『「リーダーの条件」が変わった』

『「リーダーの条件」が変わった』
大前研一

読後の感想
大前先生の組織論の本、…かと思いきや中身はかなり政治に特化した政策論の本でした。
しかも、その内容がすこぶるライト(Rのほうね)。
読み終わるまで、大前先生の考え方が変わったのかなと思っていましたが、後でこの新書は雑誌に連載されていたものをまとめたものであることを知りました。

その雑誌の名前は、SAPIO。

まぁ、あとは推して知るべしなんですが、そういうわけで読者層にきちんと切り込んでいく大前先生は見事としかいいようがありません。うん、褒めてます。

とはいえ、自分がリーダー論・組織論のはなしかと思って読んだから、肩透かしをくらったような印象でしたが、現実をベースにした理想論は、読んでいて「なんとか頑張れそうだ」と希望の光を与えてくれるのに充分な内容でした。

たまたま仕事でそのようなことを考えるタイミングだったので

昔は中間管理職の数が少なく職務責任・職務権限が明 確だったので、余人をもっては代えがたいようなリーダーシップのある部長や課長がけっこういた。しかし今の中間管理職は、バブル期に大量採用された世代が 40代になったこともあって「次長」「副部長」「課長代理」「課長補佐」などの職責・職権が明確でないポストがやたらと増え、実際はヒラ社員にけが生えたような仕事をしているケースが多い。職責・職権がはっきりしていないとリーダーシップはふるいようがない。だから、今や余人をもっては代えがたいような中間管理職はほとんどいなくなった(P056)。

なんかは結構グサリと刺さりました。

また、

批判や異論を制御できないのは、「無能」と動議だ。 リーダーシップのない人に限って、反対意見の人を味方につけようとする。これは市町村議会ではよくあることで、「あなたの言っていることもやろう。ただ し、こちらの意見も飲んでくれ」と、2つの政策を通してしまう。当然、納税者にとっては、2倍のカネがかかることになる(P186)。

なども、政治の話にはなっていますが、割とどこにでも見られるような風景です。

煎じて書くと、つまるところリーダーとは「決定する人」であり、この「決定権」だけは余人を持って代えがたいと。
リーダーの決定した結論は必ずしも正しい結論ではないかもしれないし、不本意な人もいるかもしれない。
しかし、この「決定する」という行為だけは、結果よりもむしろ過程の正当性をリーダーとして求められるのではないかな、と思いました。別の言い方をすると公平さ、とか。

そんなわけで、どきどきしながらも楽しく読むことが出来ました。

印象的なくだり

そもそもリーダーは万能ではないし、あらゆる知識を持っているわけではない。むしろ自分以上の知識や能力を備えた人材を選び抜いて部下としてそばに置き、彼らが上司(すなわち自分)の判断に対しても異を唱えられるような有機的なチームを作る能力こそが求められる。それら優秀な部下たちをマネージし、彼らの意見を聞いた上で、総合的に判断して結論を下す-それがリーダーのあるべき姿だと思う(P004)。

グローバルなリスク分散は、最悪の事態を想定した場合、少なくとも「2アウト・オブ3(2out of 3)」の体制が必要だ。すなわち物理的に環境が異なる3か所に同等の機能を分散し、3つのうち2つが稼動していれば現状維持ができ、もし2つがダウンしても残る1つだけで最低限の昨日は維持できるようにしておくのである(P023)。

あ、これって『新世紀エヴァンゲリオン』に登場するマギシステムのことだ、と読みながら思いました。
ちなみにマギシステムとは、第七世代有機コンピュータで、初の人格移植OS。メルキオール、バルタザール、カスパーと名付けられた(由来は上記『東方の三博士』)三機のコンピュータで構成されているものです。

指で数えられるくらいの部下を率いる最前線のリーダーは「率先垂範」でないといけない。まず自分が行動して成果を上げることで部下を鼓舞し、個々の実力をフルに引きだしていくのである。部下と喜怒哀楽を共にする、体育会系のプレイングマネージャースタイルだ。
しかし、数十人、数百人の複数部門を束ねて組織を動かすリーダーになったら、そのやり方は通用しない。いちいち自分がお客さんのところに足を運んだり、部下を一人一人個別に指導したりするのは物理的に不可能、というレベルの問題ではなく、果たすべき役割そのものが異なるのだ(P058)。

基本的に中国人は日本に憧れている。日本に来ると大 半の人は安全・安心・快適で食事も旨い日本が好きになって帰っていく。そういう細かいヒットをたくさん重ねるしか、関係改善を促進する方法はないと思う。 したたかな中国相手に一発逆転のホームランはない、と政治家たちは心得るべきだろう(P114)。

まず、今回の大震災・大津波で、甚大な被害が出た最大の原因は、防災の観点から見て危険な場所に人が住んでいたことである。海に面した低い土地に広がった三陸の町は、過去に何度も津波被害を受けてきた。このため津波に対する備えは、それなりに固めていた。にもかかわらず今回の大津波では、ひとたまりもなかった。それがわかった以上、被災した住民の皆さんの 意見も踏まえつつ、二度と悲劇を繰り返さないよう、津波で壊滅した海の近くは民家ではなく公共の頑丈な(避難にも使える)建物と緑地だけにして、住宅地は安全な高台に移すことを考えなくはならない。そのための費用は全国民で負担する(P118)。

前に書いた田老町のこと

日本の水は現在、全体の65%が農業用水、15%が工業用水、そして20%が水道用水(生活用水)として使われている。その上、最も上流の美味しい水が農業用水、次が工業用水となり、水道用水は最も下流の汚い所で取水している(P150)。

『「離活」――終わりの始まりを見極める技術』

『「離活」――終わりの始まりを見極める技術』
原 誠
講談社

読後の感想
この本を電車の中で読んでいたら、何度かジロっと見られた。なんか周りの人の目がきつかった気がする(気のせい?

印象的なくだり

理論的には、原因が除去できないときは、決断のときだと思います。ですから、破綻の原因は非常に重要な意味があるのです(P033)。

結婚してから問題となることに、宗教や病気の問題があります。当事者は無宗教だったり、健康だったりしても
、家族にカルト的な宗教に入っている人がいたり、精神ないし神経関係の病をもっていたりすることがあります。
その場合、それが嫌だということで、結婚を解消できると思いますか?
できません。
なぜならば、宗教や病気に対する偏見になってしまうからです(P046)。

最高裁判所が、結婚の本質について、「両性が永続的な精神的及び肉体的結合を目的として真摯な意思を持って共同生活を営むことにある」との見解を示したことは前述しました。
昭和六二年九月二日のことです。戦後、いわゆる身分法が改正されてから約四0年の歳月が流れています。しかも、結婚の本質が離婚事件で述べられたというもの興味深いです。すなわち、離婚は、結婚生活の本質抜きにして語れないということが述べられています(P056)。

性格の不一致とは何なのか?
私は、性格の不一致とは「ものの考え方・価値観・人生観が同一ではない」というように理解していたのですが、インターネットでこのような記載を見つけ、なるほどと思う考え方でしたので紹介します。
「性格の不一致」とは、「行動パターンの不一致」だというのです。たとえば、何かトラブルが起こった時、妻は感情的に話そうとするのに対し、夫は黙ってしまう。妻は話さなければ分からないというのに対し、夫は何でも話さなければ分からないようでは夫婦ではない・・・・・・が如しです。これは、「相手が自分の望む行動パターンで対応してくれない」ということで、「行動パターンの不一致」になるというのだそうです(P071)。
不倫をした夫の友人が、密会場所を提供して、いわば不倫の共同不法行為者の一人として一○○万円の慰謝料が認められたというちょっぴり毛色の変わった字案もありました(P079)。

離婚届不受理制度
夫婦ゲンカをしてうっかり離婚届に署名をしてしまった、その離婚届は相手が持って行ってしまったなどという場合、この届けを役所に受理されないよう「不受理申出制度」を利用します。戸籍法ではなく、民事局長通達によって運用されている制度です。
対象となる届出は、離婚届だけではなく、婚姻届や養子縁組届も入ります。これらも相続権を発生させる重要な身分行為だからです。市町村役場に書式があるはずですから、勝手に離婚届が出されるような心配がありましたから、この不受理申出を行ってください
(P087)。

離婚を仕掛ける側の手段・考え方
「離婚」の二文字が浮かんだとき、まず取る方法・考え方は、離婚を仕掛ける側と仕掛けられた側で異なります。
仕掛ける側が「離婚」の二文字を浮かべたとき、まずその理由を挙げてみましょう。
他に好きな人ができたとき、あるいはすでに他の異性と性的関係になってしまった場合、有責配偶者なのですから、相応の償いは覚悟すべきです。とはいえ、それでは「離活」の戦略になりませんから、まずは有責性を悟られない行動をすることをお勧めします。個人的には良心の呵責を感じますが、あくまで戦略としてわりきったアドバイスです。
①帰宅は遅くならないようにする
②土日・休日は家にいる。
③そわそわしない。
④隠し立てしない。
⑤自宅でメールを打たない。
など、前記の予兆と逆の行動を取ってみましょう。「好きな人ができたから別れてほしい」などと、墓穴を掘るような別れの言葉は法律かとしてはお勧めできません。調停・訴訟に進んだとき、この言葉があなたを悪者にする決定打になるからです。
やはり、原点に戻り、「君とは生き方・価値観が合わない。これから一生一緒にいることはお互いにマイナスだと思う」などと、性格の不一致に離婚の理由を求めるほうがベターです。
とすると、やはり、あなたの生き方とパートナーの生き方を観察しておく必要があります。なぜなら、相手から「どうして?」と質問されることが多分にあるからです。そのとき、「君はあのときこういったよね」あるいは「あのときの行動は、ぼくと正反対だった」などと説明することができます。
もし、そのような準備がないと、そのときになって考えたりして不審がられます。「もしかして、他に好きな人ができたんじゃない?」などとカマをかけられたりして、思わず白状してしまうか、白状とまでいかずとも、ドギマギして慌てたりして隠し事があることを察知されたりします(P109)。

仕掛けられた側の手段・考え方
明確に仕掛けられれば、ショックを受けるものの、それなりの対応はありそうです。
まずは、「なぜ?」「どうして?」を連発してみましょう。相手は必ず、理由をいうはずです。「なぜ?」を連発すれば、逆上していても、相手のいうことのいくつかは理解できるはずです。「離婚」の二文字が浮かんだら、まず「なぜ?」と叫び、理由をさぐりましょう。
相手のいうことが少し理解できたとしても、これに同意しないことが必要です。「なぜ?」の次は、「分からない」、「理解できない」と連発しましょう。
そうしておいて、対策を考えることにするのです。それには時間をかけるほうがよろしいようです。時間稼ぎのための「なぜ?」であり、「理解できない」なのです。
逆上して、離婚届に署名してしまったりすると、前提の法律知識として解説した「不受理の申出」が必要になってりします。
つまり、冷静になって後悔しないことが大切です。それには時間を取りましょう。
いきなり離婚を切り出された場合のショックは計り知れないものがあると思いますが、間違っても他の人(たとえば子どもなど)に怒りをぶつけるようなことはすべきではありません(P111)。

破綻の予兆に始まり、何らかの決着が付くまでの夫婦関係をどう生きるか。これはこれで難問です。無視し合えばいいのですが、どちらかが文句をいえば、他方もこれをいい返し、戦線は拡大します。かといって、無視し合っていれば、そのまま「家庭内別居」として時が経過していくだけになります。
家庭内別居は別居と異なって、明確な基準がありません。例の、有責配偶者の離婚請求の条件の一つ、すなわち相当期間の別居に当てはまるわけではありません。とすると、有責配偶者にとってはこの期間は単なる心苦しい時間が続くだけであり、マイナスです。対する相手にとっては、メリットなのかデメリットなのか、判断しかねます(P120)。

離婚参謀を選ぶ
①離婚問題について豊富な経験と卓越した知識があること
②依頼者のあなたの話に耳を傾けてくれること
③相手方の動きを察知する推理力のあること
④一種のカウンセリングを含め、適切な対応をしてくれること(P151)。

実際、特別な出会いであったはずの男女がなぜ別れなければならなくなったのでしょうか。中には、「なぜ別れなければならないのか、自分でも分からない。ただ、今までの人生は自分で選んだ人生ではなかったような気がする。これからは好きなように生きたい」などとおっしゃる方もいますから、他人の私に「なぜ別れるのか」理解できないのもやむえをえないのかもしれません。
ともあれ、誰の言葉だったか忘れましたが、「愛してその人を得るのが一番よい。愛して、その人を失うのがその次によい」という言葉がありました。この言葉に依れば、離婚経験も捨てたものではなさそうです。愛して一度は得ることができたのですから(P204)。

『コピー用紙の裏は使うな!―コスト削減の真実』

『コピー用紙の裏は使うな!―コスト削減の真実』
朝日新聞社出版局
村井 哲之

読後の感想
生まれて初めて、これほど積極的なコスト削減の内容を読みました。考え方が一気に変わりました。
今までコスト削減という言葉はどちらかというと消極的な、内向的なイメージでしたが、実は積極的で攻めのコスト削減が、経営にとって最も簡単に、そして効果的に利益を生み出せることがわかりました。
それと同時に陥りやすい失敗、固定費のように貸借対照表では見えない費用、減らないと思いこみがちな聖域に手を付けることの重要性を理解しました。
もしも実際にコスト削減に取り組むのならば、117ページからの例を参考にしながら取り組めばとっかかりやすいと思います。

著者も何度も書いていますが、売上をあげるよりコストを削減するほうが、確実で効果的です。

まずは、本を参考に自分の生活にも置き換えて考えてみました。
するとやはり削減できるコストが少なくないことに気付き、はっとさせられました。
そして、二回線ある携帯電話の削減と、プロバイダの見直しをしようと決意しました。

このように、コスト削減は常に考え続けないとダメで、惰性のままいっても意味がないんだなぁとしみじみと思いました。

印象的なくだり
大雑把な形での効果の検証を続けてると、せっかくの改善活動の結果が正しく見えなくなります。正しく見えていないと、次なる活動につなげることができません。何が効果があって、何がなかったのか?が、わからないことには次なる手が打てないのです(P020)。

売上をあげるのは至難だが、コスト削減はコストをかけずに行うことができる。正しい考え方の下に推し進めていけば、必ず成果に結びつくのです(P030)。

見えないものが見えたら、勤勉な日本人は大きく変わります。ましてや、そこに目標と評価の仕組み、それもわかりやすい収入に直結したものがあればなおさらやる気が増します。
「見える化」と「共有化」と「明快な分配ルール」は、従業員のモチベーションをも大きく変えたのです
(P033)。

強い組織とはいかなる組織をいうのでしょう?
諸説あると思いますが、私は「経営」と「現場」のすき間が少ない組織
だと思います(P039)。

コスト削減に取り組んでも、いずれは従業員の士気が落ちて継続しない、されない、という”トラウマ”になっている経営者もいますが、そうした経営者に会ってみると、経営者自身のコスト削減に対する価値観や位置づけが低い、ということがよくあります。経営者自身がコスト削減に常にスポットを当て、評価の対象にし続けている企業において、コスト削減が定着しないはずがありません(P074)。

すべてを自社でやろうとする姿勢自体は否定しません。ただ悲しいことに、鏡に映さない限り自分の姿は見えないのと同じで、自らのコスト削減の状況が世間の企業の中でどのあたりに位置するのかを、経費項目ごとにキッチリと描き出すには多くの鏡が必要です(P078)。

コスト削減を推し進めるにあたって、一番大事なことは、まず、自社のコスト構造の全体像(これを”コストの森”と呼びます)をつかむことです(P124)。

金額の多い経費項目から順番に、より細かなデータを収集します(中略)。
この作業の目的は、「削減の優先順位」をつける(どの木から切り倒すのか?の順番を決める)ことです(P125)。

下水道料金は、上水道の使用量がそのまま下水に流れるとみなし、上水道の使用量と同じ量に下水道の料金単価を掛けて計算します。
しかし、実際にはクリーニングタワーやボイラーで蒸発する分や製品用に使った分、清掃や散水でなくなる分など、下水に入らない消失分が少なからずあります。「出口管理」は、そこに目を付け、ビルや工場の排水を一カ所に集める場所に計測器(電子流量計)を設置。実際に下水道本管に入った下水の量を測定し、その実測値を基に下水道料金を支払うという考え方です(P166)。

「現場」は常に、「経営」に対して評価をして欲しいと思っています。もっとはっきり言えば「現場」は「経営」からの評価に飢えています(中略)。
組織の中に「社員を褒める」という仕組みを作る価値が大いにあります(P197)。

「現場は何でわからないんだ!何で伝わっていないんだ」、経営サイドはしばしばこう思いがちですが、こうなったらそこでおしまいです。一生「現場」には伝わりません。
伝わっていないんじゃなくて、伝えられていないのです。徹底して「現場」の目線で伝える努力を繰り返す、もっと言えば、伝わるまで努力することを諦めない姿勢が求められま
す(P200)。

「経営」と「現場」のすき間を埋めて強い組織が作り上げるためには、「経営」の側が考え方を変え、行動を変えて、「現場」に近づいていく必要があります(P200)。

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『レバレッジ時間術―ノーリスク・ハイリターンの成功原則』

『レバレッジ時間術―ノーリスク・ハイリターンの成功原則』
幻冬舎
本田 直之

読後の感想
この本で言いたいことを集約すると、スキマ時間を利用して時間を節約してもなんにも意味がない(「節約」でブレイクスルーは起きない(P.041))ということと、何度も繰り返していることを、効率化していつでも再現できるようにし、そこで浮いた時間をさらに効率化に使うという二点です。

「レバレッジリーディング」を読んだときにも強く感じましたが、本当に時間を大切にする人だなと思います。
たとえば、時間がもったいないため本田さんがサラリーマン時代には自腹でタクシー通勤をしていたエピソードなど、ちょっとやりすぎでは?と思うほどの徹底ぶり。
まぁ、費用対効果を考えているとは思いますが・・・。

非常に分かりやすく、とっかかりやすくかかれているので、この手の本にはありがちですが万人向けに書かれていると思います。まぁ、まずはやってみようということです。

印象的なくだり
問題なのは、「忙しい」=「これ以上何もできない」と思い込んでしまうことです。つまり、効率化する努力を放棄して、勝手に自分の限界を引き下げてしまうわけです。これでは、時間資産はできません(P.022)。

具体的に、「時間を投資する」とはどういうことか。その核は、「仕組み」をつくるために時間を使うということです(P.033)。
このようにして「仕組み」をつくったり、仕事の段取りを考えたり、スケジュールのつくり方を工夫したりすることで、時間資産を増やす。これが「時間投資」の基本なのです(P.036)。

「仕組み化」とは、別の言葉で言えば、再現性を持たせることです。(中略)再現性を持たせられれば、人に教えることも可能になるので、単に個人レベルではなく、チームのメンバーの時間資産を増やすことにつながります(P.040)。

試験まで時間が少ししかないとなれば、勉強の計画を立てる時間も惜しい、すぐにテキストを読み始めなければ・・・と思いがちなのですが、そうやって見切り発車してしまうと、たいていの場合、試験日までに最後まで終わりません(P.077)。

具体的にはまず、時間の使い方を、大きく四つのカテゴリーに分類します。一つ目は自己投資である「インプット」の時間。この内容は人によって変わってきますが、私の場合は、人に会う時間、読書の時間などがこれにあたります。二つ目は仕事をしてる「アウトプット」の時間、三つ目は食事や風呂や睡眠などの「生活」の時間。そして四つ目は自由に使う「プライベート」の時間です。そして、一日二四時間を、三0分~一時間単位くらいで、四つのカテゴリーに分類して記録するのです(P.079)。

そもそも社員が会社紹介をしないのは、「紹介なんてする必要ない」「したくない」と思っているからではなく、単なる「うっかり」です。
そういう社員に「忘れるな」と叱ったところで、あまり効果はありません。お互いに労力を使うし、気分もよくありません。それよりも大事なのは、うっかり忘れない仕組みをつくることなのです(P.105)。

眠る前にコーヒーを一杯飲んでおくのも効果的です。カフェインの覚醒作用は、体に取り込んで三0分後ぐらいから効きはじめます。したがって昼寝の前に飲んでおくと、ちょうど起きるタイミングで効きはじめるので、よりスッキリ感が増します(P.138)。

よい睡眠をとる第三のポイントは、週末もパターンを変えない、ということです(P.139)。

寝る前に暗記し、翌朝起きたら、どれぐらい覚えているかチェックし、忘れていたことは、その場でもう一度記憶する。夜になったら再度復習するとともに、新たな知識をインプットする。この作業を何日か繰り返せば、ほぼ記憶は完璧になります(P.142)。

「言い訳」は、単にみっともないだけではなく、何の解決にもつながりません。物事がうまくいかない原因を他人のせいにしているかぎり、自分を変える力はけっしてつきません。言い訳するのがクセになってしまうと、結局、状況だけがどんどん悪化し、ますます他者への恨みつらみが募ってくるという悪循環に陥ります(P.191)。

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『不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か』

不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か
光文社
長山靖生

読後の感想
 単なる自己批判本かと思いきや、その実は実感に基づく強烈な教育批判の本でした。
もちろん単純な批判ではなく、良くするための批判で、とても有益です。
 子供に勉強させるのに、そもそも大人からしてダメである、との内容の文章はドキッとしました。自分の身に置き換えて読むと、思うところが多々あります。
学歴か、実力か、という不毛な問い(P056)
努力と報酬が反比例する社会(P209)
 の二つの章は、秀逸です。
 この本を読むと、日々の努力の大切さが本当に身に染みます。

印象的なくだり

教育改革もまた格差を拡大する方向へ向かっている。
なぜそうなるかというと、(中略)、単純にいって改革に携わる人々は、政治家や官僚や諮問委員会に招かれる有識者(学者や財界の代表)にしても、みな「勝ち組」の人たちだからだ。彼らにとって二極化は、自分たちの利益の増加を意味する。
とはいえ、これは彼らが自分たちの私利私欲のために改革を利用しているという意味ではない。
そういうつもりがなくても、指導者層からは彼ら自身が不利益を被るような発想は、生まれ得ないということだけだ(P015)。

結局のところ、ペーパー試験による評価は、その人の知識量・学力を測定する方法としては、相対的に不公正な要素が入り難いという意味で、適正な手段ということになるのだろう(P027)。

しかし現在の日本人の不勉強ぶりは、子供にお勉強させれば、それでいいというようなレベルを、とうに超えている。
自戒を込めていえば、すでに大人からしてダメである。本当にお勉強すべきなのは、我々大人の側、親の側なのではないか。
孟母三遷の教えというのがあるが、学校の近くに引っ越すよりも親自身が学ぶ姿勢を示してこそ、子供に「がんばれ」とか「やれば出来る」と言えるし、その言葉は子供に届くのではないか。
子供の顔色を窺って夜食を作るよりも、一つのテーブルで子供が勉強しているときに一緒に仕事に必要な専門書を積み上げて次々読破するのもいい。
子供に求める分、自らもリスクを担うのである(P030)。

「やればできる」とは「やらなければできない」の虚飾的告白なのである(P038)。

私は「ゆとり教育」の理想それ自体が悪い、とは思っていない。
だが問題は、意欲や思考力、表現力などを評価するのはきわめて難しいという点にある。
それは現場の教員にとっても、過大な期待と責任を負わせるものなのではないだろうか。
そもそも私などは、子供の意欲や思考力それ自体を教員が判定し得るという考えそのものに、空恐ろしいものを感じてしまう(P040)。

創造性は、基礎的な知識や思考訓練があってこそ、発揮されるものである。
言語を知らない人間は、潜在的想像力があったとしても、他人の前で意見を述べたり文章を書くことはできない(P041)。

ゆとり教育
これは人間の学習意欲(向上心)や思考能力の「右肩上がり」を前提にしている。
好意的に解釈すると「ゆとり教育」を立案した人々は、根が真面目で勤勉な性格だから、全ての人間もそうに違いないと思い込んでいるのかもしれない。
これは実際にある話で、ほとんど挫折を経験することなくエリートコースを歩んできた官僚や学者には、意外と性格がよく、話していて感じのいい人たちが多い。
しかも謙虚。だから彼らは、自分たちが特別な努力家だとは考えておらず、「すべての人間は、やればできる」という理想を信じている(P044)。

学歴か、実力か、という不毛な問い(P056)

学校や社会で問題にされている「本離れ」というのはエンターテインメントを中心にした読書全般を指しているわけではない。
古典的な文学作品や思想・哲学の基本図書など、いわゆる「いい本」が、読書問題の対象であって、それらが読まれなくなったということが問題なのである。
それならたしかに、読まれなくなっているとの実感がある(P070)。

高校生が凝るもののなかで、いちばん受験に差し障りがあるのは読書だ、と今でも私は思っている。
はまっているのがバイクやバンドなら、遊んでいるのは一目瞭然だ。
しかし読書となると、自室で勉強をしているふりをしながら、いくらでも本が読める
(P076)。

日本だけではなく、欧米列強と呼ばれたような近代国家もまた、その「かのように」を提示する道徳規範の母胎を国家と呼び、信奉する人々の集団を国民と称した。
ここに国民国家が、近代的自我を持った個人の側にとっても、一つの「救済」であった理由がほの見える。
精神的統合を基盤とする近代国家は、「神の死」以降を生きる個人に、仮借にもせよ共通認識の舞台を提供したのである。
近代国家が「国語」を管理しようとしたのもまた、当然だった。
言葉は思考を規定する。そして言葉は、神に代わって、「かのように」な世界を支配する(P104)。

(前略)倫理に限ってみても、「倫理学について考える」ことと「倫理的に生きる」のは別物である。
だから倫理学に詳しい人が、倫理的でない場合だって、当然ある。実際、倫理学の知識は豊かなのに、その行動はどう見ても倫理的とはいえない知識人がいることを、われわれは知っている。
しかしその場合、倫理的でないのはその人個人であって、彼が知っているところの倫理学の責任ではない(P105)。

(前略)子供の教育は「平等性の確保」の点からも学校に任せたほうがよく、その道徳教育の内容が偏ったものにならないようにするためには、子供を教育する学校や文部科学省の行政をしっかり市民社会が監視すればいい、という考え方もあるかもしれない。
しかし、それはどう考えても甘い。
だいたい自分の子供もろくに監督できない人間に、どうして学校の監視、監督、助言が出来ようか。
それが出来るくらいのしっかしりた親、社会的な発言力も影響力もあるほどの人物なら、そもそも今時の公立学校に子供を通わせてはいないという、序章や第一章で述べた格差問題に立ち戻ってしまう(P107)。

あらゆる教育内容は、教える者自らが学ぶ情熱を持っていることを前提にしてしか、伝わないものだが、特に倫理観はそういうものだ(P119)。

いかなる理想にも与しないという思想は、ニヒリズムではなく、理想が人間のためにあるということ、決して理想のために人間がいるわけではないという当たり前のことを、断じて忘れまいというユマニスムの思想なのである。
日本の教育、ひいては日本社会に最も欠けているのは、自分自身で考え、理論的にかつ紳士的な態度で議論を尽くすという方法の修練のほうだ。
思考する訓練を積んでいない者に、よく討議されたわけでもない結論を押しつけるような教育が施されているのが、最大の問題なのだ
(P157-158)。

信じるというのは、善良な行為ではなく、思考の停止である。
考えるのをやめにして、あとは他人の意見に身を委ねる。それが「信じる」ということだ。
そしてしばしば、安易に信ずる者は、被害者になるばかりでなく、加害者にもなってしまう(P172)。

努力と報酬が反比例する社会(P209)