がよかったのでしょうね。

印象的なくだり
(前略)、人間ですから、かつてどんなに絶大な恩恵を受けたとしても、つい忘れてしまうこともあるでしょう。ここには深層心理が働いていて、ある人に足を向けて寝られないほどの恩恵を受けたからこそ、忘れてしまう、ということもあるかもしれません。なぜなら、そのとき自分が彼からそれほどの恩恵を受けたことはありがたいことながら、やはり同時に自分の不甲斐なさがちくちくとからだを刺し通して、無性に辛いからです。忘れたいから、忘れてしまうのです(P.024)。

卒業生へのはなむけの言葉
<引用>
学生諸君に向けて、新しい進路へのヒントないしアドバイスを書けという編集部からの依頼であるが、じつはとりたてて何もないのである。しばらく生きてみればわかるが、個々人の人生はそれぞれ特殊であり、他人のヒントやアドバイスは何の役にも立たない。とくにこういうところに書き連ねている人生の諸先輩の「きれいごと」は、おみくじほどの役にも立たない。
振り返ってみるに、小学校の卒業式以来、厭というほど「はなむけの言葉」を聞いてきたが、すべて忘れてしまった。いましみじみ思うのは、そのすべてが自分にとって何の価値もなかったということ。なぜか?言葉を発する者が無難で定型的な(たぶん当人も信じていない)言葉を羅列しているだけだからである。そういう言葉は聞く者の身体に突き刺さってこない。
だとすると、せめていくぶんでもほんとうのことを書かねばならないわけであるが、私は人生の先輩としてのアドバイスは何ももち合わせておらず、ただ私のようになってもらいたくないだけであるから、こんなことはみんなよくわかっているので、あえて言うまでもない。これで終わりにしてもいいのだけれど、すべての若い人々に一つだけ(アドバイスではなくて)心からの「お願い」。どんな愚かな人生でも、乏しい人生でも、醜い人生でもいい。死なないでもらいたい。生きてもらいたい。

後日談。これはかなり評判がよかった。少なからぬ学生や先生が「中島先生の文章がいちばんおもしろかった」と言ってくれましたし、中には「ほんとうのことを書いているのは中島先生だけだ」とさえ言ってくれる人もいました。ただそう言うだけの人、そして自分は依然として因習と慣習にかんじがらめになった言葉を発している人、そういうずる賢く不誠実な人に正確に矛先を向けて、私は書いているのに!(P.052)

曽野綾子の講演集『聖書から学ぶ人生』(新潮カセット)の中にある難民とその援助に関するところをじっくり聞いて、センチメンタルな同情心ではなく、真の意味で彼らを救うことが、どんなに気の遠くなるほど大変なことか、自覚してもらいたい。難民というと「心のきれいな犠牲者」と思っている人が多いでしょうが、とんでもない。曽野さんは、「生きるために、彼らがどんなにずる賢く、どんなに嘘つきか知っていますか?」と問いかける。
(中略)
世話を焼きたい人とは、自分が世話を焼きたい人に、世話を焼きたいときだけ、世話を焼く人です。彼らが、それはすべて自分の自己満足のためだと自覚してくれればいいのですが、おうおうにして相手に「感謝」を求める。これだけしたのに、自分に対する「感謝の気持ち」が相手にないとわかると、むくれる。いいですか、人の世話を焼くのは自由ですが、断じてそれだけは望んではならないのです。場合によっては、相手から手ひどい仕打ち、理不尽な誤解を受けてもしかたないと割り切って、人の望むことをかなえてあげるかぎり、あなたの援助行為は本物でしょう(P.062)。

私たちが生きるということは、他人に迷惑をかけて生きるということであり、とすると「ひとに迷惑をかけるな」と命ずることは「生きるな、死ね!」と命令するようなもの。しかも、だからといって自殺しても(普通)親兄弟姉妹はじめ、膨大な数の他人に迷惑をかけてしまう。では、どうすればいいのか?まさにここから思考を開始すべきなのです。正直にこの地点に立ち止まれば、ほとんど五里霧中で途方に暮れていても、いや、だからこそ、一つだけくっきりとわかってくることがある。それは、「けじめだけは大切にしろ」とか「曲がったことだけはするな」とか「ひとの迷惑を考えてみろ」というたぐいのお説教は簡単に口にできないということです(P121)。

自分が何を「考えているか」全部言語化してみろ!(P123)。

三島由紀夫ですが、彼は文芸評論家の古林尚との対談中で(「三島由紀夫最後の言葉」新潮カセット)、「私だって飢えた子がいたら助けてやりたい。でもそれは私のミッションではないと思っている」と言っている。
私には、三島の言うことがよくわかります。当時(一九六○年~七○年代)は、サルトルや大江健三郎のような行動派が「飢えている子供がいるのに、文章を書いていていいのか?」という人道主義的問いを作家たちに発し、それに「悩む」風潮が強かった。時代背景を考慮すると、これほどきっぱり「弱者」を切り捨てている三島は潔いと思います(P143)。

私は、納得できないときは相手を怒鳴りつけたり、めんめんと抗議したりしますが、いわゆる私にとっていちばん大きな欲求は、相手に自分の不快さを伝えること。「私は不快だ」というメッセージが相手に伝われば、たとえその理由をわかってくれなくても、不快の原因を取り除いてくれなくても、かまわない。これは哲学をしているおかげなのですが、他人に自分の信念をじっくり聞いてもらい、かつ「なるほど」と思わせ、自分のこれまでの信念を改める、なんてことは至難の業、いやほとんど不可能だと思っています(P147)。

「おれ、バカだから」と言う人って、じつはほんとうにバカなのです。バカであることはその言動のすべてから明らかであるのに、話がややこしくなるとすぐこう言う。そして、窮地を逃れようとする。こんな人には、上段から構えて、「あなたがバカであることは、とうにわかってるのです。さっきから、バカにもわかるように話しているんです」と言いたくなる(P177)。

もし私が恋愛相談を受けたら、人生そんなにおもしろいことはなかなかないんだから、どんなに可能性が少なくても、ずんずん突き進み、相手も自分もぼろぼろになり、お互い人生を棒に振り、まわりの人をも巻き込み、みんなに迷惑をかけ、警察沙汰になってもいいから、どこまでもどこまでも貫きとおしなさい、と助言しようと思うのですが、それと知ってか、誰からも恋愛相談は受けません(P191)。

最後に、私の嫌いな一〇〇の言葉を(本書の表題と重ならないようにして)挙げておきましょう。
妥協、希望、まやかし、調整、欺瞞、自己欺瞞、弱者、ほどほど、穏便、鈍感、無自覚、無感覚、無頓着、腹芸、如才ない、分、タテマエ、あきらめ、怠惰、惰性、和気あいあい、平穏無事、和、幸福、優しさ、思いやり、穏健、道徳、倫理、善人、平凡、月並み、常識、普通、日常、家庭、家族、郷土、雑然、混沌、清濁併せのむ、無難、安寧、安心、無視、温情、姑息、浅はか、なあなあ、お互いさま、平凡、大衆、無教養、無知、臆病、会社、世間、世間体、がんばる、みんな、連帯、生真面目、感謝、恩、義理、しきたり、らしさ、誇り、栄誉、二枚舌、無視、隠避、自己防衛、根回し、無口、おべんちゃら、おだて、追従、お世辞、社交辞令、迎合、付和雷同、きれいごと、因習、虚飾、形式主義、ことなかれ主義、役所、良識、お説教、式、式辞、紋切り型、中庸、協調性、実直、朴訥、堅実、嘘も方便、しかたない、大人の考え(P.205)。

『私が嫌いな10の人びと』中島義道

『ひとを<嫌う>ということ』

『ひとを<嫌う>ということ』
角川書店
中島義道

読後の感想
他人に嫌われたくない、でも他人を嫌ってしまう。他人を嫌いなのに、「嫌い」とばれると軽蔑され自分も嫌われる。
多くの人はこのように思って、感情をコントロールしているのでしょうけど、中にはこの偽善に耐えられない人もいる。
著者の中島さんはこういった考え方なんだろうなと感じました。
あるべきままの感情を受け入れる、人を好きになるように嫌いになろう、という思想は、そのままは受け入れられませんが、自分の考え方の一つの転換を生み出してくれました。
それにしても、作者の潔癖症には呆れを通り越して感心することしきりです。

印象的なくだり

私は諦めるほかないのです。そして、嫌われているといううことを大前提として、それを受け入れることしかないのです。
この残酷さの中で生きてゆくしかないのです。なぜなら、私自身も同じように振舞っているのですから。
日々、刻々と不特定多数の人々に冷たい「まなざし」を向けている。そして彼らを勝手に裁いている。彼らをさまざまな理由で嫌っている。
批判している。場合によっては、嘲笑している。見下している。軽蔑している。妬んでいる。非難している。
しかも、たとえ聞かれてもほんとうのことは言わないのですから(P027)。

とりわけ、嫌いな人とどうつき合うべきかは大きな問題です。まずは常識から。
ありとあらゆる言い訳を連ねて、その人に会わないように全身全霊コレ努め、ジワジワと当人にそれとなくわかってもらう方法。
私は意図的にこの安全な方法を採らないようにしています。
その生殺しのような残酷さ、しかもこれしかないという自己正当化のずるさに麻痺してしまいたくないからです。
相手を傷つけたくないからという素振りをしながら、じつは自分が傷つきたくないからであることは明瞭であり、しかも追及されたらいつでも「私がXを嫌っているなんてとんでもない」と言えるのですから。
その計算高さ、自己防衛のずるさに耐えがたい
(P029)。

誰でも、嫉妬が自尊心を骨抜きにする、つまり敗者であることを自認する感情であることを知っているのです。
それが、人々によって狭量な醜い感情とみなされていることも残酷なことです。
ですから、嫉妬に狂う人は絶対にそれを認めない。
「羨ましいなんて思っていない!嫉妬なんかしていない!」と叫ぶのです。ここで、嫉妬を認めたらすべてが崩れてしまう。もはや生きていけないのです(P096)。

誰でも知っていることです。
「愛と憎しみの原因が等しい」とは、エヴリーヌのように、かつて自分が愛していた夫の美点Pそのものが、憎しみの原因になるということ。
その場合「記述」が決定的に変わることが重要です。
かつて「如才ない」と意味づけていた夫の性格が「自己防衛」となる。
「用意周到」と意味づけていた性格が「狡猾」となり、「快活」が「軽薄」に変わるのです。
なぜ、この場合「嫌い」に拍車がかかるのか?それは、自分が夫を愛したことそのことに対する屈辱感を相手に全部ぶつけるからです。
自分がこんなに精神誠意愛したのに、相手は報いてくれなかった。
こうした惨めな境遇に突き落とした原因としての相手を激しく憎むのです。復讐の一種でしょう(P116)。

持てる者と持たざる者との会話(P129)

この場合、絶対にへりくだることはない。まして謝ることはない。
あなたは自己点検した結果何の落ち度もないのですから、どこまでも堂々としていればいいのです。
これは大層重要なこと。あなたが、あなたへの「嫌い」の理不尽さにもかかわらず、摩擦を避けようとして相手に服従することは何の解決にもならない。私の経験からしても、ますますその人との関係をまずくするだけです。
相手はますますあなたを理不尽な仕方で支配しようとするでしょう。
そして、あなたは納得して服従しているわけではないのですから、いつも不満と恨みによって全身が充たされ、それが重なって彼(女)の理不尽さにいつか耐えがたくなる。
そのうち、それが相手への新たな憎しみとなって、あなたは相手と一緒にいられなくなる。
あなたがそこを去らねばならなくなる。相手の思うつぼです(P138)。

若くから世に出たモームであればこそ、叙述は真に迫っています。彼はまたなかなか言えない真実を語っている。
成功は人々を虚栄、自我主義、自己満足に陥れて台なしにしてしまう、という一般の考えは誤っている。
あべこべに、それはだいたいにおいて人を謙譲、寛容、親切にするものである。
失敗こそ、歩とを苛烈冷酷にする(P152)。

私の「思想」は「ひとを好きになることと同様ひとを嫌いになることの自然性をしっかり目を向けよ」と書いてしまえば一行で終わってしまうほど簡単なものです(P188)。