絶望からの出発―私の実感的教育論
講談社
曾野綾子
読後の感想
作家曾野綾子さんの教育についてのエッセイが、収められた本。実際の子育ての経験から書かれた部分が非常に多くて納得する部分が多かったです。
何より、その考え方に共感する部分が多いので、教育論を超えて対人関係全般に言えることも多くて、影響を受けました。
要約すると、結果として他人と同じ事をすることになるのはいいが、何も考えずに他人と同じ事をするのはいけない、ということ。
印象的なくだり
己を教育しようとしない人に教育は不可能である、ということを私は信じている。
しかし己を教育しても、更に教育はまちがいなくうまく行くとは限らない。
私はこのようにして絶望的な出発点に立つのである(P015)。
本当に心から日本国土の平和を望むという人は、いざ外敵が入って来たなら、自らも戦い子供も戦いに参加させる覚悟を持つ人だけである(P020)。
上流階級の特徴は言葉の軽重の自由なことである。悪い言葉も失礼な言い方も、時には伝法なふざけ方もできる。
しかし節々はきちんと改り(ママ)、親しき仲にも礼儀あることを見せる。つまり使い方の範囲が実に広くなるのである(P047)。
日本が戦争に負けてから、しつけの基本にある体罰というものが、全くなくなってしまった。
日本の軍隊は何かというとぶん殴り、そのような空気が大東亜侵略の思想と日本の軍国主義を支えたのだ、という考え方なのであろう。
体罰について、我々ははっきりと、それを受ける人間の立場と与える側の条件を考えなければいけない。
体罰は、兵隊にとられるような一人前の-つまり言語による意志の疎通が行われ得る者同士の間で採用されるべきものではないのである。
第一に体罰の受け手は、まず言語的に未成熟な年齢でなければならない。第二に、体罰の与え手は感情的な報復を以ってそれをしてはならない。
この二つは厳密なルールである。従って、子供が言葉によって事物の認識をできる年頃になったら、もう体罰は有害なだけで何の効果もない(P051)。
自分のして来た僅かな、「良いと思われること」をご披露する度に、私は恥ずかしくなるのだが、(それを自制していると話の進み方が悪くなるので、敢えてお許しを頂くつもりでやって来たのだが)私は息子が何か小さなことをしてくれる度に、必らず(ママ)礼を言い、彼が少しでもましなことをする度に、かなり臆面もなく褒めたつもりである。
それは決して我が子をおだてたのではなかった。
私は子供がまだはっきりした意識を持つ以前から、他人に感謝することを、皮膚で覚え、その習慣に慣れ親しんでほしかったのだった。
私は子供が褒められることでいい気分になるばかりでなく、むしろ他人の美点について、目のきく人間、それをお世辞ではなく、心から評価できる人間、になってほしかったのである。
息子を褒めてやることは、つまり、彼が他人を褒めることのできる人間になるよう、習慣づけるためであった(P066)。
(前略)、物を食べていい時間と場所は、どんな子供といえども早くから、きっちりしつけるべきなのである(P083)。
親は親であるというだけで、子供を叱ってさしつかえない。
大きくなって未熟な人間になることを防ぐには、早くから子供に対しては、実に多くのことを注意し、叱らねばならない(P103)。
予測しがたいことに耐えうる力をつけることが教育の最終目的なのである。
人間の心を強める要素は実にさまざまなものから成り立つ。
歴史は原則と非原則を教え、語学は情報をより広い地域から収集することを可能にし、文字は計算もなにも出来ない理不尽な形で人間の心を力づける。
哲学と宗教は、あらゆる知識を結びあわせ燃え上がらせる触媒の作用をし、心理学はそれらの学問が筋道立てて考えているものの割れ目を警告する(P109)。
私はかつてずいぶんと人間の心が分からない女であった。
実際の目も近視だが、心理的にもひどい近眼であった。
私はたくさんの人たちを誤解し、表面でだけで判断し、急いで結論を出そうとした。
しかしなん年か経ってその人に会ってみると、私はたいていの場合、かつてその人に対して自分がなにも見ていなかったのだという思いに捕らわれた(P113)。
どのような母親も教師も子供も、多分、まるっきりまちがわずに済むことはないのである。
いいと思ってやったことが、そうでない結果を生むので、私たちはきりきり舞いさせられる。
口惜しく、情ない(ママ)。面目なく、泣きたい思いをし、何もかもするのがいやになったりする。
しかしそのまちがいを、自ら認めるのが恐らく勇気の本質なのである。
誰もがまちがうのだから、自分も又まちがうに違いないと思うのが勇気なのである。
そしてまちがう可能性を怖れつつ、限りある善意と能力のなかで、居ずまいを正して、一切の権力から解放された自由の中で、自分の小さな信念を
貫き通す勇気を持つことが、最も効果的な教育の姿勢であると思う。
どんなに眼のある正しい人間でも、勇気のない人は本当の教育者ではない。
なぜなら、賢さと共に、勇気だけが人間が世の中の奔流に押し流されることを阻止できる(P130)。
スポーツの最大の産物は、練習の鬼になり、勝って「なせばなる」などを確信することではない。
練習しても練習しても、才能に限度のあることを知り、常に自分の前に強者がいて、自分に砂埃をかけて行くのに耐えて、自分を見失わないことなのだろう、と思った。
私たちの誰もが、この世でトップではない。
記録は常に更新され、地位は常に交替させられる。
世評は流動そのものである。
トップになることを信じるのは幻を追うことと似ている
私は息子が二流以下に耐える心身の構えを持っていることを見た時に、改めて感謝したのである(P136)。