『おいしいから売れるのではない 売れているのがおいしい料理だ』

『おいしいから売れるのではない 売れているのがおいしい料理だ』
正垣泰彦

読後の感想
賛否両論あると予想されるタイトル。
でも一気に読んだ。そして、読後にサイゼリヤに行きました(一人で

最初に肝に銘じておかなければ勘違いしてしまうことがあるが、著者は料理人では(一応)あるが、その前に経営者であるということ。もちろん目の前のお客さん一人ひとりは見ているんだろうけど、それはあくまでも全体のうちの一部として見ているのだろうということでした。
そして、より多くの人に「美味しかった」と言われるのは、実は料理人よりも経営者なんだな、と知っている人。

経営方針は至って明確で、後発の利益を最大に活かすところ(例外は後述)。おそらくマクドナルドを相当研究していると見られる記述が至るところに見受けられます。そういやレイ・クロックも同じタイプなのかなぁとひっかかりました。

少し本の内容からは離れるけど、僕がすごいなと思うのは、サイゼリヤ中国に合弁ではなく独立資本(100%出資)で成功しているという凄さ。他の会社の事例を見ているとこの凄さが際立つ。残念ながら本書ではそこまでは触れられていなかったけど、次作があれば是非読みたい。

ちなみにサイゼリ「ア」ではなくて、サイゼリ「ヤ」。

印象的なくだり

ほとんどの人は売り上げが増えれば、利益も増えると思っているが、それは違う。
利益は「売り上げ」-「経費」。
売り上げが増えなくても、無駄を無くして、経費を削れば利益は増える。
経営者は日頃から、売り上げが減っても利益が増える店を目指すべきで、売り上げが減って利益が出ないから困るというのは、今まで無駄なことをたくさんしていたというのに等しい(P019)。

き、厳しい言葉。

チェーン店を視察する場合、その店数は自社の10倍より100倍、100倍より1000倍と多ければ多いほど望ましい。
なぜなら数多くの店を持つチェーン店では、長い年月をかけて改善と標準化を進め、その店のお客様にとって「これが大事」というものだけが残っているはずだからだ。
チェーン店から学べる部分は個人経営の店でも多いはずだ(P040)。

この文章を読んでから、チェーン店に行くと必ずバックヤードの人の動きを見ています。
おそらく普通の人は、自分のお店の規模と全然違うから参考にならないと思っているかもしれませんが、
そんなことはありません。
逆にチェーン系(とか大きな企業)で働いた後に個人商店(や中小企業)に来ると
本当に非効率さに驚きます。
実はチェーン系のやっている作業は極限まで効率化された動きなので
意識しないと全く気づくことができないのではないかと考えています。

「安売り」と「お値打ち」は違う
お値打ちな料理とは価格が安いのではなく、その品質が「この値段なら、この程度の価値が必要だ」という水準を上回っている状態のことだ。
だから、値下げをしても価値を伴わない料理は売れないはずで、自分の首を締めるだけだ(P049)。

私に言わせれば、仕事とは「作業」の集まり。その作業の中で、時間のかかるものを短くできないか、無くせないかと考えることが、一番の効率化だ(P086)。

私の場合、食肉、鮮魚、野菜など曜日別にローテーションを組んで、常に朝一番に仕入れた業者の倉庫に出向き、食材を仕入れていた。
朝一番なら状態の良い食材の中から自分で自由に選べる。
ちなみに常に一番だったのは、夜遅くまで店で働いた後に、クルマで仕入れ業者の倉庫の前まで行って、そこで寝ていたからだ(笑)(P097)。

経営者のガッツ自慢話、などと侮ってはいけない…気がするけどね…(どうかな

経営者として、会社を大きくしたのなら、料理以上に教育への関心が持てなければならない。
今、売れるメニューを作れても、それは必ずマネをされる。
自分は料理を上手く作れても、それを「技術」として、人に伝えられないなら、店数を増やしても上手くはいかない。
そう考えれば、何十年と競争を続けるには、人材をどう育て、組織を作るかのほうが大切だ、と分かるだろう
(P173)。

自分が最近、「教育」について関心を持って読んでいるからこの言葉が引っかかるのだろうか。

『不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か』

不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か
光文社
長山靖生

読後の感想
 単なる自己批判本かと思いきや、その実は実感に基づく強烈な教育批判の本でした。
もちろん単純な批判ではなく、良くするための批判で、とても有益です。
 子供に勉強させるのに、そもそも大人からしてダメである、との内容の文章はドキッとしました。自分の身に置き換えて読むと、思うところが多々あります。
学歴か、実力か、という不毛な問い(P056)
努力と報酬が反比例する社会(P209)
 の二つの章は、秀逸です。
 この本を読むと、日々の努力の大切さが本当に身に染みます。

印象的なくだり

教育改革もまた格差を拡大する方向へ向かっている。
なぜそうなるかというと、(中略)、単純にいって改革に携わる人々は、政治家や官僚や諮問委員会に招かれる有識者(学者や財界の代表)にしても、みな「勝ち組」の人たちだからだ。彼らにとって二極化は、自分たちの利益の増加を意味する。
とはいえ、これは彼らが自分たちの私利私欲のために改革を利用しているという意味ではない。
そういうつもりがなくても、指導者層からは彼ら自身が不利益を被るような発想は、生まれ得ないということだけだ(P015)。

結局のところ、ペーパー試験による評価は、その人の知識量・学力を測定する方法としては、相対的に不公正な要素が入り難いという意味で、適正な手段ということになるのだろう(P027)。

しかし現在の日本人の不勉強ぶりは、子供にお勉強させれば、それでいいというようなレベルを、とうに超えている。
自戒を込めていえば、すでに大人からしてダメである。本当にお勉強すべきなのは、我々大人の側、親の側なのではないか。
孟母三遷の教えというのがあるが、学校の近くに引っ越すよりも親自身が学ぶ姿勢を示してこそ、子供に「がんばれ」とか「やれば出来る」と言えるし、その言葉は子供に届くのではないか。
子供の顔色を窺って夜食を作るよりも、一つのテーブルで子供が勉強しているときに一緒に仕事に必要な専門書を積み上げて次々読破するのもいい。
子供に求める分、自らもリスクを担うのである(P030)。

「やればできる」とは「やらなければできない」の虚飾的告白なのである(P038)。

私は「ゆとり教育」の理想それ自体が悪い、とは思っていない。
だが問題は、意欲や思考力、表現力などを評価するのはきわめて難しいという点にある。
それは現場の教員にとっても、過大な期待と責任を負わせるものなのではないだろうか。
そもそも私などは、子供の意欲や思考力それ自体を教員が判定し得るという考えそのものに、空恐ろしいものを感じてしまう(P040)。

創造性は、基礎的な知識や思考訓練があってこそ、発揮されるものである。
言語を知らない人間は、潜在的想像力があったとしても、他人の前で意見を述べたり文章を書くことはできない(P041)。

ゆとり教育
これは人間の学習意欲(向上心)や思考能力の「右肩上がり」を前提にしている。
好意的に解釈すると「ゆとり教育」を立案した人々は、根が真面目で勤勉な性格だから、全ての人間もそうに違いないと思い込んでいるのかもしれない。
これは実際にある話で、ほとんど挫折を経験することなくエリートコースを歩んできた官僚や学者には、意外と性格がよく、話していて感じのいい人たちが多い。
しかも謙虚。だから彼らは、自分たちが特別な努力家だとは考えておらず、「すべての人間は、やればできる」という理想を信じている(P044)。

学歴か、実力か、という不毛な問い(P056)

学校や社会で問題にされている「本離れ」というのはエンターテインメントを中心にした読書全般を指しているわけではない。
古典的な文学作品や思想・哲学の基本図書など、いわゆる「いい本」が、読書問題の対象であって、それらが読まれなくなったということが問題なのである。
それならたしかに、読まれなくなっているとの実感がある(P070)。

高校生が凝るもののなかで、いちばん受験に差し障りがあるのは読書だ、と今でも私は思っている。
はまっているのがバイクやバンドなら、遊んでいるのは一目瞭然だ。
しかし読書となると、自室で勉強をしているふりをしながら、いくらでも本が読める
(P076)。

日本だけではなく、欧米列強と呼ばれたような近代国家もまた、その「かのように」を提示する道徳規範の母胎を国家と呼び、信奉する人々の集団を国民と称した。
ここに国民国家が、近代的自我を持った個人の側にとっても、一つの「救済」であった理由がほの見える。
精神的統合を基盤とする近代国家は、「神の死」以降を生きる個人に、仮借にもせよ共通認識の舞台を提供したのである。
近代国家が「国語」を管理しようとしたのもまた、当然だった。
言葉は思考を規定する。そして言葉は、神に代わって、「かのように」な世界を支配する(P104)。

(前略)倫理に限ってみても、「倫理学について考える」ことと「倫理的に生きる」のは別物である。
だから倫理学に詳しい人が、倫理的でない場合だって、当然ある。実際、倫理学の知識は豊かなのに、その行動はどう見ても倫理的とはいえない知識人がいることを、われわれは知っている。
しかしその場合、倫理的でないのはその人個人であって、彼が知っているところの倫理学の責任ではない(P105)。

(前略)子供の教育は「平等性の確保」の点からも学校に任せたほうがよく、その道徳教育の内容が偏ったものにならないようにするためには、子供を教育する学校や文部科学省の行政をしっかり市民社会が監視すればいい、という考え方もあるかもしれない。
しかし、それはどう考えても甘い。
だいたい自分の子供もろくに監督できない人間に、どうして学校の監視、監督、助言が出来ようか。
それが出来るくらいのしっかしりた親、社会的な発言力も影響力もあるほどの人物なら、そもそも今時の公立学校に子供を通わせてはいないという、序章や第一章で述べた格差問題に立ち戻ってしまう(P107)。

あらゆる教育内容は、教える者自らが学ぶ情熱を持っていることを前提にしてしか、伝わないものだが、特に倫理観はそういうものだ(P119)。

いかなる理想にも与しないという思想は、ニヒリズムではなく、理想が人間のためにあるということ、決して理想のために人間がいるわけではないという当たり前のことを、断じて忘れまいというユマニスムの思想なのである。
日本の教育、ひいては日本社会に最も欠けているのは、自分自身で考え、理論的にかつ紳士的な態度で議論を尽くすという方法の修練のほうだ。
思考する訓練を積んでいない者に、よく討議されたわけでもない結論を押しつけるような教育が施されているのが、最大の問題なのだ
(P157-158)。

信じるというのは、善良な行為ではなく、思考の停止である。
考えるのをやめにして、あとは他人の意見に身を委ねる。それが「信じる」ということだ。
そしてしばしば、安易に信ずる者は、被害者になるばかりでなく、加害者にもなってしまう(P172)。

努力と報酬が反比例する社会(P209)

絶望からの出発―私の実感的教育論

絶望からの出発―私の実感的教育論
講談社
曾野綾子

読後の感想
 作家曾野綾子さんの教育についてのエッセイが、収められた本。実際の子育ての経験から書かれた部分が非常に多くて納得する部分が多かったです。
 何より、その考え方に共感する部分が多いので、教育論を超えて対人関係全般に言えることも多くて、影響を受けました。
 要約すると、結果として他人と同じ事をすることになるのはいいが、何も考えずに他人と同じ事をするのはいけない、ということ。

印象的なくだり
己を教育しようとしない人に教育は不可能である、ということを私は信じている。
しかし己を教育しても、更に教育はまちがいなくうまく行くとは限らない。
私はこのようにして絶望的な出発点に立つのである(P015)。

本当に心から日本国土の平和を望むという人は、いざ外敵が入って来たなら、自らも戦い子供も戦いに参加させる覚悟を持つ人だけである(P020)。

上流階級の特徴は言葉の軽重の自由なことである。悪い言葉も失礼な言い方も、時には伝法なふざけ方もできる。
しかし節々はきちんと改り(ママ)、親しき仲にも礼儀あることを見せる。つまり使い方の範囲が実に広くなるのである(P047)。

日本が戦争に負けてから、しつけの基本にある体罰というものが、全くなくなってしまった。
日本の軍隊は何かというとぶん殴り、そのような空気が大東亜侵略の思想と日本の軍国主義を支えたのだ、という考え方なのであろう。
体罰について、我々ははっきりと、それを受ける人間の立場と与える側の条件を考えなければいけない。
体罰は、兵隊にとられるような一人前の-つまり言語による意志の疎通が行われ得る者同士の間で採用されるべきものではないのである。
第一に体罰の受け手は、まず言語的に未成熟な年齢でなければならない。第二に、体罰の与え手は感情的な報復を以ってそれをしてはならない。
この二つは厳密なルールである。従って、子供が言葉によって事物の認識をできる年頃になったら、もう体罰は有害なだけで何の効果もない
(P051)。

自分のして来た僅かな、「良いと思われること」をご披露する度に、私は恥ずかしくなるのだが、(それを自制していると話の進み方が悪くなるので、敢えてお許しを頂くつもりでやって来たのだが)私は息子が何か小さなことをしてくれる度に、必らず(ママ)礼を言い、彼が少しでもましなことをする度に、かなり臆面もなく褒めたつもりである。
それは決して我が子をおだてたのではなかった。
私は子供がまだはっきりした意識を持つ以前から、他人に感謝することを、皮膚で覚え、その習慣に慣れ親しんでほしかったのだった。
私は子供が褒められることでいい気分になるばかりでなく、むしろ他人の美点について、目のきく人間、それをお世辞ではなく、心から評価できる人間、になってほしかったのである。
息子を褒めてやることは、つまり、彼が他人を褒めることのできる人間になるよう、習慣づけるためであった(P066)。

(前略)、物を食べていい時間と場所は、どんな子供といえども早くから、きっちりしつけるべきなのである(P083)。

親は親であるというだけで、子供を叱ってさしつかえない
大きくなって未熟な人間になることを防ぐには、早くから子供に対しては、実に多くのことを注意し、叱らねばならない(P103)。

予測しがたいことに耐えうる力をつけることが教育の最終目的なのである。
人間の心を強める要素は実にさまざまなものから成り立つ。
歴史は原則と非原則を教え、語学は情報をより広い地域から収集することを可能にし、文字は計算もなにも出来ない理不尽な形で人間の心を力づける。
哲学と宗教は、あらゆる知識を結びあわせ燃え上がらせる触媒の作用をし、心理学はそれらの学問が筋道立てて考えているものの割れ目を警告する
(P109)。

私はかつてずいぶんと人間の心が分からない女であった。
実際の目も近視だが、心理的にもひどい近眼であった。
私はたくさんの人たちを誤解し、表面でだけで判断し、急いで結論を出そうとした。
しかしなん年か経ってその人に会ってみると、私はたいていの場合、かつてその人に対して自分がなにも見ていなかったのだという思いに捕らわれた(P113)。

どのような母親も教師も子供も、多分、まるっきりまちがわずに済むことはないのである。
いいと思ってやったことが、そうでない結果を生むので、私たちはきりきり舞いさせられる。
口惜しく、情ない(ママ)。面目なく、泣きたい思いをし、何もかもするのがいやになったりする。
しかしそのまちがいを、自ら認めるのが恐らく勇気の本質なのである。
誰もがまちがうのだから、自分も又まちがうに違いないと思うのが勇気なのである。
そしてまちがう可能性を怖れつつ、限りある善意と能力のなかで、居ずまいを正して、一切の権力から解放された自由の中で、自分の小さな信念を
貫き通す勇気を持つことが、最も効果的な教育の姿勢であると思う。
どんなに眼のある正しい人間でも、勇気のない人は本当の教育者ではない。
なぜなら、賢さと共に、勇気だけが人間が世の中の奔流に押し流されることを阻止できる(P130)。

スポーツの最大の産物は、練習の鬼になり、勝って「なせばなる」などを確信することではない。
練習しても練習しても、才能に限度のあることを知り、常に自分の前に強者がいて、自分に砂埃をかけて行くのに耐えて、自分を見失わないことなのだろう、と思った。
私たちの誰もが、この世でトップではない。
記録は常に更新され、地位は常に交替させられる。
世評は流動そのものである。
トップになることを信じるのは幻を追うことと似ている
私は息子が二流以下に耐える心身の構えを持っていることを見た時に、改めて感謝したのである(P136)。