『不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か』

不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か
光文社
長山靖生

読後の感想
 単なる自己批判本かと思いきや、その実は実感に基づく強烈な教育批判の本でした。
もちろん単純な批判ではなく、良くするための批判で、とても有益です。
 子供に勉強させるのに、そもそも大人からしてダメである、との内容の文章はドキッとしました。自分の身に置き換えて読むと、思うところが多々あります。
学歴か、実力か、という不毛な問い(P056)
努力と報酬が反比例する社会(P209)
 の二つの章は、秀逸です。
 この本を読むと、日々の努力の大切さが本当に身に染みます。

印象的なくだり

教育改革もまた格差を拡大する方向へ向かっている。
なぜそうなるかというと、(中略)、単純にいって改革に携わる人々は、政治家や官僚や諮問委員会に招かれる有識者(学者や財界の代表)にしても、みな「勝ち組」の人たちだからだ。彼らにとって二極化は、自分たちの利益の増加を意味する。
とはいえ、これは彼らが自分たちの私利私欲のために改革を利用しているという意味ではない。
そういうつもりがなくても、指導者層からは彼ら自身が不利益を被るような発想は、生まれ得ないということだけだ(P015)。

結局のところ、ペーパー試験による評価は、その人の知識量・学力を測定する方法としては、相対的に不公正な要素が入り難いという意味で、適正な手段ということになるのだろう(P027)。

しかし現在の日本人の不勉強ぶりは、子供にお勉強させれば、それでいいというようなレベルを、とうに超えている。
自戒を込めていえば、すでに大人からしてダメである。本当にお勉強すべきなのは、我々大人の側、親の側なのではないか。
孟母三遷の教えというのがあるが、学校の近くに引っ越すよりも親自身が学ぶ姿勢を示してこそ、子供に「がんばれ」とか「やれば出来る」と言えるし、その言葉は子供に届くのではないか。
子供の顔色を窺って夜食を作るよりも、一つのテーブルで子供が勉強しているときに一緒に仕事に必要な専門書を積み上げて次々読破するのもいい。
子供に求める分、自らもリスクを担うのである(P030)。

「やればできる」とは「やらなければできない」の虚飾的告白なのである(P038)。

私は「ゆとり教育」の理想それ自体が悪い、とは思っていない。
だが問題は、意欲や思考力、表現力などを評価するのはきわめて難しいという点にある。
それは現場の教員にとっても、過大な期待と責任を負わせるものなのではないだろうか。
そもそも私などは、子供の意欲や思考力それ自体を教員が判定し得るという考えそのものに、空恐ろしいものを感じてしまう(P040)。

創造性は、基礎的な知識や思考訓練があってこそ、発揮されるものである。
言語を知らない人間は、潜在的想像力があったとしても、他人の前で意見を述べたり文章を書くことはできない(P041)。

ゆとり教育
これは人間の学習意欲(向上心)や思考能力の「右肩上がり」を前提にしている。
好意的に解釈すると「ゆとり教育」を立案した人々は、根が真面目で勤勉な性格だから、全ての人間もそうに違いないと思い込んでいるのかもしれない。
これは実際にある話で、ほとんど挫折を経験することなくエリートコースを歩んできた官僚や学者には、意外と性格がよく、話していて感じのいい人たちが多い。
しかも謙虚。だから彼らは、自分たちが特別な努力家だとは考えておらず、「すべての人間は、やればできる」という理想を信じている(P044)。

学歴か、実力か、という不毛な問い(P056)

学校や社会で問題にされている「本離れ」というのはエンターテインメントを中心にした読書全般を指しているわけではない。
古典的な文学作品や思想・哲学の基本図書など、いわゆる「いい本」が、読書問題の対象であって、それらが読まれなくなったということが問題なのである。
それならたしかに、読まれなくなっているとの実感がある(P070)。

高校生が凝るもののなかで、いちばん受験に差し障りがあるのは読書だ、と今でも私は思っている。
はまっているのがバイクやバンドなら、遊んでいるのは一目瞭然だ。
しかし読書となると、自室で勉強をしているふりをしながら、いくらでも本が読める
(P076)。

日本だけではなく、欧米列強と呼ばれたような近代国家もまた、その「かのように」を提示する道徳規範の母胎を国家と呼び、信奉する人々の集団を国民と称した。
ここに国民国家が、近代的自我を持った個人の側にとっても、一つの「救済」であった理由がほの見える。
精神的統合を基盤とする近代国家は、「神の死」以降を生きる個人に、仮借にもせよ共通認識の舞台を提供したのである。
近代国家が「国語」を管理しようとしたのもまた、当然だった。
言葉は思考を規定する。そして言葉は、神に代わって、「かのように」な世界を支配する(P104)。

(前略)倫理に限ってみても、「倫理学について考える」ことと「倫理的に生きる」のは別物である。
だから倫理学に詳しい人が、倫理的でない場合だって、当然ある。実際、倫理学の知識は豊かなのに、その行動はどう見ても倫理的とはいえない知識人がいることを、われわれは知っている。
しかしその場合、倫理的でないのはその人個人であって、彼が知っているところの倫理学の責任ではない(P105)。

(前略)子供の教育は「平等性の確保」の点からも学校に任せたほうがよく、その道徳教育の内容が偏ったものにならないようにするためには、子供を教育する学校や文部科学省の行政をしっかり市民社会が監視すればいい、という考え方もあるかもしれない。
しかし、それはどう考えても甘い。
だいたい自分の子供もろくに監督できない人間に、どうして学校の監視、監督、助言が出来ようか。
それが出来るくらいのしっかしりた親、社会的な発言力も影響力もあるほどの人物なら、そもそも今時の公立学校に子供を通わせてはいないという、序章や第一章で述べた格差問題に立ち戻ってしまう(P107)。

あらゆる教育内容は、教える者自らが学ぶ情熱を持っていることを前提にしてしか、伝わないものだが、特に倫理観はそういうものだ(P119)。

いかなる理想にも与しないという思想は、ニヒリズムではなく、理想が人間のためにあるということ、決して理想のために人間がいるわけではないという当たり前のことを、断じて忘れまいというユマニスムの思想なのである。
日本の教育、ひいては日本社会に最も欠けているのは、自分自身で考え、理論的にかつ紳士的な態度で議論を尽くすという方法の修練のほうだ。
思考する訓練を積んでいない者に、よく討議されたわけでもない結論を押しつけるような教育が施されているのが、最大の問題なのだ
(P157-158)。

信じるというのは、善良な行為ではなく、思考の停止である。
考えるのをやめにして、あとは他人の意見に身を委ねる。それが「信じる」ということだ。
そしてしばしば、安易に信ずる者は、被害者になるばかりでなく、加害者にもなってしまう(P172)。

努力と報酬が反比例する社会(P209)