『「心の傷」は言ったもん勝ち』

「心の傷」は言ったもん勝ち
中嶋聡
新潮社

読後の感想
 タイトル自体は、若干攻撃的ですが、内容はとてもひたむきで心に残る内容でした。
内容を簡単にまとめるなら、「もっとよく考えて、努力してから、モノを言え」ということでしょうか。
とにもかくにも、世間には無責任で主観的にモノを言う人間が多すぎです。
そして、その内容が「心に傷を受けた」類のものであるなら、なぜかその内容が「絶対に正しい」かのように、のさばってしまうのです。
 そんな現状について一石を投じる内容でした。
 5章の「被害者帝国主義」は、絶望的な気持ちになれるのでオススメ。
 逆に、7章の「精神力を鍛えよう」はとても元気になります。
 特に中に出てきた、故西本育夫さんのお話は努力の大切さを教えてくれました。
何度も書くようですが、タイトルで脊髄反射的に批判しては大局を見誤りかねないと感じました。
是非落ち着いて読んで欲しい本です。

印象的なくだり

「心に傷を受けた」と宣言したら、あとはやりたい放題。
詳しい検証もなく、一方的に相手を加害者と断罪する-そんな「エセ被害者」がのさばっている現代日本。
PTSD、適応・パニック障害から、セクハラ、痴漢冤罪、医療訴訟まで、あらゆる場面で「傷ついた」と言い分が絶対視されている。
そう、「被害者帝国主義の時代」が到来したのだ(カバー見返し)。

もともと人間の行為というものは、その場の性質や、そこでの人間関係の性質をみなければ、その意味も善悪も判断できません。
いまでは、何かそれらしい発言や行為があると、「あっ、それセクハラだよ」などという人がいます。
子供でも、先生のそれらしい発言や行為をみつけると「先生、それセクハラ」などといって、いきなり先生-生徒という垂直な関係を飛び越えて、対等な人間同士という立場で先生を注意したり非難したりすることができます。
しかし、このような発言や行為の断片的なとらえ方は間違っています。
全体として悪意ある文脈が伴っていなければ、問題にするにあたらないとするのが判断の原則であるべきでしょう。
とくに相手をおとしめたり、変ないたずらをしたりしようとして行ったものではなく、自然な状況で行われた発言や行為であれば、そうそう法に触れたり、むずかしい規則に触れたりするようなものであるはずがないでしょう(P065)。

(前略)大変ショックを感じたという、それだけのことで、誰にでもありそうな行為の評価が定まり、しかもそれが一人の人間の社会的生命を抹殺するほどの影響を与える、ということがあってよいものでしょうか(P073)。

被害者がすべてを決める
(前略)二次被害の防止などの理由で、その検証はいっさいされず、被害者がいやな思いをしたと言っているのだからとにかくセクハラだ、とされてしまうのが普通です。
ここには、「被害者がセクハラと言ったらとにかくセクハラ」という、恐ろしい構造があるのです。
近頃は子供でも、誰に教えられるのか、よく無邪気にそう口にします。
しかし、そう言う人の多くは、この構造の持つ恐ろしさに十分には気づいていません。
場合によっては悪意にもとづいて、人を陥れるためにセクハラという口実が用いられる、あるいは政治抗争に利用される、という可能性さえありえます。
同じことは、いじめでもよく言われます。
「相手がいじめと感じたらそれはいじめなんだよ」などといわれます。
一見すると、いじめられる弱い人を最大限に救うような、ありがたい言葉のように見えます。
しかし、ひとたび思いがけず「加害者」の立場におかれた人に対しては、この構造はその恐ろしさを遺憾なく発揮します(P073-74)。

本来、自分の感じた不快感が問題だと思うなら、それを健康診断のもつ社会的意味や、他者がそれに対して行っている意味づけと並べて置いてみるべきです。
それでもやはり自分の感じた不快感には社会的・公共的な意味があり、放置できないという結論に達したなら、そこではじめで言挙げすべきものです。
たんなる不快感の言挙げは、わがままと非難されても仕方のないものであるはずであり、その点の葛藤を経て、問題にするかどうかを決めるべきものです。
ところが、「セクハラ」というレッテルの力がもたらす、本人たちのみならずまわりの人々もセクハラの訴えイコール「その原因を作った者が絶対に悪い」と信じ込んでいるという事実によって、物事を主張することに伴う葛藤がバイパスされてしまっています。
このため、たんなる自分の主観的な思いの吐露にすぎないような、安易な主張が許される結果になっているのです。
そればかりではありません。このような言葉を使って、意図的にある見方をすることによって、自分の有利な結論へと誘導していこうという傾向も感じられます(P081-082)。

自分で決めるというのは、自分の責任において決めるということでしょう。
その責任には、必要なことがらを自分で医師に質問する責任や、もっと詳しく知りたいのなら自分で図書館やインターネットを通じて調べる責任というものも、含まれるのではないでしょうか。
C型肝炎の発症から肝癌の発症まで五年以上もあったのなら、なおさらでしょう。
もしそうでないなら、自分で決めるということにいったいどれほどの意味があるのでしょうか。
「はい」とか「いいえ」と返事をしておきながら、結果が悪ければ「知らされていなかった」と文句を言えるなら、自己決定権という大げさな言葉が泣こうというものです(P101)。

「にもかかわらず」の能力
ドイツには、「ユーモアとは『にもかかわらず』笑うことである」という言葉があるそうです。
これを敷衍して、精神力とは「にもかかららず」の能力だと言ってよいだろうと思います。
自分にはとても無理だと思いがちのところで、「にもかかわらず」高い目標を維持し、がんばる。
悔しくて泣きそうな気分である「にもかかわらず」、相手を思いやって感想戦(局後の検討)に応じ、笑顔を見せる。
これはほんとうに高貴なあり方だと思います(P166)。